ダイアモンド
栗ご飯
第一話
俺が1番憧れた彼女は、本人に言わせればただの石ころだったらしい。
〜※〜
あれはまだ小学生だったころ。市の小説コンクールの受賞式当日、俺は言い表せないくらいに緊張していた。
「続いて中学生の部、優秀作品の表彰です」
反射的に、ステージ端で待機していた俺は座っていた椅子からいきよいよく立ち上がってしまった。カランと椅子が音を立てて転がる。
「まだ待ってて」
係員さんのなだめるような一言が俺余計に緊張させる。顔全体が赤くなるのがわかった。恥ずかしい気持ちを抑えながら、椅子に座り直す。
慌ただしく着慣れないワイシャツの襟をただし、胸元のネクタイをイジる。周りには係員の人しかいないけれど、もう足は震えだしていた。
そんな俺を横目に、隣の椅子に座っていた
「ちょっと落ち着いてよ。私まで緊張するじゃない」
長い髪を一束におろして小学校の制服よりもっとピシッとした服をきた紗来の声には自信がこもっていた。
「紗来は緊張しないのかよ」
「当たり前じゃない。どれだけ私がこの賞を取ったと思ってるの?」
俺の弱々しい問に、紗来は余裕の笑みを浮かべてこたえる。これが王者のかんろくか、と僕は感心する。
「
客席から、拍手が聞こえる。しばらくして、中学生の受賞者たちがこちらに戻ってきた。
「続いて小学生の部、優秀作品の表彰です」
「ほら行くわよ、優。あなたは私の―」
「優秀賞受賞者、
司会の人の声と拍手が重なって、紗来がなんて言ったかはよくわからなかった。でも、きっとこういったんだろう。
「あなたは私のライバルでしょ?」
ステージの中央に進んでいく紗来の後ろ姿は、とても神々しく、そして力強く見えた。
※※※
「なんてこともあったねー」
あれから6年。15歳になった俺は、ソファーに寝っ転がりながらテレビを見ていた。テレビの奥では直木賞の授賞式が行われていて、テロップには「神に愛された天才神田紗来、史上初の快挙か?」という煽り文句が流れていた。
「ん?ごめん、なんて言った?ていうか優、狭いんだけど」
同じソファーに座っていた姉貴、
「紗来ちゃん、すごいよね。映画の原作書いてたし、挙句の果てに直木賞最年少ノミネートかー」
「それだけじゃない。他にも一個ドラマ化してるよ」
「何その記憶力。きもいんだけど」
姉貴は俺を気持ち悪そうにじっとみつめる。
「まあ、俺あいつのファンみたいなもんだから」
ぶっきらぼうに、かつ自虐的にそうこぼす。すると姉貴はいたずらっ子のような目をして、
「ライバルだったあんたも今じゃファンか。落ちたもんだねぇ」
「あ、このクソ姉貴。やっぱり聞いてやがったな!」
「クソ姉貴って何よ。口に気をつけなさい!」
「うるせー、だいたいお前いっつも食べた食器だしっぱだし洗濯物にティッシュ入れっぱなしにするし―」
取っ組みかかろうとした、次の瞬間。アナウンサーが歓喜の声を上げた。
「やりました! 神田紗来、史上最年少の直木賞受賞者の誕生です!」
フラッシュをたく音がテレビから聞こえてきた。まじか、やったとクッションを叩きながら姉貴が喜ぶ。もちろん俺も喜んだ。ガッツポーズをして、大声で。
でも、心から祝えたわけじゃない。むしろ俺は、紗来が受賞しないことを願っていた。
「みんなに伝えなきゃ」
そう言って姉貴はスマホを取り出し、何かをタイピングし始めた。
「よし、ツイートっと」
満足そうな顔をする姉貴をみて、俺は少しムッとしながら言った。
「自分のことじゃないのに自慢するなんて、虚しいだけだぞ」
姉貴は首をかしげ、声を少し高くして答えてくる。
「なにそれ、どういうこと?」
