12.竜殺し(後)

 

 邪竜にとって、エリカの放った爆弾矢は生まれて初めてから喰らった重い一撃であった。


『ヴァアアアアアギャアアアアッ‼︎』


 竜は体を壁に叩きつけながら、大きな雄叫びをあげる。ダメージを負った事による痛みと、驚き。そして『なんで自分がこんな目に遭わなくてはならないのか』という悲しみから、錯乱しているのだ。


「うるさいッ‼︎ 喋るなッ‼︎ 黙れ、外道ッ‼︎」


 エリカはボウガンに毒矢をセットし、竜の顔に狙いを定める。


「貴様に感情を表現する権利なんかない……ッ‼︎」


『カッ……。カッカッ……ッ』


 竜は不気味に喉を鳴らしながら、上を向いて口を大きく開けた。口からガスを放射し、喉袋にある石を打って、火花を出し着火する。初めに赤い炎が出て、すぐに強い魔力を宿した黒い炎となった。


 竜が薙ぐようにして首を振る。坑道の炎が、眩い黒で塗り替えられていく。黒い炎は魔の炎である。鉄も岩も燃やす。


 エリカの耐火マントにも黒い炎がまとわり付く。だが、エリカは臆さない。黒い炎の中、狙いをすまして放たれたのは、4本の毒矢である。


 そのうち2つは激しい気流に阻まれ、逸れた。残る2つは、邪竜の顔部、爆発によって鱗の禿げた箇所に命中する。その瞬間、竜は毒の影響で口や鼻、性器、肛門などの穴から大量の血混じりの汁を吹き出した。


『キャアアアーーーーーッ‼︎』


 竜は再び大きな悲鳴をあげる。腹の中で育てていた卵が割れて、股座またぐらから大量の未熟児がボトボトと生み出される。竜の細胞は死を前に、まるで蜚蠊ゴキブリのように種を残すことを選択したのだ。


「これ以上、増やすなああああああッ‼︎」


 エリカは地を蹴って、弾かれたように竜の懐に向かって駆け出す。竜も素早く反応し、右前足を脳天目掛けて叩きつける。


「うあああああ゛あ゛ッ‼︎」


 しかしエリカは避け、勢いよく剣を振って、竜の右前足の腱を切断。続いて懐に入り込んで股に回り、何匹かの未熟児たちを踏みしだきながら右後脚の腱を切断する。


 エリカがさらに左後脚の腱を切断しようとした時、未熟児が足に取りついた。鋭く細い爪が、腿に刺さる。


「……!」


 エリカの足が止まる。


『ブオオオオオッ‼︎』


 竜が叫びながら尾を振った。無数に分かれるゴム状の尾が、ムチの嵐のように坑内で暴れる。


「……ッ‼︎」


 エリカは上手く合わせて幾つかの尾を避けたが、燃えて千切れかけていた尾の一部が、腹を掠った。竜にとっては、これで充分である。人間はかくも脆い。


 エリカは撥ねられ、高速で回転しながら壁に叩きつけられる。取り付いた未熟児も衝撃で潰れる。


「ガフ……ッ‼︎」


 エリカは血を吹き出し、倒れる。臓器にダメージを負い、息も満足にできない。思考もハッキリしない。頭も打った。いや、それだけではない。


(──酸素が足りてない)


 そして今、竜は大きな翼を広げた。酸素が足りてないのは、竜も同じなのだ。


「ハァハァ……。ゲボっ……。に、逃げるな……ッ!」


 エリカは剣を杖にして立ち上がり、爆弾矢をセットする。狙いは翼である。


「動け……。動いて……」


 腕が重く、動かしにくい。肩の骨にもヒビが入っている。止血帯で塞いだ傷からも、また血が垂れ出てしまっている。


「ここで、殺すんだ……」


 エリカは震える腕で、脈打つ飛膜に狙いを定める。


「じゃないとお父様もお母様も……、報われないじゃないか……ッ」


 エリカはトリガーを引き、矢を連射した。矢の放たれる反動に耐えきれず、体の軸がぶれる。爆弾矢は様々な方向に飛び、炎の坑内のあらゆる場所で爆発を起こした。全ての矢を打ち尽くし空撃ちしながら、エリカはふらりと後ろに倒れる。


