平安奇譚 異聞小野篁伝

大隅 スミヲ

ふでおろし

第1話

 とても目立つ男だった。

 大勢の人で賑わう東市ひがしのいちの中にいても、その姿はひと目でわかる。

 直垂ひたたれ小袴こばかま、頭には烏帽子えぼしといった格好は庶民と変わらないが、身体はひと際大きい。身長は六尺二寸(およそ一八八センチ)と、周りの人々より頭一つ飛び抜けており、まさに偉丈夫いじょうふといっていいだろう。

 歳の頃は二十歳前後だろうか。身体に見合った大きな声で豪快に笑い、周りの人々の注目を集めている。だが、悪い男ではない。それは男の顔を見ればわかることだった。少し幼さが残された整った顔立ちで、時おり見せるいたずらっ子の少年のような笑顔に人々は魅了された。

 男の名は、小野おののたかむらといい、大学寮だいがくりょう文章生もんじょうしょうであった。

 篁と共に歩くのは、色白で育ちの良さそうな顔立ちをした優男だった。名は、藤原ふじわらの良房よしふさという。良房も篁の笑顔に魅了されたひとりだった。良房は篁に比べると身体はあまり大きくない。色白で表情も豊かである良房は、着ている物から見ても、良家の出であるということが一目瞭然であった。それもそのはず。良房の父は、時の右大臣・藤原冬嗣ふゆつぐである。良房は冬嗣の次男で、将来は朝廷の重役に就くことが約束された人物でもあった。その証拠に、良房は今上天皇である嵯峨さがのみかどより寵愛を受けている。嵯峨帝は才能のある人材を見出そうと、有望な若者たちを集めて漢文など様々な教育を施しており、その中でも良房の才能をひどく気に入っていた。

 そして、篁も良房と同じように嵯峨帝のお気に入りのひとりであった。良房ほどではないが、篁の家柄も確かなものである。篁の父、岑守みねもりは参議であり、現在は大宰大弐という大宰府の次官に就いている。祖父はかつて征夷副将軍を務めた人物であり、さらに遡れば、遣隋使で有名な小野妹子の末裔という家柄だった。

 十三歳で元服した篁は、陸奥守となった父に従って陸奥国へと赴いていた。当時の陸奥国は未だ蝦夷えみしの力が強く、至るところで朝廷軍との小競り合いが続いていた。そんな陸奥で篁は武芸の腕に磨きを掛け、名を馳せた。

 しかし、そんな篁のことを嘆く人物がいた。今上天皇である、嵯峨帝であった。父の岑守は、嵯峨帝がまだ神野親王と呼ばれていた頃に東宮少進の役に就き、漢詩などを教えていたという縁があり、嵯峨帝はその息子である篁のことを目に掛けていた。その嵯峨帝が、岑守のようにまつりごとの道には進まず、武芸にばかり磨きを掛けている篁のことを嘆いた。

 その話を篁に伝えたのは、良房であった。嵯峨帝のぼやきとも思える言葉を聞いた良房は、すぐにふみを書いて陸奥国の篁へと送ったのだ。

 良房からの文を見た篁は、大いに慌てた。嵯峨帝が自分のことで嘆いているということを知った篁は陸奥国から単身平安京みやこに戻ると、勉学に励んだ。その結果、篁は大学寮の試験に合格し、文章生もんじょうしょうとなったのだった。

 文章生となってからの篁は、水を得た魚のように様々なことを吸収していき、嵯峨帝からも覚えめでたくなった。そして、嵯峨帝主催の若手を集めた和歌や漢詩を詠む歌会に呼ばれるようになり、嵯峨帝の周りにいる公卿たちからも注目されるようになっていった。

「筆はこれで良いかのう、篁」

「なんでもよい。まあ、強いて言うならば、馬の毛のものが良いかな」

「馬か。狸や鹿などというものもあるようだぞ」

 ふたりは市に出ている筆屋の前で立ち止まり、書や文を書くための筆選びをしていた。

 良房が店の者を呼び、ああでもないこうでもないと言いながら筆選びをはじめると、篁はその場から少し離れたところで、その様子を見ていた。

 ふと、篁の視界に何か黒い塊のようなものが見えた気がした。なんだろうかと思い、篁がその方向へ視線を向けると、そこには大人の頭ほどの大きさの黒い渦の塊のようなものが浮かんでいるのが見えた。

 その黒い渦は人の背丈よりも少し上の辺りをふわふわと浮くように移動しているが、篁以外の人には見えていないのか、誰も気にしている様子はなかった。

 嫌なものを見てしまった。篁はその黒い渦から目を逸らした。その渦を見たのは、これが初めてというわけではなかった。そして、これから何が起こるかということも、篁は知っていた。

「その筆が良いのではないか、良房。買ったら、次の店へ行こう」

 店の前でまだ悩んでいる良房を急かすように篁は言うと、ちらりと横目で渦を確認した。

 渦は痩せた中年男の烏帽子の上をふわふわと飛んでいる。渦の下にいる男は痩せ細っており、顔色は青白く、どこか病んでいるようにも見えなくはなかった。

 まだ消えぬのか、あれは。篁は心の中でつぶやきながら渦の行方を目で追っていたが、これから起きる出来事は見たくはないと思い、目を逸らした。あの渦が見えた時、何が起きるのかを篁は知っているのだ。

「なあ、篁。この筆はどうだ」

「それが良いな。書きやすそうだ」

 篁は笑顔を作って良房に言うと、良房がまだ買うとも言っていないのに店の者を呼んだ。

 この場所から一刻も早く立ち去りたい。篁はそう思っているのだ。

「他に必要な商品はございますかな」

「いや、無い」

 店主が良房に対して問いかけたにもかかわらず、篁が代わりに答える。隣りにいた良房は驚いた様子で篁のことを見ていたが、篁は良房と目を合わせようとはしなかった。

 良房が支払いを済ませ、品物を受け取って店先を離れようとしたところで、叫び声が聞こえてきた。

「あなやっ!」

 その声と同時に、誰かが地面に倒れるような音がした。悲鳴に似た女性の叫び声。人々は何事かと、ざわめき出す。人々の視線は一点に集中していた。

 本当は見たくなかった。しかし、良房がそちらの方へと足を向けたため、篁もそちらを見ざる得なかった。

 そこには真っ青な顔をして泡を吹きながら倒れている男がいた。先ほどのやせ細った中年男である。男は小刻みに四肢を痙攣させていた。

 またか。

 篁は倒れた男のことを見て、そう思った。あの黒い塊が見えた時は、必ず誰かが死んだ。それは幼い頃より見えており、周りにいる大人に言っても誰ひとり信じてはくれなかった。 

「誰か、検非違使けびいしを呼べ」

 商店の店主たちが口々に騒ぎ、大勢の野次馬が集まってこようとしていた。

 黒い渦の塊の存在には、誰も気がついていないようだった。あの黒い渦から無数の腕が伸びてきて、男の身体の中から何かを引きずり出そうとしているのも。

 関わってはならない。それは陸奥にいた頃に、蝦夷の呪術師に言われたことだった。彼女も黒い渦を見ることができた。だから、篁の言うことを信じてくれた。だからこそ、彼女は篁に警告をしたのだ。あの渦とは関わってはならないと。

「良房、行こう」

 野次馬たちと一緒になって倒れた男のことを覗き込んでいた良房の袖を引くと、篁は大股で歩いて足早にその場を離れた。

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