56.聖墓矢

 

 静かなる聖堂、無数の灯りが揺れていた。雨雲から漏れる光ではステンドグラスは煌めかない。巨大な祭壇を囲むように、暗く沈んで、壁に張り付いている。


 王はゆっくりと話し始める。口内に詰め物でもしているかのように、声がこもっていた。


「焔聖も大白亜に駆けつけてくれようとは……。なんと美しい。神がお記しになったように、やはり聖女達の絆は、深く、尊いものなのだ。まさに、5人の聖女は魂で繋がっているとも言えよう」


 ニスモは床を見つめながら、ただ静かに話を聞いている。余程集中力を高めなければ、王の声は聞き取れなかった。


(駆けつけてくれた……? 聖女達の絆……?)


「焔聖よ。──お主もこの大白亜で輝聖を迎えようと考えているのだろう」


 ここでニスモは初めて、輝聖リトル・キャロルが大白亜に向かっている事を知る。全身から汗が滲み出て来た。


「儂はな、光の聖女が顕現したと知ってな、体に力が漲った。この老いて朽ちようとしている体に、希望が宿ったのだ。ついにこの世界が救われるのだと、その喜びを前にして、魂が残った活力を絞り出しておる」


 王はぷるぷると震えながら立ち上がった。


「ああ。我ら人類が数千年と夢見てきた完全なる平和が訪れるのだ。儂が王である内に訪れるのだ。何と素晴らしいことかっ!」


 そして跛行はこうしながらニスモに寄る。しゅしゅと小刻みに足を引き摺る音が、静かな聖堂に響く。


風湿病リウマチで石と化したこの足も、ほれ、見よ。斯様に滑らかに動くようになったわ。輝聖のおかげじゃ。輝聖がこの世界にいると、誰もが救われる。病を鎮める魔法も、優れた薬も、慣れて効かんようになったのに、こうじゃ! 希望とは全ての薬、魔法に勝るものよ!」


 死人のような面に目だけを輝かせて、ゆっくりゆっくりと、寄る。


「こうも気分が晴れやかなのは、子供の頃に見た動物園サーカス以来である。あれは良かった。本当に良かった。熊が玉に乗っておったわ……。茶色い熊が……」


 王の声は時折裏返り、ニスモにとってはそれが不気味に感じた。


 ニスモは少しばかり顔を上げ、数々ある疑問の内、1番大きいと思えるものを、恐る恐る問う事にした。


卒爾そつじながら」


「なんじゃ焔聖。何なりと申せ」


「教皇は、どちらへ……」


 王は微笑み、言う。


「──おらぬ。儂の命により南方の領で説法を行っておる」


 この答えを受け、ニスモとセルピコはある程度の事態を察した。教皇を他所へと退かした上で、大白亜に禁軍を駐留させたのではあるまいか。だとしたらこれは、奪い取った形に近い。無血占拠である。


 王はニスモの強張った顔を見下ろし、内心の不安と疑懼ぎくを見透かしたように問う。


「其方は王と教皇、どちらが上に座すると思う」


「はっ……?」


「聖女にそれは意地悪な質問だったかの……」


 どう答えるべきかニスモは非常に悩んで、曖昧な答えを口にした。


「……どちらも同じだけと、存じます」


「否、王である。王は教皇を承認するが、教皇は王を承認せぬ。古来は教皇領も王が与えた地である」


 ニスモの前に立ち、見下ろしながら続ける。脚は震え続けている。


「そして王が命ぜば教皇は聴かざるを得ず。しかし教皇の命は王は必ずしも聞かぬでよいものと心得る。たとえ軍の規模が正教軍の方が大きかろうと、威光の強さは王にある。それが世の理なのだ」


「はっ……」


 ニスモは深く首を垂れた。


「教皇は何かを隠しておる。怪しい。疑問に思わぬか、焔聖。なぜ蝕で輝聖と認めなかった。なぜ輝聖を学園から追い出したのだ。なぜ輝聖の顕現けんげんを民に知らせぬ。焔聖の意見はどうじゃ」


「それは……」


 言いあぐねていると、王は続けた。


「輝聖顕現の噂が流れ、正教会は枢機卿を集めた。儂も赴いた。初め、儂は呼ばれなんだ。王の権限を振り翳し、そこに体を捩じ込ませた。無様にな」


 ニスモの膝の上、その右腕。僅か、戦慄わなないいている。王のこもった声の不気味さ、震える脚のいびつさ、老いの曖昧な気配、その全てに圧を感じていた。確かにこの老王は瘴気に耐える世界の王であるのだと、魂が理解をし始めていた。


