y.2017 婚約前
ロレンツォ = ファラスカ(Lorenzo Falasca)視点
ジェルメーヌを初めて見たとき彼女は12歳だった。
やせ細った体に乾燥した黒い髪。令嬢の装いがひどく不似合いだった。
「この子はジェルメーヌ。今日からお前の妹だ」
父は孤児院から引き取ったその子を4年後には隣国の学園へ遊学させ、そのまま王子と結婚させる予定だと僕に紹介した。
「お父様、それは無謀です」
僕は父に対して不用意に反論してしまった。
生まれ育った環境によって、品格には争いようのない差が生じるものだ。
拾ってきた子供を他国の王族へ嫁がせるなど不可能だ。
「とにかくやらせる。出自は問題ない」
それは父の不義の子という意味なのか。
思い浮かんだ考えに、ついには何も言えなくなった。
ジェルメーヌはこの一連の流れを無表情に聞いていた。
軽やかに揺れる金髪。清潔で滑らかな肌。それらを持つ父は実年齢より若く見えるが、侮れば、その整った口から出る冷徹な物言いのギャップに驚かされる人を何度も見た。
自身に向けられる羨望や悪意を軽くあしらうが、そこに嫌味はない。むしろ品があり、からかうような視線や物憂げな表情など、彼の一挙手一投足に意識せずにいられる人間はいないだろう。
一見、穏やかで品のある人物に見える反面、相当な策士でもある父。背丈こそ小柄だが、その小柄な体に秘められた品格と知識は、父を見かけ以上に大きく見せる。人々を導くカリスマ性と、瞬時に物事の本質を見抜く洞察力が、父をただの公爵ではなく、影響力のある存在へと押し上げている。
ここで我がT国公爵家について話すと、当主である父は現王の異母兄であり、結婚を機に公爵に叙せられた。
父は実母の身分が低かったため、王位は正妃の子である弟が継ぎ、臣下として仕えることになった。
我が公爵家は貴族の最上位で、王位に次ぐ称号を持ち、全てが順風満帆だった。ただ、なかなか子宝に恵まれず、結婚して10年以上経って生まれたのが僕、ロレンツォだ。
僕には兄弟姉妹がいないし、現状この国に未婚の姫はいない。
だからあの少女をわざわざ迎え入れたのだろう。
そこまですることなのかと思ったが、父は常々「国益なくして友好なし」と言うので何か企みがあるのだろう。
父の策略に利用される少女がただただ不憫だった。
少女はこちらに引き取られてから、公爵邸から出ることを許されず、毎日厳しいレッスンに扱かれていた。
その様は、ひどくいじらしく見えたが、成果はすぐに目に見えてわかるようになっていった。
髪に艶が出て顔色も健康的になり、侍女たちの努力がうかがえた。
それでいて、なんだか性質も次第に変わってきたように見えた。無表情で何を考えてるか分からなかったが、優雅に微笑むことを覚え、心做しか気品も出てきた。
家族揃っての食事のとき、折々回廊で偶然会うとき、少女の立ち振る舞いは、もうどうしても良家の令嬢そのものだった。
ただ、公爵家の令嬢としてO国の王族に嫁ぐにはまだ難しい。
それに加え、O国は孤立主義の為、その内情が明らかにされていない。
彼女の家庭教師たちはそれらのプレッシャーからか、そのレッスンは過酷を極めていった。礼儀作法に加えて、言語教育や音楽、美術の修養を積んだ。それに対し真摯に向き合う彼女がより一層いじらしかった。
厳しすぎないか、と尋ねると、家庭教師は少し肩の力を抜き、わずかに息を吐きながら、ノートをそっと抱え直した。「ジェルメーヌ様は、いつも真剣に取り組んでいらっしゃいます。それを見ていると、こちらも精一杯お手伝いしなければと思うのです」
家庭教師の言葉には、責任を感じながらも少女への敬意がにじんでいた。
少女の特出すべき魅力として、誰もが認めるのは、その美しい声だ。
発音はとても流暢で、歯並びの良さも相まって、その声は美しく響きわたっていた。まるでいくつもの言語を自在に操れるかのようで、僕はその完璧さに圧倒された。
僕は家庭教師たちとやり取りをしているうちにジェルメーヌには持って生まれた高潔な素質と弛まぬ努力、両方を兼ね備えた人物なのではないかと思った。
ある日、ジェルメーヌの左目の下に小さなほくろが、まるで涙の跡のように浮かんで見えた。
感情を決して言葉にしない様子が、ほくろとして表れているように思え、「辛くはないか?」と無意識に尋ねてしまった。
「私が辛いかどうかなんて、どうでもよいのです」
一瞬こちらを見つめ、ためらいもなく、はっきりとした口調でこう言った。
