第3話

 幼き頃より篁には、奇妙なものが見えていた。

 それは人の死の直前に見える黒い渦の塊であったり、鬼火であったり、狐狸やあやかしと呼ばれる類のものであったりした。幼き頃は、これは誰しもが見えているものなのだろうと思っており、大人は当たり前のことなので誰も口にしないのだと思いこんでいたのだが、実際には他の誰にも見えておらず、自分だけが見えているものだということを後になって知った。

 誰もそのようなものは見えないと、教えてはくれなかった。黒い渦が見えるなどという篁のことを小野家の家人たちは奇妙な子どもだと思っていただろう。

 父の漢詩仲間に、空海くうかいという僧がいた。遣唐使船で唐に渡り、密教というものを持ち帰った高僧であるが、篁にとっては単純に書の先生というのが空海であった。空海は後に三筆さんぴつと呼ばれるほどの能書家であり、そんな空海に書を習うことが出来た篁は恵まれた環境にいたといえるだろう。

 篁は一度、空海に自分の見える黒い渦の塊などについて質問したことがある。すると空海は「なるほど」とひと言だけつぶやいて、篁に数珠をひとつ渡した。

「黒い渦などが近づいてきた時、篁はどうしていますか」

「どこかへ行けと心の中で念じています。すると、黒い渦は近づいてきません」

「なるほど。祓うことは出来るのですね。もし、どうしても祓えないものがやって来た時は、この数珠を握り、真言しんごんを唱えなさい」

 そういって空海は真言をいくつか教えてくれた。

 今日に至るまで、空海から授かった数珠を使うほどのモノに出会ってはいなかった。昨夜、足を掴まれた際は数珠を使う時が来たかと思ったが、太刀で祓える程度で済んでいた。

「なぜ自分だけ、このような厄災に見舞われなければならないのでしょうか」

 篁はそう空海に聞いたこともあった。

 その問いに対して空海は優しい笑顔を浮かべてから、答えた。

「これを厄災だと思うのですか、篁は。これが厄災かどうかは、いずれわかることです。この答えを知るには時が来るのを待つしかありません」

「はあ……」

 答えを濁された。篁はその時、そう思っていた。

 篁は昨晩の出来事を空海に報告しようと思い、空海の居住している大内裏にある中務省へと向かったが、空海は留守であった。空海の弟子の僧によれば、空海は旧都である平城京へいじょうきょうに隣接する東大寺という寺へ赴き、仕事をしているとのことだった。

 空海がいないのであれば、仕方がない。そう思い、中務省を後にしようとした時、どこからか甲高い鈴の音のような音が聞こえたような気がした。

 この音はどこから聞こえたのだろうか。篁が辺りを見回していると、中務省の建物に隣接している陰陽寮からひとりの男が出てきた。その男は烏帽子に白い水干といった姿をしていることから、陰陽師であるということがわかった。

 背は小柄で、妙に色が白く、唇は朱でも塗っているかのように赤い。そして、涼しい顔をしていた。

 その陰陽師と目があった篁は、軽く頭を下げて会釈をした。

 すると陰陽師も頭を下げたが、その唇には笑みがあったように見えた。

 どこかで会ったことがあるだろうか。篁はふと気になり、もう一度振り返って、その陰陽師のことを見ようとしたがすでに陰陽師の姿はどこにもなかった。

 妙なこともあるものだ。篁は首を傾げながら中務省を後にし、式部省へと向かった。式部省には大学寮が存在しており、篁はその大学寮で文章生として官人になるための勉強を重ねていた。

 大学寮は、紀伝きでん(中国史)、文章もんじょう(文学)、明経みょうぎょう(儒教)、明法みょうぼう(法律)、算道(算術)といったものを文章生たちに教え、未来の官人を育てる機関であった。この頃の朝廷は唐の文化を多く取り入れており、遣唐使船を派遣しては留学生るがくせいたちに唐で様々な学問などを学ばせており、国内の学問も紀伝や明経などといったものが重要視され、文章においても漢詩を学ぶなどされていた。そんな大学寮内で篁は特に文章では優秀な成績を収めており、将来は遣唐使船に乗るような人物になるのではないかと噂されるほどだった。

 大学寮での授業を終えた篁は式部省の建物を出ると、自分の屋敷へ戻るために大内裏内を歩いた。朱雀門を抜けて大内裏を出る頃には、西にある太陽は山の向こう側に顔を隠しはじめ、辺りは次第に暗くなっていった。

 大内裏を出ると、まっすぐに伸びる朱雀大路がある。この南北に伸びる朱雀大路を中心に大内裏から南を向いて、洛中らくちゅうの左側を左京、右側を右京と呼んでいる。

 篁の住む屋敷は右京にある借家であった。屋敷といっても、それほど広い家ではない。それでも、篁がひとりで生活する分には十分な広さはあった。

 右京は、左京に比べると住む人が少ない。なぜ、右京が人気のない土地なのかといえば、それは右京の側を流れる桂川に原因があった。この桂川はよく氾濫を起こすのだ。桂川の氾濫により、右京の家々は何度も浸水被害や汚泥被害、もっと酷いときは家ごと川の水に流されてしまうといった被害を被ってきていた。そんなことが続くため、次第に右京に住む人々の数は減っていっているというのが現実だった。

 家賃が安い。篁が右京に住む理由はそれだけである。文章生である篁には、毎月穀倉院から学問料と呼ばれる給料が支給されていたが、その給料では食べていくのがやっとなのだ。基本的に文章生となるのは貴族の子か、優秀な庶民である。篁も貴族の子ではあるものの、家族は父のいる大宰府で生活しており、篁はひとりで生活していかなければならないのだった。

 夜になると右京は人気ひとけもなく、寂しさすらも感じさせる。通い慣れた道を篁が歩いていると、前から人が歩いてくるのが見えた。女である。暗がりのため、顔はよく見えないが若い女のようだ。

 なぜだか、篁は嫌な予感を覚えた。

 篁が女とすれ違おうとした際、ちらりと女の顔が見える。その女の顔を見た篁は、息を呑んだ。

 その顔には、目や鼻、口というものは存在せず、顔の中央に大きな黒い渦があるだけだった。

 目はなかったが、女と目が合ったという感覚があった。しかも、こちらをじっと見てきている。

 動けない。篁は自分の身体がいうことを聞かないことに焦りを覚えた。

 女の顔の中心にある黒い渦が大きくなり、篁のことを飲み込もうとする。

 その刹那、篁の着ていた直垂の腹で何かが弾けた。

「あなやっ!」

 そう女の声が聞こえた。

 それと同時に篁の身体は動けるようになっていた。

 篁は地を転がるようにして、女の前から身体を逃がすと、振り返って腰に佩いた太刀へと手を伸ばした。

 しかし、女の姿はまるで霧が晴れるかのように消えてなくなっていた。

「また、いずれ」

 そんな声がしたような気がし、篁は辺りを見回したがやはり女の姿はどこにもなかった。

 一体何だというのだ。

 篁は腹のあたりに痛みを覚えて、そっと撫でてみた。すると、そこに入れておいたはずの数珠が粉々に砕け散っていることに気がついた。

「空海様に助けられたのか……」

 篁はそう独り言をつぶやくと、屋敷に戻るため、足早に歩きはじめた。

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