『ギャアアアアアアアアッ‼︎』


 放った矢の2本が竜の喉と翼に直撃した。竜は、ゆっくりと腱を切られた右へ倒れていく。


『ゴゴ……、ブポコォ……、コポォ……』


 そして白目を剥き、極端な海老反りになって痙攣を始めた。毒が完全に回ったのだ。


「ハァハァ……。やった……。お母様、お父様……」


 エリカの目の前が暗くなっていく。


「キャロルさん、私……、わたし……」


 エリカは這う。ここから逃げ延び、生きる為に。待っている仲間たちに、勝利の報告をする為に。


 崩れた天井と壁をつたっていけば、なんとか昇降機まで行けそうである。


 しかし、ここで気がついた。倒れた竜の周りに、突如として黒い炎で描かれた魔法陣が出現し、未熟児たちと竜の体が燃えている。


 竜は『子』と『自らの胴体』を生贄にを行い、新たなる自分を創造することにした。魔術は成功し、子は毒に侵されていない『健康な脳』へ。胴体は生首だけで動ける『特別な力』へと変わった。


『ビチ、ビチビチ、ピチャッ! ビチビチ!』


 竜の首だけが、魚のように跳ねて動き出す。


「え……?」


 エリカにとっては何が起こったか、分からない。倒したはずの竜が、首だけになって動くのだ。


 竜の生首は、馬が駆けるような速さでエリカに向かって突進した。エリカは最期の力を振り絞って、立つ。剣を構える。しかし、それで精一杯だった。


 竜の生首はエリカの左腕に噛み付いた。


「化け物め……ッ‼︎」


 生首は、狂犬が鶏を喰らうようにエリカを勢いよく振り回して、宙に放った。エリカは地に叩きつけられた後、6回ほど跳ねてベチャりと地面に倒れる。


 エリカには噛まれた腕の感覚がない。


 すこし先に、左腕が転がっている。竜は噛む力を弱めてエリカを放ったのではなく、単に腕がのだった。


□□


「ハァハァ……ッ‼︎ ハァハァ……ッ‼︎」


 エリカは生きようとしている。折れた肋骨を押し上げ、必死に肺を動かす。そして立ち上がり、敵の姿を探す。だが、どこにも見つからない。


□□


 見えているのは、若い父と母である。赤子の自分を抱き寄せているのだ。


「すごい。すごいぞ。こんなに力一杯動いて……」


 優しい父の声が聞こえる。赤子の自分は、ギュッと父の袖を掴んだ。


「きっと、この子は幸せになる。あらゆる困難に打ち勝って、大成するよ」


 エリカには分からない。これは、竜が見せる幻想なのか。それとも、人生に終止符を打つ走馬灯なのか。


□□


 その答えを出す間もなく、今より少し若い辺境伯が赤子の自分を抱き寄せた。


「色々考えたのだがね。この子の名前は、『エリカ』だ。エリカが良い。エイリケー打ち砕くから取った。こんな時代だからこそ、強く逞しく、生きるんだ」


 辺境伯が小さなエリカの体を、高く高く持ち上げる。


「はははっ。エリカ! お前は我が領の宝よ! 我らは常に君と共にあるっ!」


□□


 8歳になるエリカは小さな剣を握り、父と打ち合いをする。


「筋がいいな、エリカ……ッ!」


 幼いエリカは、誇らしげな笑顔で言う。


「早くお父様みたいに、強く逞しくなりたいからっ!」


「ははは、私の剣の腕は大した事ないんだぞ……?」


 父はそう言って、バツが悪そうに頭をかいた。


□□


 10歳のエリカは、暗い部屋でフォルダン家の秘宝、黒曜の剣を磨いている。辺りには誰もいない。


「……」


 涙が黒い刃に落ちる。


「うっ……、ううっ……」


 流れる涙をどうする事も出来ずに、剣を磨く手を止めてしまう。少しして、涙を拭き、再び剣を磨く。


□□


 15歳のエリカは、兵たちが見守る中で辺境伯と打ち合うが、負けてしまう。エリカの木剣は宙を舞い、地に突き刺さった。


「立ちたまえ。さあ、もう一度だ!」


「こんな……、こんな弱い私には、邪竜なんて倒せない……」


 辺境伯はしゃがみ、エリカを正面からじっと見て、言う。


「確かに邪竜は強い。だが、どんなに強大な敵が立ちはだかろうとも、そこに対して向かっていく気がないのでは、とても勝てない。逆を言えば、向かっていく気があるのなら、勝てるかも知れん。そんな僅かな可能性にだって、すがる価値があるとは思わんかね」