俺になにか不満なことを言われると姉貴は声を高くする。そのことをわかっているが、俺は更に続ける。
「自分が受賞したわけでもないのに自慢なんて、痛いだけだってこと」
ソファーから降り、キッチンにいく。さっき大声を出したせいで、喉がカラカラだった。
「は?なに急にテンション下げてんの?めんどくっさ」
姉貴の不機嫌な声が俺の背中にかかるが、無視。何も言わずに冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取る。
「あんたさ、嫉妬してんじゃない?」
姉貴はそう煽ってきたが、俺はまた無視してシンクの横においてあったコップに麦茶を注ぐ。
「なんでライバルだった俺はこんなにパッとしないのに、って思ってるでしょ」
「いや、違―」
「は?そこ否定するところじゃないでしょ。そんな事言うってことはそう思ってるってことでしょ?」
姉貴の言うことは、めちゃくちゃだ。
でも俺は今までの言葉全てに動揺し、言いようのない苛立ちに苛まれていた。麦茶をもつ手の震えがそれを表していた。
「そんなに自分に自信あるんだったら、なんで書かないのよ。なんか理由つけて最近賞にも応募しないしさ。正直お前さ、ダサいよ」
その瞬間頭が真っ白になって、気がついたらコップをはたき倒していた。ゴンッという音に姉貴も驚いたようで、何やってんのよ?と困惑していた。
「うるせーんだよ」
口からでた声は上ずっていて、我ながらダサかった。
「毎日ツイッターばっかやってるやつが、知った口聞くなよ。―それともお前にわかるのか?書けないのがどんなに辛いか、賞に出すのがどんなに怖いか―」
本格的に涙が出てきそうで、俺は慌てて自分の部屋―と言ってもベッドと小さい勉強机が一個あるだけの部屋だが―に行き、そのままベッドに横になった。
―ちくしょう、と歯を噛みしめる。そうしないと声をあげて泣いてしまいそうだった。
紗来とは小学校の卒業式以来顔を合わせてもいない。中学に入ってすぐ紗来の小説がどこかの新人賞とってからもう2年、そのたった二年のうちにどんどん有名になっていく紗来は、気づかないうちに雲の上の存在になっていた。
―確かに、俺は妬んでたのかもな。
紗来が有名になっていけばなっていくほど、俺は紗来の小説からも距離をおいていた。それはきっと、なんであいつだけなんだと妬んでいたからかもしれない。
なんであいつだけデビューした?あいつの運が良かったからだ。
なんであいつと俺にこれほどの差がある?あいつが天才だからだ。
そう思うことで俺は自分に逃げ道を作っていたのかもしれないな、と反芻する。
紗来が努力していたのは知っていた。幼稚園の頃から日記を書いてたし、何より2年で10冊以上出版するなんて、普通の人にはできない。しかも、そのうち4作はメディア化もしてる。
でも俺は、それを認めたくなかった。もしそれを認めたら、紗来が努力で成功したんだと認めてしまったら、俺もやればできたんじゃないか、と心の隅に残る未練にまた火がついてしまうから。
―だっせぇな、俺。
もう物書きはやめたはずなのに、こんなことを気にしてるなんて。一人の幼馴染の晴れ舞台すら心から祝うことができない自分に、心底嫌気が差した。
〜※〜
「なんかさー、最近優と話してて面白くないんだよね」
紗来の直木賞受賞から二週間後の昼休みに食堂で友人の
「―ん、ごめんなんつった?」
「ほら、そういうところ」
右手に持った箸を俺に突きつけながら、桃は大仰に体を前のめらせる。ショートボブの髪が揺れる。
「最近何言っても聞いてなかったり生返事したりするだけじゃん」
「ああ、なるほど」
