y.2021 婚約破棄前
ジェルメーヌ = ファラスカ(Germaine Falasca)視点
私の婚約者は上品な笑みを浮かべ、従者が差し出す傘を受け取り広げると、足速にこちらに近付いて来た。
人通りの少ない場所での夕立にガゼボで雨宿りしていた私に濡れないようにその傘を差し出した。
自分自身は濡れてしまうのに少しの躊躇もないその動きは無駄がなく、とても優雅で美しかった。
「リュドヴィック殿下、ルネ嬢と親しくなり過ぎではありませんか」
咄嗟に出た言葉がそれだった。
脳裏では夕立に立ち尽くした私を見つける前のこの男の行動が何度も繰り返されていた。
従者をふたり引き連れて歩く男は、タイミング良く現れた少女と楽しそうに話す。そのうち盛り上がって来たのか少女は踊りだし、男も寄り添うように踊った。
なんだあれは。
ふたりは他に人がいないとはいえ、従者たちの存在など気にせずに快活に笑っていた。少女はそのまま振付の一部のように去って行き、その姿を男は見えなくなるまで見送っていた。そうしてやっと、私の存在に気が付いた。一瞬表情が硬直したが、すぐに上品な笑みを浮かべ、従者が差し出す傘を受け取り広げると、足速にこちらに近付いて来た。
私はこの時、この男への軽蔑と、無視されることがなかった安堵感、両方の気持ちがせめぎ合い、どんな顔をしたら良いのか分からず無表情だったと思う。
ただ、胸に抱えた家族への手紙に無意識に力を込めた。
愚かな行動をするな、とお父様の声が聞こえた気がした。
「リュドヴィック殿下、ルネ嬢と親しくなり過ぎではありませんか」
咄嗟に出た言葉がそれだった。
「ルネ嬢はただの友人だよ。貴女の心配することは何もない」
男は申し訳なさそうな表情を浮かべながらも、その上品な笑みを決して崩さなかった。
その目は私をまっすぐに見つめ、まるで私がどう反応しようとも、それを許容するという自信に満ちていた。そして、そのまま自分のことなど気にもせず、ただ私に傘を差し出す。
毛先を念入りに巻いた黒いロングヘア、膝丈の制服のスカート、胸に抱えた本と手紙。
それら全てが濡れないように、男は私を庇うように傘を差し続ける。男の肩は瞬く間に雨で濡れていったが、その様子に少しの迷いも感じられなかった。
この男は、その王太子という高潔な身分を巧みに利用し、私が最終的に従わざるをえないことを分かっているのだろう。あるいは、私に許されたいがために、そうしているのかもしれない。
そのどちらであれ、私には抵抗する術がなかった。
こんなふうに、誰かに自分の意志をねじ伏せられることには、もう慣れているつもりだった。男が濡れてまで傘を差し出しているのに、うまく言葉を選べない自分がただ情けなかった。それでも、小さく一歩を踏み出し、傘の中へと足を進め、エスコートを受け入れた。
傘の下で男は慎重に私の肩に寄り、ガゼボから渡り廊下のほんの少しの距離を私に合わせて歩いた。
私は濡れず、男だけが濡れた。
男の傘は不自然なほど傾きながら、男が濡れることを厭わずに、ひたむきに私を雨から守り続けた。
雨音だけが静かに響き、隣に男がいるのに、まるでひとりで歩いているかのような孤独を感じていた。お互い話すこともなく、ただ無言の沈黙が流れていた。
