第2話

 良房が買い求めた筆と文用の紙を使うのは、篁であった。

 大内裏にほど近い、藤原北家当主である藤原冬嗣の屋敷。寝殿造しんでんづくりの建物と広大な庭が広がっており、中庭にある池は小舟を浮かべることができるほどの大きさがあった。この屋敷のあるじである藤原冬嗣は朝廷の右大臣であり、そして良房の父であった。

 すだれに囲われた広い部屋は良房が使用している部屋であり、その部屋の隅にある文机には篁の姿があった。すらすらと筆を走らせる篁の姿を見つめる良房は小さくため息をつく。

「私はお前が羨ましいぞ、篁」

「どういうことだ」

 手を止めた篁は振り返って、そう良房に問いかけた。

「背は高く、武芸達者、それでいて漢詩や和歌も詠めて、字も上手い。こんな完璧な男が他におるか」

「これだけが出来ても、何の役にも立っておらん」

「何をいうか、篁。お前は私の役に立っているではないか」

 良房はそういって口元に笑みを浮かべる。

 篁が行っているのは、良房のふみの代筆であった。良房はとある女性ひとと文のやり取りをしていた。しかし、字を書くのが苦手ということと、良い和歌など詠めないということで、篁に代筆をお願いしていたのだった。

 良房の文の相手は、とても綺麗な字を書く女性だった。和歌も上手く、その時々の気持ちなどを上手く歌に詠んでいる。良房の相手ということだから、それなりに貴族の娘か何かなのだろう。篁はそんな想像をしていたが、良房は相手が誰なのかを篁には教えてはいなかった。

「この梅の花がどうこうというのは何を書いているのだ、篁」

「そのままであろう。庭の梅の木に咲いた花が美しかったということを良房に伝えておるのだ」

「そうか。花が美しいか……。それならば、そう書けば良いのに」

「風流というものを知らんのか、良房は」

 篁はそういって笑う。

 こんな良房であったが、女性からの人気は高く、多くの文が良房のもとには届けられていた。これに対して良房は、これは自分が女性たちに慕われているのではなく、父の右大臣という地位がそうさせているのだという。確かに、ここで良房のことを射止めておけば、将来は上級貴族の妻となることは間違いない。しかし、それだけではないだろうと篁は思っている。何よりも、この良房は優しい人なのだ。自分では気がついていないのかもしれないが、その優しさが女性を惹きつけているに違いなかった。その証拠に、良房は女性から文を貰えば、必ず返すようにしていた。ただ、本命である綺麗な字を書く女性に対してだけは篁に文を書かせ、それ以外の相手には良房自ら文を返すようにしていた。

 篁は本命の女性にも自分で文を書けば良いのにと良房に言ったことがあるが、良房はそれを拒否して篁に文を書くことを続けさせているのだった。

「なあ、篁。お前は文を貰ったら、どのような文を返すのだ」

「そのようなもの、貰ったことはないわ」

「なぜじゃ。お前のように背が高く……」

「このような偉丈夫では、女子おなごたちは怖がって近づいては来ないのだよ、良房」

「そうなのか」

 良房はつまらなそうな顔をすると、篁の書いた文に目を通しはじめた。

 文には良房の屋敷にある梅の木も花が咲き乱れているといったことが書かれていた。どうすればこのような文が書けるのか。良房は篁の書いた文を読みながら首を傾げた。

 良房は篁に文を書いた礼にと、料理と酒を振る舞った。料理は、川魚や獣肉、旬の野菜などを炊いたものが少しずつ小分けにされて出てきた。どれも良いものであり、酒も篁が普段買い求めているものとは違い、どこか澄んだ味がするような気がした。

 しばらく食事を楽しみながら良房と語り合い、篁が良房の屋敷を出る頃には夜の帳が降りていた。

 良房は篁を屋敷まで牛車で送っていこうと申し出たが、篁は夜風にあたって酔いを醒ましたいと告げて、良房の屋敷を後にした。

 夜の平安京みやこというのは、どこか幻想的な雰囲気がある。

 昼間はあれほど騒がしい朱雀大路も、夜中となればと静まり返り、歩く人などはほとんどいない。少し先に見える朱雀門で焚かれた篝火が見えるだけで、あとはほとんど闇であった。

 今宵は新月ということもあり、月の姿を見ることは出来なかった。

 少し酔った篁はゆっくりとした足取りで歩いていた。

 風が心地よかった。

 少し離れたところが一瞬、ぼうっと明るくなった気がして、篁はそちらに気を取られた。

 見えたのは、蒼い炎だった。蒼い炎は、鬼火や狐火、燐火などと呼ばれ人々に恐れられている不吉な炎である。その蒼い炎がふわふわと宙に浮いている。

 嫌なものを見たものだ。篁はそう思った。それと同時に妙な臭いが鼻をついた。何かが腐ったような、生臭いような、何とも言えないような臭いだ。

 篁は足を止めていた。闇の中にいるはずなのに、自分の影が見え、その影が伸びたような気がしたのだ。

 次の瞬間、足を掴まれた。驚いて篁が自分の足元を見ると、影から伸びてきた黒い手が足首をしっかりと掴んでいた。

 慌ててその手を振りほどこうとするが、ものすごい強い力で足は掴まれており、振りほどくことはできなかった。その黒い手は篁のことを影の中へと引きずり込もうと、どんどん足を引っ張ってくる。

 このままでは、まずい。

 自分の足首が影の中へと溶け込んでいこうとしている姿をみた篁は、口の中でもごもごと何かを唱えだした。

 それは、真言と呼ばれるものだった。篁の書の師には空海という僧がついていた。空海は唐より密教を持ち帰り、その密教と真言を組み合わせた真言密教というものを作った高僧であった。いま篁が唱えている真言は、空海から教わったものだった。

 篁が真言を唱え始めると足を掴む手の力が緩んできた。その機会を逃さず、篁は腰にいた太刀たちを抜くと、自分の影へと突き刺した。

 すると獣に似た鳴き声のようなものが聞こえたような気がした。

 自分の足元に目を落とした篁は、先ほどまであったはずの黒い塊のようなものが消え去っていることを確認した。

狐狸こりの類か、それともか」

 篁は独り言をつぶやくと太刀を収めて、再び歩きはじめた。

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