カツ丼を口に運びながら俺はそういう。俺の通う中学の食堂の目玉定食、カツ丼定食のカツは衣がサクサクしていてうまくそのくせ安い。これを食べるために今日も頑張ろう、と学校がだるい朝は自分に言い聞かせるほどだ。
「ああ、なるほど。じゃなくてさ、どうしたの?私達幼馴染でしょ〜、言ってよ〜」
「まあ、この歳になると色々あるんだよ」
「ちーがーうだーろー!」
桃の大声に、食堂内にいた学生全員が俺たちを見る。恥ずかしくなって「おい、落ち着け」といなすが、桃はそのまま続けた。
「絶対またなんかあっただろ。この前炎上したときだって優、そんなかんじにおちこんでたよね?」
「ちょ、その話はまずい」
『炎上』という言葉を聞いて、桃の声に驚いてこっちをみていただけの周りも少しざわつき始めた。
「まずいって何よ、優が言わないからじゃない」
「わかった言う、言うから……」
「言うから、何よ」
「帰りにな」
人に見られているときにこのことを話す勇気はなかったし、昼休みはあと十分で終わってしまう。桃もそれに気づいたのか、納得しない顔で「そうね」といって定食を食べ始めた。俺もカツ丼をかっこむ。
次の授業中ずっと腹の調子が悪くて集中できなかったという話はまた別の機会に。
〜※〜
放課後、桃は校門で待っていた。
「優、遅くない?結構待ったんだけど」
桃が不満げに俺に文句を言う。
「ごめん、ちょっと忘れものがあって」
そう弁解する俺をみて桃も
「まあ―」
と許しかけたが、何かアイデアを思いついたいたずらっ子のような顔で
「えー、でも私の時間って貴重なんだよね〜。許したくないな〜」
とまた文句をたれた。この流れはまさか、とこの先どうなるかを察したものの時すでに遅し。桃が口を開いた。
「まあ、駅前のたいやき屋で奢ってくれれば許してあげるけどね〜」
やっぱり。こいつは俺の知る中で一番食い意地が張っているやつで、なにかといちゃもんを付けて俺に奢らせるのだ。
「……つぶあんな」
「やだ、小倉あんがいい」
しぶしぶバックから財布を取り出す俺に、桃は図々しく食い下がる。
「贅沢言うな、奢ってあげるだけありがたいと思え」
「全然贅沢に入んないよたい焼き一個くらい。学生の月に何回かの楽しみです」
「週に何回か、の間違いじゃないか。お前の場合」
学校から駅までが歩いて三分もかからないため、たい焼き屋も近い。そうこうしているうちにもう着いてしまった。こじんまりとしたコンクリートの店は少し古いということ以外は、レジで注文をして中で焼かれたたい焼きを受け取るタイプのよくある店だ。
「小倉あん―」「つぶあんです。つぶあん一個ください」
まだ高いたい焼きを選ぼうとしている桃を押しのけて注文する。桃は顔を歪めてなにか一言つぶやくと、道の端でスマホをいじり始めた。
「君最近よく買ってくれるね。お小遣い大丈夫なの?」
たい焼きを受け取ったとき、持ってきてくれたおばさんの店員に尋ねられた。肩からかけられたエプロンがしっくりくる典型的な小太り体型で、俺は親しみを込めて密かにパーマおばさんとよんでいる。
「大丈夫じゃないです。助けてください」
俺は半ば本気で言ったのに、パーマおばさんは何がおかしいのか軽快な笑い声をあげた。
「まあまあ、彼女にはそんぐらいしてあげなよ」
「いや、彼女じゃないです。幼馴染なだけで―」
「そう言うなって〜、きれいな子じゃないのよ」
パーマおばさんは嬉しそうにガードレールによりかってスマホをイジる桃を指差す。いやいやそんなことはとごまかしながら店から離れ、ガードレールに張り付き始めた桃を引っ剥がす。
「お、じゃあ行きますか。あれ、優も買ったんだ」
「ちげーよ。店員さんがなんかおまけしてくれたの」
そのまま駅の階段を降ろうとしたけれど、桃に