「そこで決まったのは、輝聖の存在に対し沈黙を貫く事である。教皇も正教会の坊主共も、儂の意見を聞く耳持たぬ。王である儂は、その場にいて、その場にいないものとして扱われた」


 王は震える脚を折り、ニスモの目線に合わせた。それでニスモは目を見開いて、ゆっくりと顔を上げ、床から王へと目線を移した。


「彼奴等は何かを隠している。何か大きな目的を隠しておる。もはや正教会は信じるに値せぬ。教皇が輝聖を導く気がないならば、この世界のために儂が導かねばならぬ。きっと、それは初めから決まっていたことなのだ。天命だと思わぬか?」


 王は震えながら焔聖の肩に手をやる。


「──教皇は王にあらず」


 王族の鮮烈な藍緑色ターコイズの瞳に、ニスモは完全に呑まれた。


「焔聖」


「はっ」


「聖女は5人、昵懇じっこんに、仲睦まじく世界を救う。違いあるまいな?」


 否定は出来ない。が、心情的に肯定も出来ない。だから、何かを言おうとした。だけれど、何も出てくることがなかった。ただ小さく、気づかれないくらいに小さく、口をぴくぴくと動かしたに過ぎなかった。


「──焔聖、ただちに正教会を離反せよ。今後は儂が神の名のもとに、新たなる教えをあまねく広める」


 王は続ける。


「瞳の色が異なろうが、お主は我が妹の子。あんな場所にいて良いものではない。焔聖がまず初めに大白亜に来たのも、天命なり」


 皺枯れた手で、焔聖の右頬を撫でる。いや、撫でるにしては力強かった。ぎゅうと掌で押し揉むのに近かった。下瞼は下に伸び、真っ赤な結膜がわずか露出した。


 その手には何らかののようなものが込められているように感じ、ニスモは怖かった。


 一体、恨みの正体は何か。『妹の子』というのが、そうなのだろうか。バーダー家か、アッテンボロー家か、あるいはそれ以外に葬られた妹の──母の無念を思ってか。


「輝聖は既に大白亜へと向かっている。輝聖の元に出向き、王のしもべとしてそれを迎え入れるべし」


 □□


 その後、ニスモは教会内の一室に通された。寝台と机、それからいくつかの調度品があるだけの簡素な客室であった。


 寝台の上に座り、ニスモは頭を抱える。


 ──正教会を離反しろ? 輝聖を迎え入れろ?


 突如現れた選択。それが凶器になって、無慈悲に迫り来て、己の喉を掻き切るようだった。


 ──王が神の名のもとに、新たなる教えをあまねく広める? 新たなる宗教を作るということ? 


 アルベルト2世は何を言っている。血迷ったのか。


 ──その上でリトル・キャロルを受け入れろと?


 それが天命だと言うのか。


 ──だとしたら、神はなんて残酷なことかッ!


 姉の拠り所であった神はリトル・キャロルを認め、姉や己を救ってはくれない。姉を否定し、己を否定し、嘲笑う。


 ──王は、なんて残酷なことか……ッ!


 ニスモは深く息を吐いた。


 王の勅命となれば、それを無視する事はニスモには出来ない。いや、無視したって構わないと心では思うのだが、いざ無視しようとすると、妙に怖くなった。命令に背くことに、孤独を感じてしまう。見捨てられると思ってしまう。


 常に体に傷を作っていた姉の、痛ましい笑み。それは記憶の中で、未だに鮮烈な色を放っている。傷はアッテンボロー家の人間によって刻まれた事は、容易に想像できる。怖くて、ああなりたくなくて、バーダー家に従った。姉もそれを推奨した。


 だからバーダー家には必死に良い顔をした。嫌だった処刑人の仕事もこなした。彼らの意にそぐわぬ事がないよう、気を使った。少しでも彼らの顔が曇れば、いたたまれないほどに不安になった。


 今でも権威ある人間に直接頼まれれば、断るのが怖い。失望させるのが恐ろしい。


 そして何より、王の怨みの籠った手。あの感触がまだ、頬に残っている。


 王は何も言わないが、きっと、心の奥底ではフランベルジュ家を恨んでいるのだ。その恨みは真っ赤な炭の如くじりじりとした火を宿して、ずっと心の中にあり続けるのだろう。


 妹を失って10年以上の時が経っても、フランベルジュ家の人間は未だに憎い。だが、当時幼かったニスモには関係のない事だから、それをあえて口には出さない。頬を撫でたあの手は、王の優しさでもあり、残酷さでもあった。


 ニスモは脂汗に塗れた顔をあげ、壁際の姿見を見た。首元が赤くなっている。妙な真面目さが災いして、蕁麻疹じんましんが出たようだった。気づけば右腕も真っ赤で、浮腫が出来ている。こんな事は初めてだ。心の状態が体に影響する自分が情けなくて、狂いそうだ。


