加藤
桜子が去った後も、広間は静かだった。
誰も二人のやり取りに言及せず、ただ目の前の料理や酒に意識を戻そうとしていた。
だが、広間の隅に立っていた警官、加藤はその一部始終を見守っていた。
桜子の父親は無表情で食事を続け、母親は目を伏せたまま、何も言わなかった。二人とも、桜子の去った後も、まるで何事もなかったかのように振る舞っていた。
彼は桜子が婚約者に何も言わなかったことに強い違和感を覚えた。普通なら、少なくとも感情を爆発させたり、何かしらの反応を示すはずだ。
だが、桜子はまるで人形のように冷たく、そして無表情でその場を去っていった。
「彼女に関わった者たちが次々と不幸に見舞われるのは、ただの偶然とは思えない」
加藤は心の中でそうつぶやいた。
桜子はただそこにいるだけで、周囲の人々を変えてしまう。
彼女の手が直接何かを起こすわけではない。
それでも、彼女に関わる者たちはいつの間にか自らの道を見失い、やがて破滅への歩みを始める。
これまでにも、彼女の周囲で姿を消す者、不運に見舞われる者が後を絶たなかった。
だが、彼女は何もしていない。ただ、そこにいるだけなのだ。
婚約を破棄された若い貴族も、その未来を自ら閉ざしたに過ぎない。桜子の存在が、彼にそうさせたのか――それは誰にも証明できない。
「だが、証拠がない以上、どうしようもない。」
加藤は虚しく笑うしかなかった。
彼女は散りゆく桜のように儚くも美しい。
その香りは甘く、出会う者たちはみな、知らぬうちにその毒に侵される。
***
加藤が桜子を初めて知ったのは、彼女が幼い頃に遭った誘拐事件がきっかけだった。
その時、桜子の捜索には警官や多くの人々が関わり、結果として彼女は無事に保護された。
事件は桜子の無事な帰還で一旦幕を閉じたが、加藤の胸にはどこか拭いきれない違和感が残っていた。戻ってきた桜子は確かに彼女自身であるはずだったが、何かが決定的に違っている――その感覚は、今でも加藤の中で色濃く残り続けていた。
彼女を見つめるたびに、あの時感じた不安がよみがえり、彼の心を締め付けた。
そんなある日、遠い村で「桜子そっくりの少女が突然姿を消した」という噂を耳にした。捜査はすでに終わっていたはずだったが、その噂がどうしても気になり、加藤は単独で村を訪ねることにした。
桜子が無事に戻ってきているというのに、なぜそのような噂が立つのか。何かが繋がっている――その疑念が、加藤を突き動かした。
村に到着すると、住人たちは皆、一様にその少女の話を避けるようだった。
加藤がそれとなく話を振っても、まるでその子のことを知らないかのように振る舞い、話題が消されてしまうかのようだった。
少女の行方について何も語られず、まるで彼女はこの世から存在そのものが消えてしまったかのようだった。
「その子は……もういないよ」
老人の一人が短くそう告げるにとどまったが、それ以上の情報は得られなかった。あまりに自然な口ぶりが、かえって不気味さを感じさせた。
歩き疲れた加藤は、ふと目に入った大きな桜の木の下で一休みすることにした。
桜の花びらが風に乗って舞い散る中、何か動くものが視界に入る。そこには一人の少年が、落ちた花びらを眺めていた。
少年は加藤に気づくと、こちらに向かって少し笑い、桜の木の根元に座り込んだ。
「桜は好きなのか?」加藤は少年に声をかけた。
「うん」と、少年は静かに答えた。
「桜の何がそんなに気に入ってるんだ?」加藤は興味を引かれた。
少年は少し考え込んだ後、桜の花びらを指先で摘んだ。そして、穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「桜ってさ、綺麗でみんなに愛されてるけど、本当は毒があるんだよ。それは花びらに含まれてて、長く嗅いでると気分が悪くなるんだ。でも、不思議だよね。みんなそのことは気にしないで、ただその美しさだけを見てるんだ」
加藤はその言葉に一瞬言葉を失った。
少年が語るのは単なる桜の話かもしれない。
しかし、どこか現実の出来事を暗示しているような気がしてならなかった。
美しさの裏に潜む毒、それでも誰もが気に留めずに魅了され続ける――その言葉は、この村で感じる異様な空気に重なっていた。
「毒があっても、誰も気にしないのか」
「うん。だって、桜は綺麗だからね。それだけで、みんな満足なんだよ」
少年の無邪気な口調が、かえって加藤の胸に不安を呼び起こした。
少年が桜子の行方について何かを知っているのか、それを確かめることはできなかったが、何か隠された真実があるように感じられた。
村人たちの奇妙な沈黙、そして少年の不気味なほどの無邪気さ。
加藤はこの村で起こっている何かが、表に出ることなく隠されていると確信し始めた。
誘拐事件が解決したとは思えない。何かがまだ終わっていない、そんな予感が加藤を捉えて離さなかった。
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