 辺境伯はエリカに、優しく木剣を持たせる。


「エリカ・フォルダン。世界は残酷だ。自分に勝った者にしか、明日は訪れない」


□□


 夜。満月の刻。エリカは今日も剣を握り、素振りをしている。宿敵を倒す為に、父と母の無念に報いる為に、そして自分が生き延びる為に。


「……え!」


 エリカの隣に、兵が1人、また1人と立って、素振りをしていく。1人では心細いと思って、共に剣を振る。立場は違えど、心は一緒なのだ。


「ありがとうございます」


 エリカは流れそうになる涙を堪えて、声を絞り出した。辺境伯も現れ、木剣を構える。


「よーし。もう一度、打ち合ってみるか! そろそろこの老いぼれの膝をつかせてみたまえ、エリカ・フォルダン」


「はい……‼︎」


 この日、エリカは初めて辺境伯に勝利した。


□□


 17歳のエリカは、今は使われていない乗馬場でリトル・キャロルと向き合っている。


 雲は低く、流れが早い。山から、春にしては冷たい風が、強く吹いているからだ。


「キャロルさん……」


 キャロルの顔を見ると、自然と涙が込み上げてきた。


「ごめんなさい……。みんな、応援してくれてたのに……。私のために付き合ってくれたのに……、キャロルさんにも稽古つけてもらったのに……」


 ふと、邪竜に親を殺されてから泣いてばかりだったことに気がつく。エリカは悔しくなり、目を伏して強く拳を握る。


「勝つって決めてた……。でも、私──」


「エリカ」


 名前を呼ばれ、エリカは顔を上げた。キャロルは真っ直ぐにエリカを見ている。決して目は逸らさない。


「私は神を信じないが、これだけは言えるよ。お前はこんな悲しい終わり方をする為に、生を受けたんじゃない」


 エリカは、キャロルの冴えて輝く黄色い瞳に、まるで己の弱気を喰うような圧を覚えた。かと思えば、今度は年相応の少しだけあどけなさがのこる笑顔で、こう言った。


「大丈夫。自分を信じて。絶対に倒せる」


 そして、煙る霧の空気を鋭く吸い込み、キャロルは叫んだ。


「──斬れッ‼︎」


 エリカの耳に、お守りについた鈴の音が届いた。


□□


 幻想は心の中のを映し出す。エリカの中のリトル・キャロルは、強い者であり導く者として有り続けた。


 エリカにトドメを刺そうとしていた竜の首が迫る。エリカはそれに合わせて体を動かし、額に刃を突き刺す。竜の額から真っ赤な血が吹き出す。


 幻想は2たび打ち砕かれた。1度は"まぐれ"もあるだろう。だが、2度は完敗である。即ち、効いていないのだから。


「う、うう……っ‼︎ うううう……っ‼︎」


 分厚い頭蓋骨が、刃を阻んでいる。片腕のエリカ・フォルダンの力では、なかなか押し込むことが出来ない。


『グゴッ。ガガガガボゴボ……ッ‼︎』


 竜は苦し紛れに魔法を使う。吹き出る竜の血が、硬質化した。無数の刃となってエリカの体に突き刺さる。


「うぐっ……‼︎」


 エリカは血を吐く。胃をやられた。


「私は……、貴様に殺される為に……、生まれたんじゃない……!」


 だが、力は緩めない。


「貴様を殺す為に……、ここまで生きてきた……ッ!」


 それどころか、死を前にしたエリカの体は、常人ならざる力を発揮した。