「え、たい焼き持ったまま電車のんの?他の人に迷惑じゃん」
と諭すような声をかけられたから歩道に戻る。こいつはいつも人の目に鈍感なくせに妙なところを気にするから、初めて会ってから10年たった今も付き合い方がよくわからない。
「少し歩こう。優の悩みも聞きたいし」
覚えてたのか、そのこと。
※※※
「え、じゃあ何。紗来の成功が悩みのタネってこと?」
大通りで桃が素っ頓狂な声を上げるものだから、俺は周りの視線が気になって仕方がない。
「なんだよそれ、いいじゃん別に。紗来の書く物語ががどんなに面白いか、優が一番良くわかってるでしょ」
「いや、まあそうなんだけどさ」
たい焼きの尻尾をかじりながら俺も同意する。桃と紗来は保育園の頃からずっと親友同士だったから、紗来のことは俺以上に知っている。
「だからなんか悔しいと言うか」
「というと?」
桃が見上げるようにして俺の顔を覗き込む。
「いや、ほら。やっぱさ、俺も紗来ぐらいの才能があったらなーとか」
そう言うと、急に桃の顔が険しくなった。
「は?何いってんの」
急に刺々しくなった桃の口調に、俺は動揺を隠せない。
「紗来は誰よりも努力して苦労して、いろんなことを犠牲にしてるよ」
「いや、まあそうなんだけどさ。でもやっぱ才能が大きいじゃん?」
そこまで言って、桃の顔をみる。怒っているかと思ったが、意外にも笑いを堪えようと口を膨らませていた。「何がおかしいんだよ」と尋ねると、ププーッ!と笑い出した。
「やっぱ凄いわ沙来!ほんとにそんなことおもってたんだ!」
笑いながら、1枚の紙を渡してきた。何かのパンフレットらしいと気づいた直後、頭をハンマーで殴られたような衝撃が全身に響いた。
パンフレットには、堂々としたフォントでこう書かれていた。
『人気作家たちが送るトークイベント!
今勢いに乗っている才能たちが集結。超人気作家、神田紗来も参加!
会場:
サンムーン池袋
日時:
2月20日(土)』
「なんだよこれ」
「沙来が渡してって。来て欲しいんだって」
ドキッ、と心臓が止まりかける。あの沙来が俺のことを覚えていたなんて。さっきまで感じていた嫉妬や妬みが吹き飛んでいくのを感じた。
「行ってみなよ、紗来も喜ぶと思うよ」
「そうだな、行ってみようかな……」
言いかけて、頭を抑える。あの時のことが脳裏に一瞬浮かんでしまった。
『失礼ですが、この作品はあまりに……』
そうだった。もう俺は、紗来の小説に関係するものには近づかないと決めたのだった。
「……考えとく」
「行ってみようって言ってなかった?」と不思議がる桃に、「もう帰るわ。話、聞いてくれてありがとう」とだけ言って1人駅へと歩き始める。
握りしめていたパンフレットは、ホームに入った時にはもうくしゃくしゃに丸まっていた。
〜🍑〜
「紗来、言われたとおりに優に渡しといたよ」
駅から五分ほど歩いたところにあるこぢんまりとした喫茶店に入り、奥の席でスマホをいじっていた紗来にそう声をかける。
「あ、そう。ありがとう桃」
紗来は視線を一瞬私に移してそうそっけなく答えると、再びスマホに戻り何かをやり始めた。
「あ、それパズドラじゃん。やってんだ」
「違う。これポコロンダンジョンだから」
スマホの液晶を覗き込みながら軽い気持ちで発した問いかけに紗来は少し機嫌を害したようで、ムッとしながら私に座るように促す。テーブルにはストローの入ったホットミルクティーのマグカップと、いかにもネット映えしそうなパンケーキがのっていた。
「−ホットミルクティーにストロー使ってんの?」
「え、普通使わない?」
「−え?」
「−え?」
「……」
「……」
