帰り花の王子たち
水鳥 たま季
プロローグ
「
この先、エートル峡谷の向こう、切り立ったいくつもの断崖を越えた先にある、絶対君主制の小さな国だよ。国土は80㎢程度、人口はせいぜい8千人程度ってところかな。成り立ちは古く、500年は下らないと言う。かなりの高地にあるっていうのに、気候は安定していて温暖湿潤、実りが多く、「豊穣の土地」としても名高い。
主産物は、国名の表す通り、
さて、この花果の国だが、その立地のせいか、親密に国交を結んでいる国はそう多くはない。せいぜい、エートル峡谷手前の「
まあ、理由はわからないでもないよ。花果の国の温暖な気候、豊かな土壌を魅力に感じ、取り入ろうとする国は、星の数ほどあるだろうからね。それを重々承知しているからこそ、あそこの王家は、外交に関して慎重で頑迷な姿勢を保ち続けているのだろうさ。業を煮やして、侵攻戦争を仕掛けた国も歴史上にはいくつかあるらしいけれど、花果の国はその構造自体、自然の要塞のようなものだからね。結局どこの国も、侵略することはかなわなかった。
要するに、花果の国というのは、その名から想起されるイメージに反して、かなり閉鎖的な国家なんだ。どことも交わらず、何にも混ざらなかったからこそ、500年掛けて発展した花果の国の文明は非常に独特で、特異性の高いものなんだともきいている。
けど、そういう閉じられた国だからこそ惹かれるっていうのは、やっぱり人の
とはいえ、珍奇な噂も多いのは、確かだよ。
たとえば、あそこの王家には神秘の力が宿っていて、王家存続の危機が訪れるようなときには、必ず神の怒れる鉄槌が下される、というようなもの。王権神授説、というらしい。要するに、当代国王に選ばれるような者には、現人神として、神から人智を越えた力が授けられるのだ、という教えが、まことしやかに囁かれているんだ。そしてその
え?
俺が、そんな与太話を信じているのかって?
いいや、まさか。俺も夢物語を信じていられる年齢じゃ、とうになくなっちまったよ。世の道理なんて、酸いも甘いも痛いほど分かり切っている。
信仰は自由だし、神だって、人の数だけ存在していいものだ。けれど結局のところ、人の営み、人の育む愛、織り成して紡ぎ上げる文化ってものを越えていけるのは、天地が引っ繰り返ろうと、やっぱり同じく人だけなのさ。民草がどれほど敬虔に祈ろうが、その摂理を覆すことはできない。
たとえ、相手が神であったとしてもね。俺はそう思うよ。
ああ、そう。花果の国に行ってみるのかい。
それなら、そこのキャラバン停泊地で、十分に旅の装備を備えてから行くことをお勧めするよ。まずは、エーテル峡谷を渡らなくちゃならない。ここの峠道を半日も歩けば、峡谷の山道に出るよ。道なりに行けば、吊り橋がある。そこを渡れば、例の断崖群に辿り着けるんだ。
断崖には、岸壁を削って作られた、細い石道が続く。杭は打ってあるし、縄だって渡してはあるけど、かなり足場が悪いから、十分に気を付けていくことだね。
崖壁を越えたら、あとは峠の道をずっとずっと、ただひたすらに、登り続ける。5時間ほども登ったなら、その先にようやくお待ちかねの、王都の城門が見えてくるはずだ。
あそこの門番は、謹厳実直で、人のいい好青年だ。貴方みたいな人ならば、きっと丁寧に招き入れてくれることだろう。
万が一、何か深掘りされて困るようなら、俺の名前を出してくれたらいいよ。『ステラに会った』と、そう伝えてくれ。これでも花果の国の中では、それなりに名は知られているんだ。
「そうか、それは有り難う。細心の注意を払って、行ってみるよ。ところで、君、ステラさん。君は一体、こんなところで何をしているんだい?」
俺かい?
俺は、まあ、案内人みたいなものかな。これでも昔に比べれば随分ましになったけど、峡谷も岸壁も、危険な道程ってことには変わりがない。うっかり旅の人が軽装備で迷い込んだりしないように、俺は、ここに庵を構えて、ガイドのような生業をして過ごしているんだ。
久し振りに、
どうか、君のこのあとの旅路が、幸いに満ち溢れたものになりますように。
さようなら。
旅人を見送ると、ステラは、自身の庵である小屋の中に引き返した。
デスクで文を
窓の中に鳩を招き入れ、結ばれていた文をほどく。
いびつな文字で書かれた文の中身に、目を通す。ステラは、思わず笑ってしまった。
『あいつ またやった はやく かえれ』
ステラはその文を丁寧にたたんで、ポケットにしまう。
「長旅、ご苦労さん」
ねぎらいの意味で、鳩には、あらかじめ採っておいた、木の実と若木の芽を小皿に盛って与えてやった。かつかつかつ、嬉しそうに餌皿をつつく鳩を横目に、ステラは、デスクで文の続きを認めつづける。
そして、腹が膨れて満足そうに羽づくろいを始めた鳩の脚に、書き終えた手紙を結びつけた。
「食事の後に、悪いけどもう一仕事、飛んでくれるかい?ヨアンのところまで」
鳩が、返事のように、くるう、と鳴く。
ステラは自身の腕に停まった鳩を、窓から、思いきり宙へはなった。オリーブ色の羽根をした鳩は、一目散に、はるか沖天、峡谷の向こうの雲ひとつない真っ青な空に向かい、羽ばたいていく。
その軌跡をしばらく見送ってから、ステラは、バッグパックを背負って、小屋を出た。さて、長い道のりになる。とはいえ、先程の旅人よりは、もう少し早く、花果の国に辿り着くことができるだろう。先程の旅人には、敢えて、険しい悪路を教えたからだ。やっとの思いで城門に辿り着いても、門番に「ステラ」の名を出した時点で、彼は、「花果の国」にとって、警戒対象に様変わりすることだろう。
そう判断した経緯についても、鳩に託した文に、すべて記してある。あとはヨアンが、そしてベルンがエーミルが、すべてどうにかしてくれるだろうさ。
「さあて、行きますか」
ステラは、軽快な足取りで、エーテル峡谷に向かって歩き出した。峠道には向かわず、真っ直ぐに、峡谷のはざまを流れる渓流目がけて突き進む。
いよいよ、谷川の流れに足を踏み込むところまで来たステラの足は、しかし、微塵も濡れることはなかった。だってステラは。
水の上を、歩いている。
「あのひと、今回は何日、メシを抜いたんだろう。ヨアンがきっと、カタリナさんに頼んで準備してもらってるんだろうけど。なんていうか、すっかり甘えん坊になっちまったよなあ」
ぼやきながら、ステラは苦笑した。
けれどその『甘えん坊』の我儘は、臆病な自分のために、言い訳をくれようとしているのだともわかっている。
「いま、行きますよ。――――
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