劣等生記念日
千日掛三
劣等生記念日
ピンポーン
家のチャイムが鳴った。
ふと時計を見上げると、21時を少し過ぎたところだった。視線をテレビの画面に戻す。出る気はなかった。生憎、父は出張で母は病気の祖母の看病に出かけていた。大人が家に居ない時に電話や来客に出てはいけません、という小学生の頃に母から言われた言いつけを、私は高校生になった今でも律儀に守り続けている。決して来客の対応が面倒な訳ではない。決して。
そのままテレビを見続けようと思ったが、こんな遅い時間に我が家にやってくる人物のことがどうしても気になってしまう。インターホンの画面を確認するために座っていたソファーを立つ。確認するだけ。ドアは開けない。そう思いながら画面を確認した私は次の瞬間、玄関のドアへと駆け出していた。
ドアを開けた先に、びしょ濡れの男が立っていた。兄だった。
夕方から急に降り始めた雨は弱まることはなく、むしろその勢いを増して強く地面を叩いている。雨音が美しい音楽を奏でている、なんて風情のある感想が湧かないほどには強い雨だった。そんな悪天候の中、傘もささずに兄は暗闇の中に立っていた。あまりに突然の出来事に驚くよりもむしろ冷静になった私は、普通に会話をするように、まるでそれが当たり前であるかのように兄に声をかけた。
「おかえり。とりあえず、風呂入ったら?」
━━━━━━━━━━━━━━━
さて、どうしたものか。
一言も言葉を発さない兄をとりあえずお風呂場に突っ込み、父のクローゼットから適当に見繕った下着と服を脱衣所に置いてリビングに戻ってきた私は腕を組んで、うーんと唸る。
兄が家に帰ってきた。それだけ聞けば、「あら、おかえり」で済む話なのだが、今回はそういうわけにもいかず、とはいえどうするのが正しいのかも分からなかった。
大学に進学し、一人暮らしをしている兄が大雨の中ずぶ濡れで実家に帰ってきた。というなんとも難しい状況をたった1人で乗り越えなければいけない。仲が悪いわけではなかった。むしろ世間一般的な兄妹と比べたら仲がいいほうだと思う。それでも、何を話せば良いか分からなくなるほどには長期間会っていなかったから、私はとりあえず唸り続けることしかできなかった。
ガチャ
お風呂場とリビングを繋ぐ扉が開いて、父のジャージを着た兄が出てきた。兄の方が父よりも少しだけ背が大きいから、ズボンが明らかに短いのが面白い。
「お風呂と服ありがとう」
ここに来て初めて聞いた兄の声は、記憶の中のものよりも少しだけかすれていて、明るいとも暗いとも形容しがたい。顔色を伺いたかったけれど、なんとなく気まずくてテレビを見たまま返事をした。
「いえいえ。風邪ひいたら大変だからね」
兄はダイニングテーブルに腰を下ろした。父と母、兄と私の4人で暮らしていた時のお決まりに従って、1番ドアに近い位置に座って私と同じようにテレビの画面を見つめる。東北のどこだかにあるテーマパークの新エリアの特集らしかった。楽しげな音楽とともに綺麗に着飾った着ぐるみたちがくるくる踊っている。あぁ、私も今すぐこの重苦しい空気を脱ぎ捨てて踊ってしまいたい。そろそろ限界が近づいていた。耐え難いこの空気を連れて来た元凶をチラリと盗み見ると、しきりに喉仏が上下していて、唾を飲み込んでいることがわかった。何をしているのだろう。
『 今回オープンした新エリアでは、なんと、チャンドラポメロを使用した特別なドリンクが飲めるそうです!』
テレビから聞こえるアナウンサーの声を聞いてようやく納得する。あぁなるほど、喉が渇いているのか。キッチンに歩みを進め、コップに麦茶を注ぐ。視線を上げると兄の後頭部が見えた。我が家のリビングは、奥からテレビ、ダイニングテーブル、キッチンの並びなので、キッチンに立つとリビング全体が見渡せる。前会った時よりも髪がのび、耳の半分ほどまでかかっていて、違う人のように見えた。私は兄の短髪姿しか知らない。
兄は私の5歳年上で優等生だった。頭が良く、中学では常に成績トップの座を維持し、高校は偏差値70超えの進学校に入学。大学はいわゆる旧帝大と呼ばれるもので、そこで昔から得意だった数学に時間を捧げている。性格は穏やかで人見知り。それでも、身内や仲良くなった人にはボケもツッコミもするものだからそれなりに友達も多かった。スポーツはからっきしで、それでもなんでも一生懸命に取り組む人だったから体育の成績が悪いということも無く、通信表が届くのに肝を冷やす経験とは無縁の人。そんな兄は私にとっての憧れで、自慢だった。もちろん頭が良くて優しい優等生なところも好きだけど、1番の魅力は、物知りで面白いところ。それから、変人なところ。急に話しかけてきたと思ったら
