水拭き

増田朋美

水拭き

暑かった夏もようやく終了し、涼しい風が吹いてくるようになった。そうなると、動きやすくなって、いろんな活動が再開される季節でもある。

そんなわけで秋になると、製鉄所を利用する人も多くなる。と言っても、鉄を作るところではなく、居場所のない女性たちが、勉強や仕事をするための、部屋を貸し出している福祉施設である。利用している人は、現在3人の女性が利用しているが、その日、もう一人利用者がやってくることになっていた。

「えーと、藤木結衣さんですね。住所は富士市の中里ですか。ずいぶん、遠いところから、来られたものですな。」

ジョチさんは応接室の椅子に座っている女性に言った。

「はい。ですが、富士駅行のバスも近くにありますし、そこから富士山エコトピア行のバスに乗っていけばいいので、あまり心配はしていません。」

と、藤木結衣さんは答えた。

「それで、家族構成は、お父様とお母様、あとお祖父様ですか。なかなか大家族ですね。今の時代、お祖父様やお祖母様と暮らしていらっしゃる方は、そうはいないですからね。」

と、ジョチさんがいうと、

「それが何も良いことないんです。先日祖母がなくなりまして、祖父はそのショックからなかなか立ち直れないようで、ウズウズしたままですし、そういうことなら、あたしが外へ出たほうが良いなと思いまして、それでこさせていただきました。」

結衣さんはそう答えた。

「お父様やお母様は、あなたのことを、なにか言っていらっしゃいますか?」

「ええ、祖父のことばかりで私のことは何も。」

「そうですか。そういうことなら、結衣さんもなにか新しい事を始めましょう。ずっと家の中にいては、埒があきませんから、そうですね、まず初めに、通信講座か何かで、なにか学んでみるのはいかがですか?」

ジョチさんは、そう提案してみた。実際ここの利用者で、通信講座で勉強をする人は多い。具体的な資格でなくても、社会への居場所つくりのための第一歩として通信教育を受けるのは、大事な手段である。

「そんなもの、私にできるものでしょうか?」

結衣さんはそう言ったが、

「いえ、大丈夫です。やりたい気持ちがあればだいたい成功します。」

ジョチさんはこたえた。

「こんな趣味をしてみたいとか、こんな仕事をしてみたいとか、そのような希望はありますか?」

「それが、何をしたいのか、全くわからないのです。ずっと家族のことしかしてなくて、掃除をするとか、食事を作ったりするしかしてこなかったので。」

つまり、そういうことしかしてこなかったのかとジョチさんは思った。

「そういうことなら、洗濯や掃除などしてもらいましょうか。言ってみれば女中さんです。幸い、いくら女中さんを募集しても来なかったので、良いところへ来てくれました。それなら、早速縁側の水ぶきをしていただいたり、お庭を掃いたりしてもらおうかな。」

ジョチさんがそう言うと、結衣さんはわかりましたと言って、製鉄所の縁側へ行き、掃除用具入れから雑巾を取り出して、水で濡らして、水拭きを始めた。慣れているらしく、非常に上手だった。縁側ばかりではなくて、食堂のテーブルなどもきれいに掃除してくれた。利用者の食事を作っている杉ちゃんが、

「ほう、きれいに掃除してくれてるじゃないか。」

と言ったほどだ。

「お前さん新人だね。女中さん募集の張り紙を見てきてくれたの?」

杉ちゃんに言われて結衣さんは、

「ええ、やりたいことがあったとしても、やれそうなことが殆ど無いので、そういうことなら、掃除したり、食事を作ったりして、お役に立ちたいと思いまして。」

と答えたのであった。

「今まで、家事をするのがやっとだったんです。他になにかするとか、好きなことをするとかそういう事を、何も思いつかなくて。というか、そんな事を考えることもできなかったんですよ。気持ちがつらすぎて。何もできなかったというしかないでしょうか。」

「はあ、そうなんだねえ。そうなると、なにかできそうなことはないか、考えることもできなかったわけか。まあうつがひどいと、好きなことも思いつかないってこともあるけどさ、でもなんか身につけたほうが良いと思うなあ。」

杉ちゃんは、そう彼女に言った。

「そうですよね。皆さん揃って言うんですけど、それが思いつかないんですよ。学校に行ってたときも、学校に行くだけで精一杯で、好きな科目もなかったし、もうやりたいことなんて、見つかる前に終わってしまいました。」

