第1話-1 竜胆の花
「そこのお兄さん! 旅の人かい?よかったら、リゴーヌリキュールを試し飲みしていかないかい」
バザールは、人でごった返している。大きくコケモモの絵が描かれた天幕から飛び出し、ノーアの眼前にグラスを差し出してきたのは、エプロンドレスを纏った壮年の女性だった。半分進路を塞がれた形になって、足を止める。
日に焼けた売り子の女性は、白い歯を見せて笑い、もう片方の手でボトルを掲げて見せた。いささか強引な客引き方法ではあったが、不思議と嫌な気持ちにはならない。
「ありがとう。とても美味しそうだね」
言いながら、ノーアはフードを引き下ろす。目が合った瞬間、売り子の女性はやや頬を赤らめて、「あらやだ、想像の百倍いい男」とひとりごちた。正直な反応に、ノーアは苦笑する。
「だけど生憎、俺は酒が苦手なんだ。だから、その貴重な一杯は、別の観光客に誂えてやってくれないかな」
「あ、ああ! それならシロップ割りはどう? 金の心配はしなさんな、あんた随分
と男前だから、特別サービスだよ。まあ、ベルンハルド様には負けるけど」
「ベルンハルド様?」
「うちの第四王子様さ。そりゃあもう、はっとするほどの美丈夫でね。そこらじゅうの女たちはみんな、一度はベルンハルド様に恋をするんだ。あたしも旦那に、ちょっとくらいははっとしてみたいもんさね」
女性は手慣れたしぐさでボトルを持ち替え、とろりとした濃赤のコケモモシロップをグラスに注ぎ入れた。甘酸っぱいコケモモの香りが、鼻をくすぐる。気泡の弾ける涼やかな炭酸水で割られたそれは、人混みで汗ばみ、火照った体を冷ますには、確かに有り難い代物だった。
グラスを受け取り、液面をわずかに検分してから、ノーアはそれを一気に飲み干した。喉をさあっと駆け下りていく清涼感に、思わず口許が綻ぶ。
「うん。美味しいね」
「そりゃあどうも! うちの一番の看板商品だよ。あんた、見ない顔だが、花果の国へは観光かい?」
「そんなようなものかな。これから、王宮へ挨拶に向かわなくちゃいけないんだ。お噂のベルンハルド様にも、一目くらいお会いできたらいいんだけど」
「ありゃあ、あんた、王様のお客さんかい。行商人や学者くずれにしちゃあ、身綺麗だと思ったよ。王宮に向かうんならね、この石畳をずっと道なりに向かえばいいよ」
ノーアが王宮に招聘された身の上だと話しても、売り子の女性は何ら物怖じする様子を見せなかった。この花果の国で、王家や王族が、いかに民の暮らしに身近で親しい存在か、という証左でもある。
「ご親切に、どうもありがとう。ところで親切ついでに、奥さん。少しお尋ねしても?」
ノーアは売り子の女性にグラスを返しがてら、不自然にならない程度に身を寄せる。効果はてきめんで、女性は、またわかりやすく頬を赤らめた。
「あ、ああ、あたしにわかることなら」
「そんなに難しい話じゃないさ。花果の国の当代国王エルランド様は、貴女から見てどんなお人だい?」
ノーアの問い掛けに、女性はきょとん、と瞬いた。
「王様かい? そうだねえ……。エルランド様は、先代のアルベルト様に比べたら、ちょっとあたしら庶民には、距離が遠い御人かもしれないねえ。アルベルト様は、よくお忍びだなんだと言い訳しながら、全然忍ばずにバザールへ遊びにやって来るような御方だったから」
「八年前に崩御されたという、アルベルト様か。それはずいぶん、チャーミングな御方だったんだね」
「そりゃあもう! このバザールも、アルベルト様が基盤を御作りになられたんだよ。
「それはいい。でも、そんな賑やかだったキャラバンの出入りが厳しくなったのは、一体なぜなんだい?」
「ああ、そりゃあ……エルランド様にとっちゃあ、あんなことがあった後じゃね」
女性は、そこで初めて言い淀む様子を見せた。
ノーアは、敢えて無垢に首を傾げてみせる。
「あんなこと?」
「ああ、いや! わざわざ余所の国からいらした御方の耳に入れるような話じゃないよ。まあ、アルベルト様に比べたら、エルランド様はもう少し大人しくて、堅実路線の王様ってことだね。けどあたしらにとっちゃどっちだって、いい王様さ。だって、花果の国はこの通り、五百年も昔から今日にいたるまで、栄え続けているんだから」
「……そう。確かに、このバザールは活気に溢れていて、俺も好きだな。
貴女のような、素敵な女性ともお知り合いになれたしね」
ノーアが片目を瞑ってみせると、売り子の女性は、更にぽっぽと頬を染めた。あらいやだ、どうしましょう、と彼女が呆けているうちに、簡単に礼を述べて、ノーアはまたフードを引き下ろして歩きだす。緩い登坂になっているこの石畳の公道突き当たりが、自身の目指すべき花果の国の王宮だ。
(鬼が出るか、蛇が出るか)
ノーアは、外套越しから、懐に入れた書状をきつく握りしめる。
「城塞の国」王家の紋章入りのこの封書を失えば、「ノーア・アンドレセン」と名付けられた男の命には、一片の価値さえなくなるのだと、わかっていた。
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