「リトル・キャロルなんていなければ……」


 姿見を強く睨む。そして、手の届く場所にあった燭台を握り、鏡に向かって投げた。強烈な音が鳴って、破片が散らばる。


「ハァハァ……。王も王だ。輝聖が顕現して、急に色気付くなど……!」


 立ち上がり、机のもの全てを薙ぎ倒した。聖具や飾り皿が弾かれて、床に叩きつけられ、壊れる。


「クソッ……!」


 物に当たる自分が無様に思えて、天井を仰ぎ見ながら、はあはあと肩で息をし、床に座り込む。そして心を落ち着けるために目を瞑り、深く息をしていたところで扉が開いた。入ってきたのは老紳士のジャン・セルピコであった。


「随分と荒らしましたな。ここは神の座する大白亜にございまするぞ」


 彼はトレーを持っていた。金の器と薬罐ポット、それからカップが盆の上に載っていた。


「まるで赤ん坊ですな」


 ニスモはキッとセルピコを睨む。だがセルピコは特に気にする様子もなく、綺麗になった机の上に盆を置き、紅茶を淹れ始めた。優雅な手つきであった。


「少し腹にものを入れてはいかがか。ここに来るまでに何も食べていない」


 セルピコがゆっくりと近寄り、跪き、金の器を差し出す。


 中には薄い焼き菓子のようなものが入っている。これは聖餅ウェハーと言った。リュカが馬裂きとなる直後に食べたパンとされていて、ワインと含めて神聖視されている。パンと言っても硬く焼いてあって、非常に薄く、煎餅ゴーフレットのような見た目であった。


「どこから持って来たの」


「厨房から。教会ではどこでも常備しておくものです。美味くはないですが、腹は膨れます」


「盗んだのね」


 セルピコはかつて盗賊の頭領であったから、疑った。ヴィルヘルム・マーシャルに敗北し、その後は彼から様々な指南を受けた。20代の5年程度は師弟関係にあった。


「神官に問えば貰えるものです。教会のしきたりに疎いのですな。聖女ともあろうお方が」


「わざわざ教会に行って祈る習慣がなかった」


 そう言って、胸に下げたロザリオを握る。バーダー家は信仰が浅かった。


「ただ、問うべき神官も下働きも見当たらなかったので、今回は勝手に拝借しました」


「じゃあやっぱり盗んだのね。罰当たりな」


「リュカも盗みを働いたと多数の文献に記しておりまする」


「それは見世物小屋に売られる前の話だし、正教会は認めてないわ」


「とにかく、罰は当たりますまい。ご慈悲を下さいます」


 聖餅を一つ摘み、食べる。素朴な味である。僅かな甘みがある気がして、あとは粉の味だった。


「さて、留守を預かる枢機卿も聖堂内には見当たらず。禁軍に他の者はどこへ行ったかと問うても、何も口を開きませぬ」


「そう。なら、王に与しないものは捕えられたのね」


「あるいは殺害されたか、と言ったところですな」


 言ってセルピコも聖餅を一つ齧った。だが、それ以上は食べなかった。美味くなかったらしい。


「……教皇はこの事態に気づいているの? あなたはどう思う」


「予期をしていたのと存じまする。王が大白亜を占拠する兆候があったから、我々にそこを護れと命を出した。しかし、我々は間に合わなかった」


「第一聖女隊の道程に瑕疵かしがあったとは思えないけど」


「それでも間に合わなかったので御座います。教皇が思うよりも禁軍の速さが優ったと考えましょう」


 ニスモは、ふうとため息をついた。


「大白亜の正教軍も、教皇の沙汰があって禁軍が駐留していると思っているわ。もしくは、王がそういう事にしているだけかも」


 セルピコは金の器を置き、手の届くところにある鏡や陶器の破片を拾い集める。


「さて、もう一つの線が御座います」


「もう一つの線?」


「第一聖女隊を大白亜に向かわせた理由です。教皇は輝聖が大白亜に向かっている事を知っていて、それを止めるために貴女を向かわせた、とも考えられます」


 ニスモは乱れた髪の隙間から、じっとセルピコの顔を見る。


「教皇が光の聖女を認めていない事は、王の言う通りです。自身が神となろうとしているとさえ、噂されます」


「そうね」


「どうなさりますか。正教会を離反なさりますか? それとも、輝聖と対峙しますか?」


「……あなたも選択を強いるの?」


「人は選択を強いられて、徐々に強く、大人になるものです。──貴女はまだ弱く、青い」


 言われて、つきんと心が痛んだ。時折、セルピコはこのように核心をついた物言いをした。


「王も教皇も正教会も関係ありません。もはや聖女はこの世において絶対的な存在になりうる。自信を持って、お心のままに決断なさいませ。神は貴女を守ってくださる」


「神は守ってはくれないわ。少なくとも私の味方ではない」


 セルピコは静かに破片を拾い集め続けている。


「左様ですか。それもまた良し」


 ニスモはどうしたら良いかわからず、目を伏せた。5分ほど黙った。黙ってはいたが、何も考えられていなかった。考えがまとまらなくて、ただ膝を抱え、じっとして、沈黙していた。セルピコも黙って、破片を一つ一つ拾い集めていた。


 口をきゅっと結んで、ニスモは唐突に立ち上がる。そして祭服を脱ぎ始め、肌を露わにする。セルピコが隣にいるが、特に恥ずかしがる様子はない。


「決まりましたか。長考でしたな」


 襯衣シャツ段袋ズボンに着替え、ぼそりとつぶやく。


「……やはり輝聖がいるからこんな事になる。あれは世界にとって毒だ。私にとっても」


 そして、床に落ちた細長い箱を拾い上げた。これはニスモが持参した物で、机の上の調度品を払った時に一緒に落ちた。


 鍵を開け、中を開く。


 中には火の聖女に与えられた聖具が入っていた。それは真っ白で、細長く、鋭く、長さは40吋(1メートル)ほどである。名を『夏の聖墓矢せいぼし』と言う。


 この矢を放てば、必ず敵に命中する。目を隠していても、あらぬ方に放っても、どんな事があろうと、結果は同じである。念じずとも矢が敵を見定めて、そこへと向かってゆき、急所を貫く。


 不思議な事に、放った矢は何故か矢筒に戻ってくる。矢が爆ぜても、燃えても、川に流されようとも、遠くへと飛ばしても、矢筒に目をやった瞬間、そこに聖墓矢が存在した。


 そして、矢は2つ存在しないという、妙な理があった。


 ニスモはこの矢を貰い受けてから、一度目の前で燃やした事があった。いつどのようにして矢が矢筒に戻るのかを確かめたい意図があった。しかしニスモが瞬きをした瞬間、炎の中の矢は雄鹿の頭部に変化し、矢筒には聖墓矢が現れた。


 今度は瞬きをしまいと火の中の矢を見つめ続けたが、やがて意識が朦朧とした。睡魔に襲われたらしかった。そして目が覚めると、やはり炎の中の矢は雄鹿の頭部に変化し、矢筒には聖墓矢があった。


 奇妙で不気味な聖具であった。新たなる矢が生まれた瞬間、古い矢は決まって雄鹿の頭となる。角は立派であり、目は黒瑪瑙オニキスのように真っ黒で、鼻からは血を流している。とにかくそれ以降、ニスモはこの聖具を恐れて、仕組みについては深く考えないようにしている。


 この矢は、リュカが死罪となった際に殉死した使徒の骨を合わせて作られたと伝えられるが、繋ぎ合わせたような箇所は見当たらず、一本の骨で作られているように見えた。正教会は使徒ザネリの見事な技だと言ってそれを讃えるが、ニスモにとってはそれも不気味に感じた。光に透かすと淡い桃色なのも嫌だった。血が残っているようで。


「ねえ。輝聖がいなくなったら、この世界は破滅するかしら」


 ニスモは矢を矢筒に入れる。そして、王都の職人に特別に作らせた、滑車つきの弓を背負った。


「すると存じます」


「信仰が厚いのね。あなたはこの世界が好き?」


「それなりには。と言ったところですかな」


「そう。私はね、滅んでも良いと思っている。こんな間違った世界は無い方が良い。すべてめちゃめちゃにしてしまえば、きっと、誰も苦しまなくて済むのにね」


 言って、鼻を啜る。涙を我慢していた。


「それが貴女の選択、と相成りますかな」


「分からないわ。私がどうしたいのか。どうなりたいのか。何も分からない。とにかく、何処にも居たくないの」


「宜しい。迷うたまま行きなされ。それが貴女を強く、美しくなさる」


「──もう私を虐めないで、セルピコ。あなたも適当な理由をつけて下山して。ここに止まれば何が起きるか分からない。万が一のことを考えて行動すること」


 少しの間をおいて、言う。声は震えていて、弱々しかった。


「……あの子の顔を見て、選択するから」


 扉が閉まる。1人取り残されたセルピコは立ち上がり、腰を少し反って伸ばした。手には割れた飾り皿。見事な模様が描かれている。


「ふう……。同情はするが、物に当たるのはまったく良くない」


 机の上、ニスモが一度も口をつけなかったカップから、湯気が昇っていた。


 □□


 焔聖は非常に不安定な精神のまま、大白亜を下山した。


 禁軍文官の話だと、輝聖はマール伯爵領を南下している途中だと言うから、聖都から北に伸びるアメリア王妃街道を辿れば鉢合わせる形になりそうだった。


 聖都を出てすぐに雨足が弱まる。外套あまぐが要らなくなった。そして強い南風が吹き始め、髪が暴れた。雨雲が綺麗に流れていき、星空が顔を見せると、ニスモは奇妙な体験をした。


