徒桜

kyōko

プロローグ 恭平

その夜、屋敷の広間は煌びやかな装飾と、多くの来賓たちで埋め尽くされていた。

西洋の影響を受けた華やかな洋装の貴族たちは、微笑を絶やさず優雅に会話を楽しんでいる。

その中でも一際注目を集めていたのは、桜子と自分だった。

彼女の気品ある佇まいと高貴な家柄、そして今日は僕を、婚約者を伴っていることが、自然と注目を集めている。

周囲の貴族たちは表向きには品位を保ちつつも、僕らの婚約の行方に関心を寄せていることは、その視線の一端から伝わってくる。


だが、僕の心は別の理由でざわついていた。

桜子の顔を見れば、その端正な横顔に微かに冷たい光を宿した瞳が映る。

これから告げなければならない事実が胸を重くし、言葉を発する度に喉が渇いていく感覚があった。


今、この場で婚約を破棄すること、それがどれほどの重みを持つか理解しているからこそ、どうしても緊張が拭えなかった。

しかし、その一方で、胸の奥底に芽生え始めている感情があった。それは、自分が自由になるという小さな歓びだった。


「桜子…」


僕は何度もその名前を口に出そうとしたが、言葉が自然に出てこない。

この場で言わなければならない言葉が、どうしても見つからない。

文明が急速に進むこの時代に、桜子はあえて伝統的な和装に身を包み、その目に映る自分が、どうしても不安定に感じられた。

周囲の目を気にしながら、彼女に声をかける。


「君には、本当に申し訳ないと思っている」


どれだけ優しく、穏やかに言っても、僕の心の中ではその言葉が冷たく響く。

自分が今から言おうとしていることが、桜子にどれほどの傷を与えるか、分かっている。

それでも、僕はこの決断を避けることはできなかった。


「これは、僕の個人的な問題だ。家のためじゃなく、僕自身の心の問題なんだ。僕は君にふさわしい男ではないし、僕が結婚しても君を本当に幸せにはできない」

言葉が流れるように出た。だが、その一つ一つが、自分の中で重く響いている。

今、僕は桜子にとって幸せを与えるべき立場ではないと思う。家族の期待通りに僕と一緒になっても、それ以上のことをしてあげられない。

だから、言うべきことを言わなければならない。僕は、自分を信じるしかなかった。


「君もわかるだろう、僕自身が君の期待に応えられる自信がない」


桜子は一言も発さず、ただ静かに、冷たい顔で僕を見つめている。その無表情が僕の心を打つ。

言葉が届いていないわけではない。彼女は、すべてを理解した上で静かに受け入れているのだろう。そのことが、また僕を苦しめる。


「だから…婚約を解消させてほしい。これは、僕自身が決めたことだ」

僕はもう一度繰り返した。今まで信じたいものの価値観が崩れるような気がして、体が硬直してしまう。

こんなにも穏やかな気持ちで伝えているのに、なぜこんなにも胸が痛むのだろう。それは桜子の犠牲の上に成り立つことだからだ。


それでも、心のどこかで、この決断がもたらす自由に対する渇望があるのを感じていた。

これで、僕は家のしがらみから解放され、誰にも縛られず、自分の望む道を歩める。そんな期待が、微かに心の片隅で膨らんでいた。

だが、それと同時に、桜子の人生を踏みにじることへの罪悪感が胸を締めつける。


桜子はゆっくりと顔を上げた。その目に驚きも悲しみもなく、ただ冷徹な表情が浮かんでいた。それを見て、僕は一瞬、息を呑んだ。

桜子は、今まで見ていた彼女とはまるで別人のようだった。心の奥で何かが壊れたように、冷たく無表情になっていた。

その変化に、僕はただ言葉を失うばかりだった。


「そう」

桜子は一言だけそう言い、無言で席を立った。その背中は、どこか遠く、僕に向けて冷徹で無情なものに感じられた。

彼女が歩んできた道がどれほど苦しく、どうしてこうなったのかは分からない。しかし、僕は何もできなかった。

桜子が家のために役割を果たし続けているのに、僕はその道を放棄し、自由な恋愛や個人主義を優先することになった。

そんな自分がどうして彼女を追うことが出来るのだろうか。


桜子には、家の中で果たすべき役割があった。婚約破棄を告げた時、僕がどうしても感じたのは、桜子がそれを一途に守り続けていることだった。

しかし、僕はそれを放棄した。家族の繋がりに縛られることを嫌い、自分の人生を優先した。そうすることが彼女を傷つけ、僕の家の役割を放棄することだと理解しながらも、どうしてもその決断を下さざるを得なかった。


「こんな形で終わるべきではなかったのに…」

その罪悪感が胸に広がった。桜子がどれほど家のために尽力してきたか、僕は理解していた。

それなのに、僕はただ自由を選んでしまった。家の繋がりを果たすべき自分が、それを放棄したことで、彼女に何かを背負わせてしまったのだろうか。そんな思いが胸を締めつけた。


桜子が去る姿を見送る中で、僕はただ無力感と罪悪感に包まれていた。

しかし、その裏には、ほんの少しの解放感が静かに広がっていたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る