「それよりもひとつでも多くの教養を得たいです」
泣き言を言わない、ジェルメーヌのそういったところを好ましく思っていた。
同時に又、ジェルメーヌを甘やかしたい衝動を抑えられずに「確かに教養は大事だが、それをひけらかす必要はないよ」と出来うる限り優しく言って、なるべく自然にその頭を撫でた。
「侮られて利用されるのは避けるべきだが、賢さを強調して警戒されるのも避けるべきだ」
慰めの言葉でもあり、心からのアドバイスだった。
ジェルメーヌの大きな三白眼は、クールで神秘的な雰囲気を漂わせ、一度見たら忘れられない印象を与える。その目で瞬きもせず、じっとこちらを見つめて「そのように考えたことはありませんでした」と静かに言った。
「誰よりも賢く、魅了する子女になり、王子さえ傅いてしまうような、そんな人にならなくてはならないと考えてました」
その冷たい印象を崩さないまま、ジェルメーヌの目はどこか鋭さを帯びていた。だが、ふと微笑みが浮かび、その硬さが和らいだ。冷たさの奥に潜んでいた優しさが、少しだけ顔をのぞかせる。
「これまで、なにかを学ぶ機会なんてありませんでした。たくさんの子どもが亡くなるのを見てきたので、お義父様に引き取っていただけなければ、いつ死んでもおかしくありませんでした」
まるで曇り空が晴れて、光が差し込むかのように、その瞳は柔らかな輝きを放ち始めた。そして彼女の言葉は一層、深い悲しみを帯びながらも、どこか落ち着いた響きを持っていた。
「どの道、私にはまともに生きることなどできません。どうせ死ぬ命なら役に立ちたいと思ったのです」
初めてジェルメーヌの身の上を聞き、その目の中に秘められた深い苦悩と決意を感じた。
冷たさと柔らかさが交錯する瞳は、ただ見るだけで引き込まれ、自然と視線を奪われる不思議な感覚をもたらした。
そのことがあって以降、ジェルメーヌに対し慈悲、もしくは尊重する気持ちが芽生えてきた僕は、いずれ出て行ってしまう公爵邸を、なるべくならばその印象を美しくしたいと思うようになった。
異国で過ごすことになるジェルメーヌの心の支えになれるように、僕に出来ることはなんでもした。
ジェルメーヌの教育は留まることを知らず、歴史、文化、政治、経済、果ては宗教についても学んでいた。
僕は内心、父の意見や家庭教師の指導法には納得していなかったが、家庭教師がジェルメーヌを信頼し、賢い子だと評価しているのを見て、意外にも自分の期待通りのようで、あたかも自分が評価されたような喜びを禁じ得なかった。
そうして共に過ごしていると、いつからかジェルメーヌのことをジェムと愛称で呼び、一緒に過ごすことが僕の日課になった。
冷たさを感じるほど白く透明感のある肌。
視線を引きつけるいくつかの印象的なほくろ。
風に揺れても乱れない、まっすぐで滑らかな黒髪。
神秘的で冷ややかな魅力を持つ瞳。
凛としたラインが美しい鼻筋。
そして、優しく彩るふっくらとしたバラ色の唇。
普段は大人しくて冷たい印象を与えるジェムだが、時折、無邪気であどけない少女の一面が顔を出す。
その笑顔の中に残る子どもらしさと、ふとした瞬間に見せる大人びた表情が、混ざり合い、目を離せない不思議な引力を持っている。
無意識に漂わせる色香が、子どもらしさと成熟の間に揺れるこの年頃の少女特有のものだ。まだ完全に大人ではないが、そこに確かな予兆を感じさせる存在は、まさにその過渡期ならではの輝きを放っている。
ジェムはどんな女性になるのだろうか。
次第にジェムにとって逃れられない運命、国交の要となってもらうことが心苦しくなっていった。
兄弟のいない僕に突然出来た妹。
ずっとひとりだと思っていた公爵家のプレッシャーを一緒に負う妹の存在は、僕をともすれば彼女を甘やかしたくなったのだ。
冷徹な父のもとで支え合い、
互いに信頼できる唯一の存在足り得ると、
愚かにも思っていた。
ジェムに残された猶予があと1年の頃、ある夜、父の部屋から出てくるジェムを見てしまった。嫌な予感がして、そのまま父に問い詰めると「男の喜ばせ方を教えている」と羨なく答えられた。
「これからはお前がジェルメーヌに教えてやれ」
父は背丈こそ小柄で、僕と同じ目線だが、その存在感は圧倒的だ。
「気づいてないとでも思っていたのか?」
一歩前に出ると、まるで場の空気が父の意志に従って動くかのようだ。父の言葉には力があり、自然と耳を傾けざるを得ない。
「ここでお前が断ったところで別の男を充てがうだけだ」