 満天の星空に、するりと星が流れる。それが大量であった。10秒に一度は流星が観測できた。この現象は1時間近くも続いていた。蒭藁すうこうの星々から放射状に流星が発生していた。文字通り星の降る夜、鴉たちは群れを作って羽ばたき、焔聖を度々追い越して行った。


 それから半日を歩いた。教皇領の関所を超えて、テンプルバリー伯爵領に入り、そのまま北上を続ける。馬宿や村などで休憩を挟みながら、さらに2日と半日を歩く。食事は適当に買ったパンとチーズだけで済ませ、道中で野兎が草を食むのを眺めながら食べていた。


 街道を進み続けていると、身を隠すのに最適なかつらの林があったので、そこに忍ぶことにした。よくよく葉の生い茂る健康そうな木を見定め、登り、大枝に座り込む。魔法を用いて、気配を殺した。


 そして、膝を抱えて顔を埋めた。歩いて景色でも眺めていれば気が紛れたが、じっとしていると頭の中の混沌が蘇った。


(……この世に輝聖などいない方がいい。死んでしまえばいい)


 不貞腐れたように心の中で唱えるけれど、たとえ殺そうと思ったとて、そう簡単に殺せるものでもないことはニスモにも分かっていた。聖女の体の神秘については、巡礼を行いながら調べていたから。


 これは理屈だが、聖女の魔力を絶って仕舞えば殺せるのではないかと思っている。例えば心臓を潰し血の巡りを途絶えさせた上で、魔力を生み出す丹田を壊してしまえば、体を回復する事能わない。次いで、上手く体を修復出来ぬ内に消し炭にしてしまえば良いが、それが出来るほどリトル・キャロルは弱くない。


 本当にそれをするかどうかは置いておき、心の中で殺すための算段を立て続けた。それは暇つぶしの一種だったし、何か心に目的を宿していれば、やっぱり気が紛れた。自分の鬱屈に押し潰されなくて済んだ。とにかく、荒んだ眼をして彼女らが現れるのを待った。


 一羽の白い鳩がニスモの目の前に止まって、ちょんちょんと段袋ズボンを突いた。パンくずが付いていただけだろうが、なんとなく、励ましてくれているように感じて嬉しかった。


「ふふっ、ありがとう」


 優しく笑って、そのまま突かせてやる。


「お前が人の言葉を喋れたら良いのにね」


 木に身を隠して5時間が経った。日が高く昇ったくらいで、人の気配がした。道の先をじっと見ていると、柔らかな陽炎の先に馬に乗った何人かが現れた。マール伯爵領軍の装備を施した男が5名、そして──。


(リトル・キャロル……)


 茶色い馬に乗るのは輝聖であった。濃紺の髪、風に揺れる。白い肌は日の光に輝く。学園の頃と何一つ変わっていないその容姿に、何故だか妙な安心感が芽生えたのと、やはりと言うべきか、同時に憎しみのようなものが湧き上がってきた。あの女の全てが嫌いだ。


 キャロルの脇、馬に乗る少女がいる。ニコニコと笑顔を作り、キャロルに話しかけているようだった。


(……あれは誰?)


 その銀色の髪の少女は、己よりも若いか、同い年くらいであった。見知らぬ顔である。学園を追放された後で、知り合った者だろうか。装備の色を見るに、東方にある辺境伯領の人間だと思う。


(なんでそんな田舎者が……)


 巨木の大枝に座るニスモの眼下、キャロルらは下馬した。そして街道から逸れて林の中に入る。キャロルは聖水と石灰、山羊の血を振り撒いて十字を切って、聖域サンクチュアリを作り、火を焚き始めた。ここで休憩を始めるつもりらしい。


 実の所ニスモは、自分が1人で巡礼をし続けたことから、同じくキャロルも1人だろうと決めつけていた。だがそれなりの人数で来たものだから、出ていくタイミングを失ってしまって、木の上で暫く観察を続けた。唐突に戦闘になって無関係な人間に被害を加えるわけにはいかない、と考えた。


 近くの泉に行っていた銀髪の少女が帰ってきて、釣ってきた鯉をキャロルが捌く。そして香味野菜や茸、買ってきたアーモンドやレンズ豆、少しの大蒜にんにくとバターなどを一緒に煮込む。ポタージュを作った。


 甘みがあって、やや香ばしい、濃厚な良い香りが木の上にまで漂ってきた。


(あっ……!)