戸惑いの色を隠せない私の顔から察したのか、紗来は気まずそうにゆっくりとストローを抜いた。それからスマホの電源を切り、私の目を見て問いかけてきた。
「で、どんな感じだった?」
心なしか、その声は少し強張って聞こえた。まるで、合格発表直前の受験生のように。
「その前に座らせて。私にも何か飲ませてよ」
「……というと、奢れと?」
「―私、お小遣いはいつも月末に貰うの」
渋渋でもいいよと言ってくれる紗来は優しい。私は二つ並んだ椅子の一つの背に学生鞄をかけ、もう一つの椅子に落ちるようにして座る。
テーブルの端にあるメニュー立てから取り出したドリンクメニューは外装からしておしゃれで、めくるとすぐに『店長のおすすめ』と大きなポップがついたレモネードのイラストが目に入ってきた。クレヨンで描かれたかのようなカプチーノのイラストはページの材質とうまくマッチングしていて、とてもおいしそうに見えた。
「このカプチーノ一個ください」
テーブルに来てくれたウェイターさんにそう私が伝えると、紗来は心配そうに私に尋ねてきた。
「他には何か頼まないの?」
「うんいいのよ、さっき優にたい焼き奢って貰ったから」
そういうと紗来は吹き出し、かわいそー、と軽快な笑い声をあげる。今日ようやく紗来が見せた本当の笑顔に私もうれしくなって
「確かにそうだったかも、優は紗来みたいにお金持ってないしねー」
と言ったけれど、その直後にこれが紗来にとって禁句だったことを思い出す。ちょうど今のように、紗来は少しでも私との間で自分の作家業についての話になるとバツが悪そうに私から目を逸らす。単に恥ずかしいのかそれとも凡人の私を気遣ってくれているのかは分からないけれど、とにかく紗来はこの手の話をすることを嫌がるのだ。
「お待たせしました。カプチーノです」
「あ。ありがとうございます。わーすごい。ミルクがハート型だー」
若い女性の店員さんは人懐っこい笑顔を私に見せると、別のテーブルの注文を受けに早足で向かっていった。
それから私はモダンで暖色な机の上に載るカプチーノの小洒落た写真をインスタにあげたり、もう食べられないと悲鳴をあげる紗来の胃に代わってシロップが染み込んで若干べちょべちょになったパンケーキを食べてあげたりした。その間ずっとそわそわとスマホをいじったり窓の外を覗いたりしていた紗来は、私がカプチーノとパンケーキを食べ終わるのを見計らって
「で、結局優はどんな感じだったの?」
と切り込んできた。
「ん?ああ、なんかね、」
言おうとして、思わず口を紡ぐ。思い返せば、優の言葉は紗来の努力を「才能」という単語だけで括るような、紗来にとって聞いても嬉しいものではなかったから。
「なに、早く言って」
口籠る私に焦ったさを感じたのか、紗来の口調は若干の苛立ちを含んでいるように聞こえた。
もう言っちゃうか。よく考えれば当の紗来が聞きたがっているんだから別に隠す必要もないだろうと思った私は、さっき言い切れなかった言葉を続けた。
「紗来が、才能が、羨ましいんだって」
「……ほう」
そうやって息を吐く紗来は、私の予想に反してどこか安心したかのような顔だった。
「ならよかった。おしえてくれてありがとう桃、お金は私が払うから、もう帰ってもいいよ」
そう言って紗来は財布を取り出した。チラッと見えたお札入れの中には諭吉が何人もいた。
すこし強引だな、と思ったけれど特にもう残る理由もなかったし、明日が期限の宿題もある。
「そうだね、じゃあもう帰るわ。ご馳走様」
椅子の背にかけていた鞄を肩にかけ、私は店を後にすることにした。
「あ、そうそう。紗来に聞きたかったんだ」
ドアを開ける。チリンチリンと心地よい鈴の音がした。
