第3話 10月6日

 裏金議員の公認をめぐり、首相の発言がコロコロと変わる。あっちペタこっちペタの軟膏薬のごとし。


 1868年の旧暦8月21日が今日にあたる。戊辰戦争が起こった年であり、この日薩長の連合軍が会津地方への入り口である母成峠に侵攻し、待ち伏せした会津藩の軍勢と戦いとなり、世にいう「母成峠の戦い」が勃発する。


 この戦いで、会津への侵入を許さず、冬まで足止めできていれば、ナポレオンや二次大戦のヒトラーのごとく、冬将軍に足止めされ、たちまち生まれてこのかた雪に強い会津藩はじめとした奥羽越列藩の軍勢は、たちまちその戦いを有利に運べたかもしれない。


 もちろん、誇大妄想などと言われるかもしれないが、だがそうせずにはいられない。なぜなら、私の家は鎌倉時代、三浦半島から佐原十郎連(のちの葦名氏)に従い会津に移り住み、そこで武士として代々会津を治めた殿様に仕えた家だからだ。


 私の祖先の家は未だ会津若松の地にひっそりと残っている。私の家の苗字が地名となるくらいに、鎌倉時代から長々と子孫を増やしたようだ。


 私の本家は若松とは別のところであるが、同じ会津盆地に存在する。そういった家であるせいか、家族親戚は会津藩に対する想いというのはなかなかに強い。私も子供の頃から自然と会津という土地の歴史を知っていたし、戊辰戦争での会津藩のあまりにも壮絶で悲惨な様に涙し、ご先祖様たちが帝のため、幕府のため、会津のために戦ったというのに、薩長土肥の者どもは賊軍の汚名を着せたことに、激しく怒った。


 だから、私は決して薩長土肥の者どもを官軍などとは呼ばないのだ。かつて、若松の早川市長に萩の市長が「戊辰戦争から100年も経ったのからそろそろ友好を結んでいいだろう」と言ったが、早川市長は「まだ100年しか経っていない」と言い、姉妹都市提携を断ったというが、それだけ会津の人々にとって、戊辰戦争の出来事というのは祖先が貶められた悲痛な出来事であり、それを引き起こした薩長土肥を許すことなど到底できないのであろう。


 今の時代、そんなことを言えば「偏見がすぎる」「いつまで過去にこだわっているのだ」とか言われるのかもしれないが、自分の故郷を愛する気持ち無くして、国を人を愛すことなどできようか?


 愛国心などというものが廃れた今の世の中を見るにつけ、私が子供の頃から会津という土地に対して思い続けたこの愛郷心は、ただひたすらに錆びつきそうで怖いのだ。


 だから、そういった想いに磨きをかけるために、時々このように思い起こしては文章を書き残さなければならない。


 しかし、薩長土肥という言い方をするが、それを持って現在の鹿児島・山口・高知・佐賀の人を恨むという意味ではない。生まれを選ぶことなどできないのだ。そして、その人たちの先祖の行いを正そうとすることなど、どこぞの国がいつまでも我が国を貶め続けることと何ら変わらない。私は決して、今生きる人たちを恨むことはしない。ただ、戊辰戦争時に東北新潟の人々を徹底的に貶めた人間たちを許せないというだけの話である。あくまで歴史上の過去について言っているだけである。


 ただ、そうはいっても姉妹都市を結ぶなど表面的な友好をわざわざ結んでも仕方のないことであろう。というより、それをもって戊辰戦争での出来事を忘れましょうなんてすることは、やはり簡単にできることではない。無理にそのように歴史に和解などと残すこと自体私は反対である。しかし、前述のよう、それがその地に今生きる人たちを憎もうなどとは思わないし、むしろ、私たちもあちらに赴き歴史と文化を知り、あちらの方々も会津に赴き、同じように見聞きすればいいと思う。ただ、それだけでいいと思うのだ。


 当時の会津の人々は、初代藩主保科正行公の会津家訓を実直なまでに守り通した我らの祖先の方々を私はただ誇りに思う。決して時代の流れが読めない愚か者などとは思わない。


 だからこそ、今日起きたこの母成峠で薩長土肥の者どもを会津に侵入させてしまったことは、ただ残念でならないのだ。


 母成峠の敗走が知れ渡り、白虎隊は会津の城下町を死守するため猪苗代は戸ノ口原に駆り出されるも、そこでも薩長土肥の勢いを削ぐことはできず、指揮官を見失い、それでも会津の城下町を守るため、散り散りになりながらも若松へ向かう。7人の少年たちは幼いながら、夜の闇とそれ以上に敵の夜襲に怯えながら、菰土山(こもつちやま)に野営する。


 翌8月23日、滝沢峠に近くを抜け、飯盛山へと続く水路を抜け、山を駆け上る。頂上は出、会津盆地を見下ろすと、鶴ヶ城が燃えているのであった。しかし、白虎隊は鶴ヶ城が燃えていると誤認したとなっているが、唯一生き残った飯沼貞吉の生前の手記が2010年に発見され、そうではなかったことが書かれていた。


 少年たちは怪我をし、もはや戦えない自分たちの身を恥じ、武士としての覚悟を決めたのであった。そして、1868年慶応4年8月23日(今の10月8日)、全員が自刀する。明治までわずか1ヶ月足らずであった。


 もし、これをお読みの方が会津に向かう時、郡山市の磐梯熱海ICで降り、国道49号に向かう道とは逆の方向に行くといい。すると、母成峠に赴くことができる。母成峠は、秋にはとても美しい紅葉の絨毯を織り成し、また遠目に猪苗代湖や磐梯山を見下ろすことができ、そこから五色沼などがある裏磐梯ルートや猪苗代湖の沿岸から若松に抜けるルートをどちらか選んで、あるいはどちらも選んで通るといいだろう。


 そして、もし若松に入るときは、強清水の蕎麦屋を目印に滝沢峠を抜け飯盛山に向かうのがおすすめだ。白虎隊がどのようなルートを、そしてどのような気持ちで敗走していったのかを想像できるであろう。白虎隊士は、今も飯盛山の頂上で、会津盆地を見下ろしながら、静かに眠っている。



 


 


 

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