確かに、そうなってしまう人は、多いような気がする。学校に行って、部活やその他の活動を通して、将来の夢が見つかる人もいるが、そうではない人も、意外と多いのだ。学校なんて思い出に残らない人も多い。

「まあ確かに、学校は、百害あって一利なしだからね。学校で人生奪われた人もいるし、単に、勉強するところというだけでは片付かない人もいっぱいいるからな。それは、お前さんが悪いわけじゃないんだ。そんなにちっちゃくならなくたって良いんだよ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。結衣さんの表情はまた変わった。

「ありがとうございます。あたしも自分なりにやれることを探してみます。ずっとやれることがないのは悪いことだと思って、自信がなかったので、少し楽になりました。」

結衣さんはにこやかに笑った。

「まあ、お前さんの言う通り、お前さんは、それなりの人生しかおくってこれなかったんだから、ここに来て良い転機になるじゃないか。みんなとお話してさ、これからの人生を考えていくといいさ。それは、悪いことじゃないから。くれぐれも、ペースが遅いとか、そういうことは思うんじゃないよ。」

杉ちゃんに言われて、結衣さんはハイと言って、またテーブルを拭く作業を再開した。それと同時に、

「ご飯ができたって、みんなに言ってきてくれ。」

と、杉ちゃんに言われて、結衣さんはわかりましたといい、それぞれの部屋にいる利用者たちに、お昼ができましたよと告げた。利用者たちは、あくびをしながら食堂に入ってきた。

「杉ちゃん今日のお昼何?」

「ああ、焼きそばだよ。」

「やった!焼きそば!」

利用者たちは、杉ちゃんが用意した焼きそばにかぶりついた。結衣さんの眼の前にも焼きそばが置かれた。それはとても美味しそうな匂いがして、結衣さんも食べずにはいられなかった。

「本当に美味しい!」

思わず結衣さんがいうと、

「でしょ。杉ちゃんって何でも作っちゃうのよ。すごいよねえ。あたしなんてとてもこんな料理はできないなあ。」

と、利用者が言った。

「どこかお料理学校で学ばれたとか、そういうことですか?」

結衣さんが聞くと、

「いやあ、僕がすることは、みんな馬鹿の一つ覚えだからねえ。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「でも、杉ちゃんがお料理作ってくれるから、あたしたちは、生きてられるようなもの。結構ね、あたしたちが家で作るときの参考になったりするのよ。そうやってさ、人のために何でも作れちゃうって、杉ちゃんすごいよね。」

利用者は、杉ちゃんの事を褒めた。

「だからバカのひとつ覚えだってば。」

杉ちゃんはそう言うが、

「いやあ、でもホント、杉ちゃんの何でも作れちゃうのはすごいと思うわよ。料理なんて本当に日常的なことだけど、極めちゃえば人のためにもできるってことが、すごいことだと思う。」

と、別の利用者が言った。

「まあまあ、変なことは言いなさんな。どうせ僕みたいに、歩けもしないし、勉強ができないやつは、どこ行ったって、バカと呼ばれるだけさ。まあ、誰かの役に立とうなんて思ったことはないよ。ただ、調理係のおばちゃんが寿退社したから、僕がご飯を作る羽目になった。それだけのことだ。事実なんてあるだけで、善悪も甲乙もつかないんだからな。」

杉ちゃんはそう言って、お茶をがぶ飲みした。結衣さんは、杉ちゃんの言葉になにか、印象に残ったことがあったようだ。

「どうしたの?」

そう言われて、結衣さんは、

「ごめんなさい私。ただ、事実なんてあるだけで善悪も甲乙もつかないっていえるのがすごいなと思って。」

と、感想を述べた。

「だからあ、事実なんてそんなもんだよ。勉強ができないんだったら、勉強ができるように、なんとかすればいいだろう。それだけなんだよ。それに、偉いとかバカとか、そういう変な感情が走っちゃうから、世の中おかしくなるんだ。そっちばかりが、優先されちまってさ、どうしたら良いかが二の次になるから、学校へ行っても進歩しないんだよ。勉強ができなかったら、勉強ができるように何とかする。それで良いの。それなのに、学校の先生は、お前は馬鹿だとか、お前は能力がないとか、そういうこというから、学校は百害あって一利なしなんだよね。」