 あまりに食欲を誘う香りなので、腹が鳴ってしまった。腹を押さえるが、2度、3度と鳴る。ニスモは1人、赤面する。


 □□


 キャロルらは自分らと馬の食事を済ませると、少し兵らと語らってから再出発した。


 林を抜けて、日が落ちかけたところで馬宿に到着。厩舎に馬を預け、キャロルらは食事の支度をした。鍋に水を入れて、たくさんの野菜と茸、牛骨を煮込む。ポタージュである。


(え? また……?)


 ニスモは馬宿の近くにあった薮の中で少し驚愕していた。昼もポタージュだったと思うのだが。


 翌朝、キャロルは朝食を作った。鍋に葡萄酒を入れて、数種の芋と大蒜、エシャロット、ハーブなどを一緒に煮込んだ。ポタージュである。


(嘘でしょ……?)


 銀髪の少女はニコニコと美味しそうに啜っているが、その他の兵は笑顔が少ない気がした。飽きているのではあるまいか。いや、待て。よくよく考えてみれば、林でポタージュを振る舞っていた時にも兵達は暗いように思えた。──まさか、この道程の食事全てがポタージュだったのだろうか。


(そんなわけないか……)


 食事を済ませると早々に馬宿を出発。道中の村で小休憩を挟み、キャロルはチーズとアーモンドを使用したポタージュを作った。


 夜には廃村に入り、ゾンビ化した犬を蹴散らした後は聖域を張って、廃屋で休んだ。そしておもむろに、さも当然のように、ポタージュを作り始めた。


 ニスモは闇に紛れながら憤る。


「ええい! 腹の立つ! やはりあんな女、死んだ方が良い! なんで毎食毎食、汁物ばかりっ! 私が出て行ってやろうか! 汁物女に代わって、それなりのものを作ってやるッ! 焼肉コンフィとか、薄焼ガレットとかッ!」


 腕捲りをして薮から出ていく寸前となって、自制する。ふうふうと荒く息をしながらも、少し気持ちを落ち着ける。そして、窓から見える彼女らを眺め続けた。


 廃屋からたまに聞こえる笑い声。誰かが冗談を言ったのだろうと分かる。


 半分崩壊している煙突から煙が立ち昇っている。


 食欲のそそるコンソメの香り。


 暖かい灯りに揺らぐ影。


 そして、いつもキャロルのそばにいる銀髪の少女の笑顔。彼女は輝聖といる時、ずっと笑顔だ。いつもキャロルについて回って、しきりに話しかけている。


 それに対しキャロルは気の利いた言葉を返すわけでもないようだが、それでも少女は楽しそうだった。キャロルもどこか、幸せそうだった。学園では見せなかった心からの笑みを時折作る。


「……私、馬鹿みたい」


 途端に、ニスモは悲しくなった。自分から孤独を望んでいるくせして、寂しさで苦しいことに気がついた。それに気がつくと今度は、自分が世の中で1番蔑まされた人間のようにも感じ始める。被害妄想に過ぎないが、ニスモはそれに浸ってしまった。


 ──私はこんなに苦しんでいるのに、リトル・キャロルはあんなに幸せそうだ。神はどうして彼女に幸せを与えて、私を嫌うのだろう。


 ニスモはじっと銀髪の少女を見た。彼女がキャロルに幸せを与えているのだと、なんとなく分かった。


 今すぐにその幸せを壊してしまわないと、自分が危うくなると思った。何より少女の純粋な笑顔が、幼い頃に姉について回っていた自分と重なった。


 □□


 夜明け近く、ニスモはいちいの木に寄りかかって座っていた。睡眠は取らなかった。じっと聖墓矢の先を見て考えていたら、寝れなくなった。


 ──もし、己があの銀髪の少女を壊してしまったらどうなるのだろうか。


 血まみれの銀髪の少女が倒れた瞬間、リトルキャロルはぽろぽろと涙を流す。無力さに押しつぶされて、そして、もう2度と、いい人であろうとか強くなりたいとか、思わない。今度こそ挫けるのだ。


「何を考えているの、私は……」


 想像するだけで、罪悪感でどうにかなってしまいそうだった。気が滅入って手が冷える。


「あの子は無関係……。彼女に危害を加えてはいけない……」


 実のところキャロルの事が羨ましいだけなんだろう、と思う。同類の己を置き去りにして先に進む彼女が、たまらなく眩しいのだ。本当は、学園にいた頃から気がついていた事だった。


 でも、リトル・キャロルを認めることは出来ない。彼女を認めると、自分が自分でなくなってしまう気がするから。姉や己の敗北を認めてしまう気がするから。


「負けたからって、何? いっそ、本当に負けてみればいいじゃない。いつまでも、うじうじと。情けない」


 情けなかろうと、リトル・キャロルだけが理想を追いかけ、それを手に入れる事を考えると、辛い。挫けてしまった己や姉は、そこには辿り着けない。虚しいし、悲しい。


「女々しい。生理臭い子供ガキの思考だわ」


 空の濃紺が、若干白けてきた。東から陽が昇り始めたのだ。ニスモは立ち上がり、遠い山々から姿を現す朝日を見つめた。


 ──あの時も、夜明けだった。


 リンカーンシャー公爵領。ゴードン川の処刑場には、たくさんの篝火があった。アッテンボロー家の人間が次々に連れてこられていた。中には既に死んでいる人間もいた。民や冒険者に袋叩きにされたのだった。


 生き残ったアッテンボロー家の人間の首を刎ねろと命令された。かの家の人間は庭師や女中までもが死罪となった。


 断頭台で歳の変わらない女中が泣き叫んでいた。姉に会っていることを内緒にしてくれていた女中だった。失禁しながら母親に助けを求めていた。命令され、その首を刎ねると、民が歓声をあげた。あの瞬間はみな、狂っていた。全員が獣になっていた。まともな思考をした者は誰1人としていなかった。


 今すぐに狂気の処刑場から抜け出して、街のどこかに隠れているであろう姉を探し出したかった。2人で領を抜け出したかった。焦りと血、死体から漏れ出た糞尿の臭いで、吐き戻しそうだった。


 ──朝焼けが嫌いだ。


 あの淡い紫色の空、真新しい純白の太陽を見ると、蘇る。

 姉が断頭台に上がった時。

 彼女の言葉を忘れない。

 忘れたくても忘れられない。

 呪いのように耳にこびりついている。

 それは──。


「……!」


 ニスモはハッとして息を殺し、屈む。キャロルが廃屋から出てきたのだ。


(寝ていなかったの……?)


 キャロルは煙草に火をつけ、歩き出す。村にあった幾つかの墓に聖水をかけ、軽く十字を切った。そして、ふらりと近くの林の中に入って行った。ニスモはそれについて行く事にした。


 林の中には浅い川があった。キャロルは河原まで行くと、服を脱ぎ始めた。どうやら体を洗うつもりらしい。周りには誰もいない。キャロルからくっついて離れる事のなかった、あの銀髪の少女も恐らく寝ている。


 ──話をするなら今だろう。


 ニスモは壊れた水車小屋の陰から姿を現した。キャロルはチラリと見やり、下服ズボンを脱ぐ手を止めた。そして上半身を曝け出したまま、向き合う。胸に、金色の首飾りが輝いていた。


「ずっと気配がしていた。ニスモだったのか」


 それから、しばらく2人とも沈黙した。ニスモはまず初めに口にするべき言葉を探していたし、キャロルは言葉を待っていた。


「リトル・キャロル。決着をつけよう」


 ニスモが散々考えて、絞り出した言葉がそれだった。


「私はもう決着をつけたい。いい加減、疲れた。お前という存在に振り回されるのは草臥くたびれる」


 続ける。


「私が負けたら焔聖として貴女に従う。だけれど私が勝ったら、貴女は大白亜に入らないで。そのまま世界のために消えて。どこか山か森で、ひっそりと暮らせばいい。あの銀の髪の少女と」


 キャロルは何かを言おうとした。だが、ニスモの瞳がそうさせなかった。迷いでも無い、怒りでも悲しみでも無い、ただ静かな瞳が、並々ならぬ決意の色を滲ませていた。それが邪魔して、決着の理由は問えなかった。だから、頷いた。


「分かった。やろう」


「武器は?」


「必要ない」


 キャロルは軽く首を鳴らして、手をだらりと下げた。


 その瞬間、2人の瞳は冴えた色に変わった。まるでそこに炎が宿ったかのように、輝きが増して揺らめきを帯びた。そして彼女達の周囲の空気は急速にしんと冷え、ごおという小さな、低い、地響きのような音が鳴り始めた。聖女2人の発する気がそうさせた。