父の言葉を聞き落とすことのないように、周りの音がシャットダウンされていく。
「教えられる教養には限界があり、すべてを得るには相応の時間と経験が必要だ」
精神も肉体も、両方面美しくするなど不可能だ。
育ちが悪いものはどうしてもその上層の中で違和感が出るだろう。
何かしらささいな仕草から富貴、貧賤の出を物語るものが示されるものだ。
その違和感を補うためにも必要なことだ。
…と父は仰っていたような気がする。
いかに大局的な物の見方をして最も国益となることが父の判断軸だ。
個別の利害や個人の義理人情ではなく、そういうものをすべて捨てて、ある意味冷徹に大局的な判断をすることが多かった。
父らしい、考え方だと思った。
同時にそれに従うしかないことも理解していた。
そして父は最後に「ただし、決して純潔を奪うなよ」と付け加えられた。
次の夜、ジェムは僕の部屋にやって来た。
研ぎ澄まされたような鋭い光を含んだ切れ長の大きい目はすべてを受け入れているようで、むしろ、僕に覚悟を問うような目線だった。
その目を見つめることに躊躇して、鼻筋のほくろを注視した。
「ジェムは平気なのか?」
これは聞かなければならなかった。
「私にはお兄様しかいないんです」
ジェムの声は、抑えた感情が静かに滲んでいたが、その言葉には揺るぎない力強さがあった。
「信用して全部任せられるのはお兄様しかいないんです」
僕が立ち止まることを、ためらうことを知っていても、それでも進むように促した。
「ずっと、良いことなんてないと思ってたけど違った。そう思わせてくれたのはお兄様なんです」
「僕たちは兄弟なんだよ?こんなことしたら、今までのようにはいられないよ」
ややあって「お兄様が気にしてたのはそれですか?」と不思議そうに聞いてきた。
それ、とジェムは言っているが大事なことだ。
ジェムのことに本気で寄り添えるのは僕しかいないと自負していたが、彼女にとってはあまり重要ではなかったのか?
そう思うと同時に、自分が優しくありたいだけだと気付いた。
父や家庭教師のように厳しく、多くを期待するより、真綿で包むように優しくありたい、という独り善がりな考えなのかもしれない。
「……私の母が生きていた頃、何度かお父様にお会いしたことがあります」
視線が自然と彼女の顎のほくろに引き寄せられた。 ほのかに動く唇とともに、その小さな点が彼女の余韻を伴った雰囲気を際立たせていた。まるで、どこか気怠く、しかし意図的に見せる優雅さがそこに集約されているかのようだった。
「その時に私のことを、色違いの母の様だ、と言ってました。お父様は私の実の父をご存知なのです。私の黒髪は父譲りで、公爵閣下とは違う方です」
そのことに気付いていないわけがなかった。
けれど、その事実を受け入れることで、この穏やかな関係が壊れてしまう気がして、あえてそのままにしていた。
だから、その言葉に咄嗟に答えることができなかった。
心の中で長い間抱えていた思いが、ジェムの強い意志に押し流されていくようだった。
彼女が本気であることは、もう疑いようがなかった。
「だから、後ろめたい気持ちなんてありません。私の大切なお兄様にも、してほしくありません」
そう言って、ジェムはぎこちなく僕の胸にしがみついてきた。
この年頃の少女だけが持っている"あどけなくて無垢な少女"と"艶っぽくて劣情を掻き立てるような女"の二面性を、ジェムはすでに使い分けていた。
背中を撫でる手は、静かに、だが確実に僕の心の奥底に眠る感情を呼び覚ましていた。柔らかく触れるその指先が、僕の背中を滑り、言葉にならない感情が溢れ出してくる。心を揺さぶるその触れ方は甘く、そしてどこか危うかった。
ジェムの危うさを孕んだ二面性の傾きが、その均衡を崩すたびに、一層抗いがたい魅力となっていた。
「大丈夫ですわ、お兄様に満足していただけるようきちんと教わりました」
ーーー本当は最初から抗えるはずもなかったのだ。
僕はジェムの決意や機嫌を損ねることのないように、慎重に抱きしめ返した。
彼女に感じていた責任感と慈しみ、そして申し訳なさと同情心までそれらすべてが、恋心によるものなのは、とっくに気付いていた。
この役目を他の誰かに充てがうことは、考えられなかった。
こうして、僕らの関係は、それぞれの重荷を分け合いながら、お互いに寄りかかるように始まった。
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