「じゃあ、あたしみたいに、学校に行くだけで精一杯で、授業もろくにできなかった人は、もっと悪いことになってしまいますか?」

そういう杉ちゃんに結衣さんはそう聞いた。

「いや、悪くないよ。それなら、どう動くか考えればいいだけじゃないか。学校は苦しいんだったら、それを解消するためになんとかすることしか、人間にできることはないってもんさ。それを悪いことだと勘違いするから、お前さんだって辛くなったんじゃないのか?いいか、学校は辛いと思うことは、悪いことじゃない。人間だから、全部の人間に合わせるものを作ることなんて、できやしない。もし、学校が辛いんだったら、じゃあ、どうすれば辛くなくなるか、それを考えることのほうが先で、悪いとか、行けないとかそういうのはその後。」

「そうなんですね。あたし、そこを間違えていたんだ。そうやって、学校に行けない人間は悪い人間と考えていたから、行けなかったんですね。そうじゃなくて、学校が辛かったら、どうすれば辛くなくなるかを考えることのほうが先。あたし、なんでそんなことに気が付かなかったんだろう?」

「そういうことはね。普通に暮らしてれば、気が付かないで終わっちゃうことのほうがほとんどよ。」

と、別の利用者が言った。

「あなたはきっと、鬱になって社会から外されてしまったことを、恥だと思っているんでしょうけど、そういう事を学べるってのは、社会から切り離されなければできないのよ。だから、鬱になったってことは、そういう事を学べるチャンスだったって、ありがたく思わなくちゃね。」

「そうなんですね。でも私、そういうこと学べたとしても、何も、できることもないし、この先どうやって生きていけばいいか。」

結衣さんがそう恥ずかしそうに言うと、

「まあ、過去のことは変えようがないからさ、過去に戻ってもう一回やり直すことはできないわな。だけど、お前さんは、そうやって、縁側の水拭きも、テーブルを拭くのも、本当に上手にやってたじゃないか。それを、なんとかお前さんの売り物にしていくことだって、できるんじゃないのか?」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「それに衣食住に関わる仕事ができるって、いつの時代にも需要がある仕事だものね。」

と、最初に発言した利用者が言った。

「だから、そうだな、なんか講座受けて、家事ができるってことを仕事にしていくように持っていけば、いいじゃないかな?僕はそう思うけど。」

杉ちゃんがいうと、

「でも私、資格なんてどうやって取ったらいいか。資格を取るための学校に行く手段もないし。バスは確かにあるけれど、本数少ないし、それに、勉強するお金もない。」

結衣さんはそう言う。

「そのために理事長さんが言った、通信教育とか、そういうものがあるんじゃないかしらね。」

二番目に発言した利用者が言った。

「たとえ会場に行けなくても、通信講座だったら家でも学べるし、ここで勉強することもできるし。」

「でも、でも私、、、。」

結衣さんは、ちょっと言葉に詰まっていった。

「そんな事を仕事にしていくっていうのは、ちょっと、辛いものがあるっていうか、なんか、人生失敗しちゃったっていうか、そんな気持ちになってしまいます。」

「なんでそう思うんだ?」

と、杉ちゃんが言った。

「だって、立派な仕事だぜ。今行った通り、衣食住を仕事にするってのは、どこの世界でも需要があるし、それが切り離されちまったら、人間の社会じゃなくなっちまうよ。それに、いろんな人の生活に結びついていて、相手が仕事できるのは、食べ物のおかげだということもわからせられるぜ。それなのに、嫌なのかよ。」

結衣さんの目から涙がこぼれてしまった。

「そうか、学校で、いじめられたりしたのかな?」

と利用者さんが、そう彼女に言った。

「全く学校は百害あって一利なしだ。そういう大事なことも教えないなんて馬鹿げてる。お前さんができることは、すごいことだということを教えないというのは、教育機関として、成り立っていない。あーあ、困る困る。」

杉ちゃんの言い方は、乱暴なので、ちょっと怖い印象もあるが、実際考えてみると、そのとおりなのだった。なんで、家事が得意とか、そういう事をいじめたりしてしまうのだろう。本当に、どこか外れているというか、困ってしまう一面がある。

「まあ、しばらくここへ通ってだな。少し心の傷を癒やしてさ。それで、お前さんの特技を活かして、幸せになれるといいね。」

杉ちゃんがそう言うと、他の利用者たちも、そうねと彼女に言った。利用者たちは、彼女のことを、変なやつだとか、遅れているとか、そんなふうになじる人はだれもいなかった。ただ、にこやかに微笑んでいるだけであった。