「優、トークショーに来ると思う?」
「来ないんじゃない?」
飄として答える紗来を、私は怪訝な目で見る。
「じゃあなんで私にあんなこと頼んだの?」
「知りたかったのよ」
気のせいかもしれないけれど、今の紗来はとてもワクワクしているように見える。
「優が私を妬んでるのは、優がまだ小説を書きたがっているからよ。ひょっとしたら、今もうまさにお悩み中かもね」
楽しそうに話す紗来を背に、私は喫茶店を後にした。
〜※〜
家にはまだ誰もかえってきていなかった。靴を脱ぎ散らかしてリビングにあがり、バックを無造作に床に放る。
テーブルに座り、テレビをつける。どこの局も似たり寄ったりな内容のワイドショーかショッピング番組しかやっていなかったので、すぐに消した。
ポケットからパンフレットを取り出して、シワを広げる。出演者の顔写真が並ぶそのページの、1番最後に紗来はいた。久しぶりに見た紗来の顔はだいぶ大人びていた。
あいつも俺の顔を見たら驚くんだろうか。そう考えていた時、ふと一番最悪な考えが俺の脳裏に浮かぶ。そもそも紗来は、俺のことを覚えているんだろうか?
保育園、小学校と仲が良かった俺、紗来、桃の三人は、俺と桃が私立の進学校に合格してから三人で顔をあわせたこともない。桃がどうなのかは知らないが、俺に至っては紗来がどの学校に通っているのかわからないほど関係は疎遠なものになっていた。もしトークイベントに行って話す機会があったとしても、「誰ですか?」では寂しい。
ふと椅子からたちあがり、テレビの横にある本棚から一冊の本を取る。
『花火の夜に』。紗来が中一のときに書いた、初めての書籍化作品だ。表紙には花火が咲く夜空が描かれており、そのクレヨンで描いたかのような拙さを感じさせる絵にどこか安心感を覚えさせられる。裏表紙に書かれていたあらすじを見るまで、どんな物語かも思い出せなかった。それほどに俺はこの本をながらく読んでいなかったのだ。それは本棚に並んでいる他作品も同じで、その中でも一番記憶に残っていたこの本をもう一度読もうと思い立ったのだ。横になるには少し小さいソファに座り、静かに読み始める。暫く、静寂の時間が流れた。
ページを捲りまた捲り、そのたびに物語の内容が頭の中で映像として映し出されるような感覚に陥る。結局俺は本に夢中になって、30分程で解説まで読み終えてしまった。どこか物足りなさを感じた俺は、本棚に羅列している紗来の本に手を伸ばしかけて、やめた。
紗来の小説には、確かに少し読んだだけで引き込まれる魅力がある。過去の俺もその魅力に取り憑かれていた人々のうちの一人だったのはいうまでもなく、だからこそ離れるのに苦労したんだ。
俺は前まで、天才じゃないにしても自分が紗来と同じ類の才能を持っているんだと信じていた。でも今は、自分がどれだけ凡才かを十分理解している。
文藝界という才能がほとんどの世界では、どうやったって俺が生き残れるはずがない、俺は紗来とは違う。
そうわかったから、いっそのこと小説を完全に俺の生活から切り離そうと思い切って一年前、俺は持っていた文庫本をほとんど古本屋に売った。でも、紗来の本だけは売らなかった。売れなかった。
なんでかは正直自分でもよく覚えていない。単に幼馴染の本を古本で売るのは可哀想だなと思っただけだったかもしれない。
いや、でも。俺は何か余計なことを考えだそうとしている自分を制止する。
そんなどうでもいいことはいい。どうせ紗来に追いつくこともまた小説を書くことも、俺には出来ないんだから。
「……勉強しよ」