「ビーフストロガノフって強そうだよな」とか「ソルガレオってめっちゃ言いにくいけどなんか言いたくなるよね」とか言い出す。そんな兄と話すのは何より楽しいからついつい話し込んで、「なんか言いたくなっちゃう言葉選手権」なるものを開催しては、2人でよく大笑いしていたっけ。ちなみに、選手権で見事殿堂入りを果たしたのは「過酸化水素水」だったりする。
回想を終え、麦茶の入ったコップを手に持ちキッチンを出て、兄の前に置く。
「お茶飲む?」
「あぁ、ありがとう」
麦茶を一気に呷った兄を見届けて、ソファーに戻ろうとした私の背にコップを机に置く音と小さな声が届く。
「留年することになった」
人はどうやら驚きすぎると考えを放棄しようとするらしい。何やらスルーしがたい言葉が聞こえた気がするのに、私の頭はぼんやりと、いつの間にかテーマパーク特集のバラエティから明日の天気予報に変わったテレビについて考えていた。明日は晴れか。本当にこんな大雨が明日になったら上がっているのだろうか。未だに外では雨が降り続いているのに。
「単位取れなくてさ。あ、単位ってわかる?」
「もしかしなくても馬鹿にしてるよね、それは」
さすがに看過できない言葉にハッと我に返って言い返す。いくら自分が頭が良いからって馬鹿にしすぎじゃなかろうか。それと同時に、意外と兄の口調が明るいことに気づいてほっとする。今までの重い空気はなんだったのか、私の葛藤を返して欲しい。
なんて考えた私はやっぱり馬鹿だったようで、振り返った先には今にも泣き出しそうな、怒られることに怯える子供のような顔をした兄がいた。
「…ついに最愛の数学に愛想をつかされたの?」
大事な話の中でもちょっとふざけないと重い空気感に耐えられない自分を今日ばかりは呪いたい。
「俺が愛想を尽かしたんだよ」
そう言った兄はきっと笑いたかったんだと思う。でも、感情面においてはどうしようもなく不器用な人だから、泣き笑いすらも上手に出来なくて変な顔をしていた。
謝る必要なんてないのに、兄は私に「ごめんな」と言った。謝った理由が私には解ってしまうのが嫌だった。
父と母にも同じように謝るんだろうな。単位が取れなかったって言ったらびっくりした顔をして、理由を聞いた後に父は怒り、母は落ち込むんだろうな。
きっと、兄は自分が優等生であることを知っているから。そうであることを多くの人に求められていることを解っているから。だから私に謝るし、泣き笑いすらも上手く出来ないまま大きくなってしまった。
でもね、お兄ちゃん。私ね、あなたが留年するのちょっと嬉しいんだよ。
兄の手から空になったコップを奪い取り、キッチンへ向かう。冷蔵庫を漁り、金色のビール缶を取り出して兄に向けて掲げた。ポカンと呆けた顔が見える。
「飲もうか。グイッといっちゃえ」
「いや…それ父さんのビールだよね?ストック減ってたら怒られるよ」
「お父さんの肝臓が心配でビールいくつか捨てちゃった♡って言うから大丈夫」
「絶対大丈夫じゃないでしょ」
「いいからいいから!」
明らかに嫌そうな顔を向けてくる兄に、そんなことお構い無しに缶を差し出す。すると、大きなため息をついたかと思ったら、急に真面目な顔になって私を諭しだした。
「あのね、いい?お前はまだ酒を飲んだことないからそうやって言うんだろうけど、嫌な事があった時にヤケ酒するのって危ないのよ?おわかり?」
どうやら兄は落ち込んでいる自分を慰めるために酒を勧められていると思っているらしい。まったく、一体誰が私の兄をこんなに頭の硬い男にしたのだろう。優等生で居続けるのも考えものだ。
「あのねぇお兄ちゃん、ヤケ酒が良くないことくらい高校生でも知ってるのよ?こないだ保健の先生がお酒の失敗談してたもん」
そう、ヤケ酒は良くない。保健の先生が彼女に振られた悔しさでヤケ酒し、酔っ払って電柱に向かって喧嘩をふっかけたという話を聞いてから絶対にしないと誓ったのだ。そんな痴態を兄に晒されては困る。
「酒で忘れろってことじゃないならなんで飲ませようとするんだよ」
「お兄ちゃん、お酒はね祝いの席でも飲むものなんだよ」
「はぁ?なんのお祝いな訳?」
ねぇお兄ちゃん、私ね、不謹慎かもしれないけど、勝手かもしれないけど嬉しいの。
「ん〜と…劣等生記念日…かな?」
だって、あなたが人生で初めて優等生の重責から解放された日なんだもの。
劣等生記念日 千日掛三 @itiiro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。劣等生記念日の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます