使用人






ある日、公爵令嬢が何者かに誘拐されたという噂が屋敷中に広がった。








私は長年この家に仕えてきた使用人だが、その時初めて、本当の恐怖を味わうことになるとは思ってもみなかった。


令嬢は婚約を控え、あらゆる目が彼女に注がれていた時期だった。彼女がいなくなったことが発覚した瞬間、家中が動揺し、公爵は怒り狂い、警察や自警団を派遣して令嬢を探し回らせた。


しかし、帰ってきたのは、彼女ではなかった。


彼女の姿は確かに我が主君・鷲宮家の幼い令嬢、桜子(さくらこ)様のものであった。

黒く艶やかな髪を二つ結いにした小さな背中、着物は可愛らしい桃色の地に桜の刺繍が施されていた。その幼さゆえ、私たちは彼女が戻ってきたことに歓喜し、家中が沸き立った。長らく行方不明であった令嬢が無事に戻ったのだから当然のことだ。


だが、私は一瞬の違和感を覚えた。


彼女の瞳は、かつての桜子様のものとは違っていた。細長く、柔らかい曲線を描く瞳には、以前の温かさが失われ、まるで冷たい影が差しているかのようだった。彼女の白く滑らかな肌は依然として輝いていたが、そこには不自然な硬さが感じられた。


幼いはずの表情はどこか大人びていて、まるで別の者がその小さな体を借りているような感覚さえ覚えた。


最初は誘拐された恐怖と無事に戻った喜びが混ざり合い、私はその違和感を無視しようとしていた。

だが、日が経つにつれ、その違和感は強まり、桜子様の振る舞いに微妙なズレを感じるようになった。以前は無邪気に笑っていたはずの厚い唇は、今は冷たく結ばれ、まるで何も語るまいとしているかのようだった。





私は葛藤していた。あの恐ろしい事件の後、私が心を乱されているだけなのかもしれない。しかし、ふとした瞬間に彼女と目が合うたび、その冷え切った瞳が私を疑念から解放することはなかった。


確信に変わりつつあった――この娘は、令嬢ではない、と。


使用人たちの間では、密かに噂が広がっていた。「桜子様は本当に桜子様なのか?」と。だが、私たちは口を慎まねばならなかった。なぜなら、戻ってきた「桜子様」は、鷲宮家の存続に関わる重要な存在であったからだ。


実は、桜子様が誘拐されたのは、ただの偶然ではなかった。華族間の権力争いが背景にあり、桜子様はその駒に過ぎなかったのだ。鷲宮家と他の有力な華族との間で進行していた縁組――幼い令嬢であっても、その結婚によって家同士の同盟が成立し、権力基盤が強化されることが期待されていた。


だが、彼女が誘拐されたことで、その計画は頓挫するはずだった。


さらに、ふと耳にした噂が私を震え上がらせた。戻ってきた娘は、公爵の婚外子であり、誘拐された本物の令嬢の穴埋めとして連れてこられたというのだ。彼女は令嬢として育てられていなかったが、その顔立ちや体格が酷似しているため、急場をしのぐために選ばれたのだという。


彼女は、本物の桜子様の代わりに送られてきた、華族間の陰謀の一部に過ぎなかった。華やかな着物に身を包み、かつての桜子様と同じように振る舞うその姿は、一見すると何も変わらないように見える。


だが、彼女はその秘密を知らないわけがない。あの鋭い眼差しの中には何かが潜んでいた。彼女が我々を監視しているのか、あるいは彼女自身が監視されているのかは分からなかったが、私たち使用人は皆、何か言おうものならば、命の危険に晒されると感じていた。





桜子様が戻ってきたことで、屋敷全体に奇妙な静けさが広がった。

以前は使用人たちの笑い声や、家族の温かいやり取りがあったが、今ではそれが嘘のように感じられる。誰もが彼女に話しかけることを恐れ、ただ必要な時にだけ形ばかりの対応をするようになっていた。


特に、桜子様が現れると、私たちは知らず知らずのうちに息を潜めてしまう。その微笑みすら、何かを隠しているかのようで、不安が胸の奥で静かに広がっていくのだ。


屋敷の雰囲気は重く沈み、一人ひとりが自分の運命を見つめるしかなかった。このままでは何か悪いことが起こる――誰もがそう感じながらも、声に出すことはできない。彼女がここにいる限り、私たちはただその冷たく張り詰めた空気の中で、見ていることしかできないのだ。


何が起こるのか、いつ起こるのか、それは分からない。だが、私たちは全員、何かが変わり始めているのを感じていた。私には、その不吉な影が屋敷全体を覆い尽くしていくように思えてならなかった。




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徒桜 kyōko @kiyo-ko

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