第4話
藤原良房からの使いが篁のもとにやって来たのは、中秋の名月の晩のことだった。
月を見ながらの歌会が屋敷で開かれるから、篁も来ると良い。
そんな良房からの
良房の住む屋敷は左京三条二坊にあり、
その晩、閑院邸には多くの牛車が集まってきていた。どの牛車も
篁はそんな牛車の間をすり抜けるように徒歩で屋敷の門扉の前まで行くと、顔見知りの藤原家の家人に頭をさげて、するりと屋敷の中へと入っていった。
屋敷に篁がやって来たことを確認した良房は篁の袖を引くと、御簾で囲まれた誰もいない部屋へと連れ込んだ。
「なんだ。慌ただしいな、良房」
「篁、頼む。私の代わりに歌を詠んではくれぬか」
「どうした藪から棒に」
「実は本日の歌会に例の姫が来るのだ」
「例の姫?」
「文のやり取りをしておる姫だ」
「ほう」
篁は興味深そうな声をあげると良房の顔をじっと見た。良房は懇願するような表情で篁のことを見つめており、篁の返答次第では泣き出すかもしれないと思えるほどに怯えた顔もしていた。
「頼む、篁。この良房の一生のお願いだ」
「一生の願いというものは、一生に一度しか使えぬのだぞ、良房」
「わかっておる。だから、それをいま使う時なのじゃ」
必死に懇願する良房を見た篁は、耐えきれなくなりおもわず吹き出してしまった。
「な、なにがおかしいのだ、篁」
「そんなにも困っているのか、良房は」
「当たり前であろう。この場で私がおかしな歌を詠んだりしたら、文を書いているのが私ではないとばれてしまうだろう」
「それでも良いのではないか」
「な、なにをいうか」
「そろそろ、本当の自分をその姫に見せてはどうだ、良房」
篁は優しい口調で良房に言う。
良房は困ったような表情をしてみせたが、口はへの字口となっており、なにか納得できないような顔だった。
「もし、私が自分の歌を詠んで、嫌われてしまったらどうするのじゃ」
「きっと姫は良房のことを嫌ったりはしない」
「本当か、篁」
「ああ」
そんなやり取りをしていると、御簾の前を通りかかった人影が足を止めて、御簾の中を覗き込んできた。
「これ、何をしておる。潔姫様がお待ちじゃぞ、良房」
「すぐに参ります、父上」
顔をのぞかせた人物。それは良房の父である藤原冬嗣であった。
「篁も一首詠んで聞かせてもらう故に、良き歌を考えておくのじゃぞ」
冬嗣は笑いながらそう言うと、その場を去っていった。
篁は冬嗣の言葉に驚きを隠せなかった。確かに冬嗣はいま潔姫様といったはずだ。もし、それが篁の知る潔姫様であるならば、とんでもないことだった。
「おい、良房。潔姫様というのは……」
「すまぬ、篁。騙すつもりはなかったのじゃ」
良房は額を床に擦り付けるかのように篁に対して頭をさげた。
「まさか、私はお前に成りすまして潔姫様への文を書いていたというのか」
「本当にすまぬ」
頭を下げ続ける良房に対して篁はふっと気が抜けたようなため息をついた。
「良い。頭をあげよ、良房。それで、お前は本気なのか」
「も、もちろんじゃ」
「そうか。ではなおさら、自分で歌を詠まれるが良い。今後、お前のために私は歌は詠まぬ。わかったな」
「あ、ああ。わかった」
良房はそういったものの、どこか不安げな表情を浮かべていた。
歌会がはじまると多くの人々が月の見える部屋へと集まってきた。
普段であれば御簾で区切られている部屋も、本日はすべて御簾をあげており、大きな一部屋となっている。
そこには普段目にすることは無い、朝廷の重役たちの顔が揃っていた。
「おお、篁ではないか」
そう声を掛けてきたのは、
「逸勢様、ご無沙汰しております」
「今宵は篁も歌を詠まれると聞いておるぞ」
「私の歌なぞ、他の方々に比べましたら」
「謙遜するでない。空海殿もお前のことは褒めておったぞ」
橘逸勢と空海は共に遣唐使船で唐へと渡り、留学していた仲であった。逸勢は唐で書と琴を学んできており、どちらもその道の第一人者として知られていた。
「あまり気を張らずに楽しむことじゃ」
「そういえば、潔姫様もいらしているとか」
「耳が早いな、篁。あの方の琴は本当に素晴らしいぞ」
逸勢はそう言うと、篁の肩をぽんと手のひらで叩くと、別の人に話しかけに行くために去っていってしまった。
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