男の肩越しに見える景色は、どこかぼやけていて、現実から少しだけ切り離されたような感覚があった。傘の縁から滴り落ちる雨粒が、まるで時の流れを象徴しているかのように見えた。
屋根の下に着くと、男は私の肩に手を置き、「濡れていないか?」と尋ねた。その言葉が、ようやく男から私にかけられた最初の言葉だった。私は微笑んで「大丈夫です」と答えたが、その微笑みは表面的なものであり、本当の感情を覆い隠していた。
その言葉が、ただ周囲に対する礼儀や義務感から発せられたものであることを私はわかっていたからだ。
男が本当に私を気にかけているわけではなく、ただその場に応じた行動を取っただけだという事実が、私の未熟さを突きつけた。そのことが、骨身を惜しまぬ努力で得た公爵令嬢としての自信を、少しずつ失わせていった。
私を濡らさないように、男が慎重に傘を閉じている間に、控えていた従者たちが改めて私が濡れたり汚れたりしていないか確認した。
その後に、男の濡れたジャケットを受け取り、丁寧に扱い、まるで貴重な宝物を扱うかのように男に気を使った。男の周りにはいつもこうして人々が集まり、男のために何かをしてくれる。それは男の地位や権威に対する当然の反応であり、男自身もその扱いに何の疑問も抱いていないようだった。
私はその無意味さに囚われて、ふと男の顔を見上げた。男は私の方を見て微笑んでいた。その微笑みは、表面的には優しさを装っていたが、その裏に私を見下していることが透けて見えた。
侮られて利用されるのは避けるべきだ
かつての言葉が、自信を揺らいでいた私の心をもう一度奮い立たせてくれた。
気を引き締め、毅然とした態度で男を見つめると、「私は別に、殿下の行動を咎めるつもりはありません」と歯切れ良く言い放った。
その場の全員の手が止まり、こちらを注目した。一気に緊張感が走り、皆が私の様子を伺っている。
「誰にでも平等に接することは殿下の美徳ですもの」
男はその言葉に一瞬戸惑いを見せたが、すぐにその表情を和らげ、「貴女は本当に理解してくれているんだね」と言った。
私は困ったように「でも殿下、このことが悪意を持って噂となり広がりますと、自ずと私に同情が寄せられてしまいます」と言いにくそうに顔を伏せ、「同時に殿下のイメージが失墜されてしまう恐れがあります」と続けた。
驚いた男を庇うように優秀な従者が「ジェルメーヌ様はいつも多くのことに配慮してくださり、助かっております。今後は私たちもより落ち着いて行動しますね」とフォローした。
私は男の顔をじぃっと見つめた。優雅で気品に溢れてはいるが、少女の前で見せる快活な様子を私には決して見せない。
それは私たちが形式上の関係であると、より強調していた。
「優秀な方が仕えるのは殿下の人徳ですね」
二人きりでは、何を言っていいかわからない。けれど、人前だと改めて意識したら自然と口にできた。
「でも私が一番心配なのは、その状況で最も傷付くのはルネ嬢だと思うのです」少女のことを心から案じ、沈んだ様子で語った。
「殿下の美徳が、時にどんな行為よりも誰かを傷付けてしまうことになってしまうかもしれません」
これなら、従順なお嬢様に見えるかしら?