 川の流れは妙になり、所々ちゃぷちゃぷと跳ねて音を立てる。2人の足元に広がる河原の丸い石がカタカタと音を鳴らし始めた。木々に止まっていた鳥たちが一斉に羽ばたく。空間の所々に電離プラズマが生じる。


 その中で、ニスモは考えている。──リトル・キャロルはどう動くか。


 恐らくは、近接攻撃を仕掛けてくるだろう。何故なら、己の必殺の武器は『夏の聖墓矢』。当たり前だが、これは弓から放たねばその力を発揮することが出来ない。だが放てば必ず急所に当たる。それは頭か、心臓か、丹田か。とにかく倒れたところを組み伏せば良い。


 キャロルは聖墓矢を放てぬよう立ち回るはずだ。──そう思った瞬間。キャロルの左手が動いた。高速だった。何かを、投げた。


「ッ!」


 石である。キャロルは『ずっと気配がしていた』と言っていた。用心して掌の中に石を隠し持ち、すぐさまに攻撃ができる準備を整えていたのだ。


「チッ……!」


 ニスモは咄嗟に炎の剣を生んで、眼前に迫っていたその石を弾いた。予期しなかった攻撃だったから、魔法がやや暴走して、炎が辺りを焼く。ニスモの視界も炎によって遮られた。その隙を突き、素早い動きでキャロルがはニスモの懐に入り込む。そして、右手でニスモの左腕を取った。


 距離を取ろうと思ったがもう遅かった。小枝でも折るようにして、肘関節を破壊される。


 ニスモは苦し紛れに、キャロルの腹を蹴り上げる。そして、後ろに跳んで離れた。が、着地できずに川の浅瀬に激しく倒れ込む。足に力が入らなかった。


 何事かと思って右足を見たら、足首があらぬ方向に曲がっている。蹴り上げた瞬間に足首を破壊されたのだ。


(こうも易々とッ。やはり只者じゃない……ッ!)


 ニスモは脂汗に濡れた顔面を歪ませ、胸の前で素早く2度十字を切った。魔法を発動させ、周囲を急速に熱した。川の水がパンと弾けて、水蒸気が発生する。辺りは雲の中のように真っ白になった。


 次いで無の空間から炎の弾を生み出し、がむしゃらに放ち続けた。キャロルに命中しているかどうかは分からないが、とにかく足止め出来ればよかった。


 弾は木々に当たって爆ぜて燃える。周囲で爆発音や、バキバキと木々が壊れる音が鳴る。


 なんとか足と腕を治そうと回復魔法を試みるが、キャロルを恐れて焦り、腕だけを半端に回復させて、片足で無理矢理に逃げる。そして川の中央付近にあった苔むした大岩にもたれかかり、弓を手にする。聖墓矢も矢筒から取り出した。


 ──キャロルの姿は確認できない。だが、必ずこの弓は敵を穿つ。


 痛む腕で弓を引いたその瞬間。体が飛ばされるくらいの激烈な風が吹いて、霧が晴れた。キャロルが魔法を使ったらしい。


 礫地に立つキャロルの足元には、魔法陣が出来上がっていた。脚で地を削って作られたようだった。陣からは強烈な冷気が発生していて、キャロルの体や髪にも霜がこびりついている。川を凍らせて、ニスモの動きを封じるつもりだ。


(さっきからそうだ。関節を壊して、力を奪うように戦う。飽くまで戦闘を継続出来なくさせるのが目的で、本気で倒すつもりがない)


 だが、そうはいかない。ニスモは既に弓を引いた。


(優しいつもりか……! 私を穢すつもりか……ッ! どんな気持ちで決着をつけようと……!)


 放つ瞬間。気がつく。

 キャロルの背後、燃える森。炎に人影。


 ──あれは、キャロルと一緒にいた、銀髪の少女。


 不安そうに胸の前に手をやって、キャロルを見ている。廃屋でキャロルがいない事に気がついて、様子を見にやって来た。


 ニスモは矢を放った。キャロルに真っ直ぐと向かっていった矢は途中で方向を変え、少女へと向かっていく。そして矢は吸い込まれるようにして、その胸に刺さった。


「あ゛っ!」


 小さく叫び、少女は膝を折る。


 それで、キャロルは振り向いた。


「エリカ……?」


 ニスモは何が起きたかわからなかった。確実にキャロルを射抜くはずだった聖墓矢が、銀髪の少女の急所を貫いた。


 瞬きをすると矢は牡鹿の頭に変わっていて、その太い角が少女の胸に刺さっていた。


(──なんで? 私、彼女を狙うつもりなんか)


 矢筒に戻った聖墓矢が神々しい光を放っている。それはまるで雨上がりの光柱のように、優しい輝きだった。

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不良聖女の巡礼 @awaa

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