どこかモヤモヤとした気持ちを切り替えて、玄関に放っていた鞄から表紙の端が折れてくたびれた数学の問題集と黒地のペンケースを取り出す。明日の朝締め切りのこの課題の殆どは昨日のうちに終わらせていたが、まだ最後の数ページをやっていなかったのだ。
さっきとは似ているようで少し違う静けさが、暖房の少し効いた部屋を包み込む。問題を解き終えて丸つけを始めようとした時ガチャリと家の扉が勢いよく開く音がして、姉貴が入ってきた。
「優、見てよこれ」
興奮気味な姉貴の汗に濡れた髪や息の切れようからして、だいぶ長いこと走ってきたことが容易にわかった。
なになに、と呆れながら尋ねる俺に、姉貴は手に持っていたスマホを突き出す。液晶画面にはツイッターのDM画面が表示されていて、フォロワーの少なかった姉貴にDMが来てること自体驚きだけれど、それ以上にメールの送信主の名前に衝撃を受けた。
「これ、紗来ちゃんだよね?優にって」
送信主の名前[神田紗来 最新作発売中]は、確かに紗来のツイッターのアカウント名だった。
「ちょ、ちょっと待って」
余りに話が支離滅裂で、頭が追いつかない。とりあえず姉貴の息が落ち着くのを待って、質問する。
「何で紗来は姉貴のアカウント知ってんの?」
「私って結構オープンだからさー。弟の名前とか出身校とかも載せてるんだよね」
何でこんなにリテラシーがない人がネットをやっているんだ。あ、でも誰も見てないからダイジョーブ!と豪語する姉貴に頭を抱えながら、俺は続けた。
「―なんで今、いきなり?」
「うーん、やっぱりこのトークイベントがあるからでしょ」
そういって姉貴は画面をスクロールし、最後のメッセージを拡大する。俺はそれを一瞥し、眉を寄せ合う。
『こんにちは
優の幼馴染の紗来です。元気ですか?
私の参加するトークイベントが行われるのですが、優と一緒に来ませんか?』
先生じゃないんだから別にこんなに堅苦しくなくてもいいのにね、と苦笑する姉貴に、俺はまた少しムッとしてしまった。
「姉貴は行くの?」
「え、行くよ。由良くんも参加するみたいだし」
由良というのは、今流行っているアイドルグループの一員で、同じく今流行りの青春小説『トチガミさん』の作家でもある。アイドルとしては特に高校生の間で絶大な人気を誇っていて、姉貴も御多分に洩れずファンなのだ。
「優も来るでしょ?」
「そりゃあまあファンだし……」
俺は言葉を濁し、その場に固まった。今まで経験したことのない苛立ちと葛藤に脳を侵食され、思わず顔をしかめる。
「どうしたの、優」
怪訝そうな姉貴にちょっと疲れたかもしんねーと軽口を叩き、その場凌ぎの笑みで玄関から離れた。机に戻り、丸つけを再開する。
今の自分は、俺からしても少し変だと思う。紗来のファンだと言うことを躊躇し、そのことを考えようとすると苛立つ。
何故なんだろう、俺はもう紗来のライバルじゃないと思っているのに、俺よりずっと先を進むあいつを、まるでアイドルにファンがするように歓声をあげながら見てるだけなのは、
……とても、悔しい。
『俺も紗来ぐらいの才能があったらなー』
『でもやっぱ才能が大きいじゃん?』
自分が今まで言っていたことを思い出して、恥ずかしさで顔を覆った。
何言ってたんだ、俺。
紗来が直木賞を受賞したあの日のように、また俺は自分のダサさを痛感した。
もっと早くに気づくべきだったんだ。もっと早く向き合うべきだったんだ。
俺がずっと紗来に抱いていた
「姉貴、俺も行くよ。トークイベント」
紗来と、会って話がしたい。
「紗来に言っておいて、ライバルが会いに行く、って」
ダイアモンド 栗ご飯 @BanSoTan
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