「でも、ここには、あなたのように、衣食住のことで幸せをつかめない人もいるから、その人に話をしてもらえば、また変わるかもしれない。」

「そうそう。きっと今は悲しいけど、いつか必ず、今は幸せだなって言う日が来るわよ。」

利用者たちは、そう言っていた。それは年寄りだから言える発言であるのかもしれない。結衣さんは、そんなこと言わないでという顔をしたが、それで激怒するような顔はしなかった。というより、うつが酷くて怒りを表すことができないといったほうがいいのかもしれなかった。

それからしばらく経って。結衣さんはいつもどおり製鉄所に来訪して、縁側の床の水拭きをしていた。それを、その日は体調が比較的良かったのか、水穂さんが静かに眺めていた。

「いつも、床をきれいにしてくださってありがとうございます。」

水穂さんは雑巾を片付けている結衣さんに言った。

「いえ、あたしができることは、これしかありませんから。」

と、結衣さんは申し訳無さそうに言った。

「それでもいいじゃないですか。僕はずっと寝たきりなので、床を拭いてくれるだけでありがたいと思いますけどね。」

水穂さんがそう言うと、

「でも、どこか大きな仕事をして、会社で働いて、お金を得るっていう人生のほうが、幸せになれるんじゃないですか?あたしは、そう思ってしまうんです。学校のみんなはそういう人生を歩いていったから。」

と、結衣さんは言った。

「まあ確かにそう見えますよね。そのほうが、幸せで、地位も高いと思われますよね。」

水穂さんは、そういったのであった。

「ということは、水穂さんはそういうことができなかったのですか?」

結衣さんが聞くと、

「ええ。僕みたいな身分が低い人は、それは許されないでしょうからね。就職なんて無理な人が多かったですよ。」

まるで異民族みたいな言い方で、水穂さんは言った。

「そうなると、水穂さんは、どこか外国から来られたのですか?失礼な言い方かもしれないけど、最貧国とか、そう呼ばれている国家とか?」

結衣さんはそう聞いてみるが、

「いえ違います。ただ、僕らは、鞄屋とか、帽子屋とか、そういう皮を扱う仕事についている人が多かったですね。もちろん日雇い労働者として、工事現場で働いている人もいたんですが。」

と、水穂さんは言った。

「それで僕たちは、生活するうえで不便な場所に住んでいて、そこは、普通の人は立ち入っては行けない区域だったんです。」

結衣さんは、初めて聞いたという顔をした。

「それってもしかして。」

でも、水穂さんに、本当のことは言えない気がした。

「ええ、銘仙のきもの着てれば誰だって、ああ、そういう身分なんだなと思うでしょうね。世の中にはそういう身分の人もいるんですよ。だから、結衣さんはそういう身分ではなかったということも、まだ幸運だったんでしょうね。鬱になって、自分の人生を考えられるということは、恵まれた身分でもあるんです。」

水穂さんは静かに言った。結衣さんはまた泣き出してしまった。

「それでは、結局私は、こういう床掃除とか、そういう仕事しかできないで一生終わってしまうんですね。」

「でも、あなたは、僕とは違うんです。なにもできないわけじゃない。例えば仕事は、嫌な仕事であっても、趣味を持って、なにかに打ち込むことで生きていられる人だっているわけですよ。それは、僕とは違いますよ。そこを勘違いしないようにしてください。」

水穂さんはそれをしっかり言った。

「そうなんですね。あたし、これからどうしたらいいんですか。もうやることを見つけられる年齢は、とうに過ぎてしまいました。今は、うつで気分が落ち込んでいるのと、一日一日をやっていくだけで精一杯で、できることと言えばこうして床拭きをするだけです。そんな人間に生きてる価値があるのでしょうか?」

結衣さんがそう言うと、

「生きてる価値とか、そういうこと考えるより、薬飲んで、つらい気持ちをできるだけ和らげて上げること、そして、できることを、一生懸命やることじゃないでしょうか。」

水穂さんは、そういったのであった。確かに、学生時代に成功しないと、日本では成功していけないというのは、別に法律で決まっているわけではないけれど、必ずあるものであった。それに便乗して、若い人が鬱になり、自殺してしまうことも多い。だけど、それでも生きていけというのは、ちょっと、酷なのかもしれない。

結衣さんは、涙をこぼして泣いた。水穂さんは、彼女が、落ち着くまで待っていてあげるつもりなのか、彼女の前に、そっとタオルを一枚差し出した。


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水拭き 増田朋美 @masubuchi4996

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