侮られて利用されるのは避けるべきだが、賢さを強調して警戒されるのも避けるべきだ。
一拍置いて従者が「やはり、女性ならではの細かいお心遣いは流石ですね!私たちも騒ぎを起こしたくないので、もっと気をつけますね」と張り詰めた空気を和やかにするように明るく答えた。
私も負けじと「とんでもございません」と微笑み、美しく礼をした。
「夕立に困っていたので助かりました。殿下にお礼申し上げます。私を庇って殿下が濡れてしまったので、後のことを頼みますね」
そして、私はその場から淑女の手本のように立ち去った。
案外、男とは簡単に傅くのだと殿下から学んだ。
私は少し『傅く』という行為に幻想を抱いていたことに気付かせてくれたことには感謝している。
学園の中に響く雨音が、自分の心の中の静寂をさらに強調していた。
男……リュドヴィック殿下と親しい少女、ルネ嬢とは一度言葉を交わしたことがある。
ルネ嬢は初対面にも関わらず私を「ジェルメーヌちゃん」と呼び、「こんにちは」と話しかけてきたのだ。
見かねた同級生が上位の女性からしか声をかけられない、呼び方が不敬だと教えた。
きょとんとした後、ルネ嬢は頭を下げ「ごめんなさい、貴族の作法に不慣れで…教えていただき、ありがとうございます!」と謝罪と感謝をした。
ルネ嬢は貴族子息子女ばかりがいる学園に庶民でありながら「奇跡の少女」として貴族の養女となり入学した。曰く、神の声が聞こえるらしく、いくつもの奇跡を起こしていた。
「いいのよ。まだ社交界デビューもしていないし、学園はその練習と思って学んでください」
そう言ったらあどけなく無邪気に破顔し、丁寧なお辞儀をされた。
それ以降話すことはなかった。
彼女から話すことは無作法になるし、かといって私から話すことは特にない。
私から彼女に殿下との仲を注意しようものなら、
何をムキになってるの、こんな市民と張り合う必要は貴女にはないでしょ。
と無邪気に微笑まれるのはよくわかっていたからだ。
確かに彼女にはルーズな面があり、こんなふうに人を不快にさせたとしても、損得の計算が一切なく、憎めない愛嬌があった。
全力で、その場で尽くして、誤解を恐れず、かけひきもしない。「反省はするけど、後悔はしない」というのが、彼女の口癖らしい。
その奔放さが、いつか彼女にとって大きな代償をもたらすのではないかと、思わずにはいられない。
ルネ・ボーランジェは、挑発的で慈愛に満ちた魅惑的な少女だ。
王太子をはじめ、将軍や宰相のご子息など権力者たちと懇意にし、曖昧な態度で彼らを翻弄している。
彼女に関わった者は皆、彼女に良い印象を持つ。損得の計算はないが、彼女は自然と誤解を招かない立ち振る舞いをしているのだろう。
彼女はまだ女同士の駆け引きを理解できるほど大人ではなく、ただ男たちと遊んでいるに過ぎない。
そんな彼女が気になってしょうがないご様子のリュドヴィック殿下。
その行動が王太子としての振る舞いにそぐわないことはわかっているからか、私に傅いて、いかにも大事にしているようにポーズをとる。
殿下が私を気遣い、大切にしてくれることは間違いない。
しかし、その行為が本当に彼自身から生まれたものなのか、それとも彼が常にそうするように教えられ、期待されているからなのか。そのふたつには明らかな差があった。
表面上は優しく思慮深い人柄に見えるが、実際のところ意思が弱く、誰にも反感を買いたくないため、相手の言うことに従いやすい。
君主が基本として持つ品性というものが欠けている。
この国で実質的に権力を握っているのは、王族ではなく臣下たちなのかもしれない。そのことを理解しつつ、王太子の振る舞いを許しているO国の貴族たちには、一体どのような思いがあるのだろうか。O国の階級社会が抱えるこの問題は、見た目以上に根深く、複雑なもののように感じられる。
お父様は王太子の婚約者となる私に言い聞かせている言葉があった。
友好を大切にしつつも国益を最優先と考えること。
友好を追求することで国益を損なうのは愚かな行動だ。
むしろ、国益を実現するために友好関係を築くよう行動しなさい。
けれど、殿下と私は、婚約者同士でありながら、お互いに関心を持つことさえない。
傘の中の沈黙が、ふたりの関係を如実に表しているように思えた。
あの時、殿下との関係がまるでこの雨のように一時的なものでしかないのではないかと思った。雨が止めば、傘も閉じられ、ふたりはそれぞれの道を歩むことになるだろう。その時、殿下がガゼボから私を連れ出してくれたように、私を気遣い、守ってくれることは、きっとない。殿下が本質的には私に興味を持っていないことは、すでに分かっていたから。
このまま殿下の婚約者であることに何の意味も成さない気がした。
言葉にならない不安や心細さを少しでも解消したい一心で、私は急ぎ実家に手紙を送る手続きを済ませた。
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