「──負けるものかあああああああああああああーーッ‼︎」


 エリカが全ての力を込めて押し込むと、黒曜の剣先はついに頭蓋骨を突破した。ゆっくりと、だが確実に、刃が竜の頭の中に入り込んでゆく。竜の額から、さらに間欠泉のように勢いよく血が吹き出す。刃となっていた血が、新しい血で溶かされ、流される。


 エリカの胸元にある邪竜の印から赤い閃光が放たれる。徐々に印が消えていく。


『ゴ……、プ……』


 生首の目が、ぐるんと回って白目を剥いた。吹き出す血も、底を尽きる。


 竜は長い舌を力無く出し、フシュルルと空気の抜けるような音を出して、全く動かなくなった。ついに邪竜ヨナスは死んだのだ。


「ゼェ……、ゼェゼェ……」


 エリカは糸の切れた人形のように、パタリと倒れた。


 生温かい血の海の上で、エリカは穴の空いた天井を見る。その先に昇降機があるが、とてもそこまで行けそうにはない。


□□


 エリカは瞼が重くなって、つい目を閉じてしまった。何も聞こえなくなり、やがて熱で肌が焼ける感覚も分からなくなった。


□□


 エリカは騒ぐ子供達の声を聞いて、目を覚ました。自分がベッドで横になって寝ていた事に気がつくのは、それからしばらく経ってからだった。


 開いた窓にレースのカーテンが泳ぐ。若いブナの葉が風にそよぎ、室内に影を踊らせている。風は東からの日の匂いを乗せて、暖かい。


 エリカはようやく生還したことを理解し、体を起こした。体の痛みはない。


 包帯に巻かれた左腕を見た。エリカは包帯を外すと、つぎはぎのように縫われた傷口が腕周りを一周していた。流石に、指を動かすことは出来ない。


「キャロルさん……?」


 ここで、エリカは初めて辺りを見渡した。自らが横たわるベッドと、小さな机と化粧台があるだけの簡素な部屋。人はいない。机の上には黄色い野花が飾られており、花瓶の横にカップと袋、そして手紙があった。


□□


 手紙は美しく丁寧な字で書かれていた。全部で二枚ある。一枚目の内容は、簡潔なものである。


『具合が悪ければ遠慮せずに人を呼ぶこと。左腕は慣らしリハビリが必要なので、医者の指示に従って根気強く行うこと』


 それと対照的に、二枚目は細かく書かれていた。


『袋の中身はチョコレートの残りだから、ミルクに溶かして飲むと良い。ヤギのミルク250mlを40秒火にかけ、80℃にしてから、チョコレートをひとかけ入れ、よく底からかき混ぜる。この間70℃近くまで温度が下がるならもう一度温めなおし、アーモンドパウダー、バニラパウダー、シナモン、ワイン少々、砂糖を加える。材料は適量を袋の中に入れている』


 さらに以下は赤文字で強調してある。


『できるだけミルクに膜を張らないよう気をつけること。また、チョコレートは熱しすぎると細かな塊になるので、その事をゆめゆめ忘れないよう作ること。高級品なので適当に作るべからず』


 最後に追伸で締められている。


『プラン・プライズ卿が心配しているので、目覚め次第、顔を出すこと』


 手紙からほのかな煙草の香りを感じて、キャロルが暫く自分のために禁煙していたことに、初めて気がついた。


□□


 エリカは自分の胸元にあったはずの邪竜の印を指で触って確かめる。まるで、これは悪い夢だったとでも言うように、その印は跡形もなく消え去っていた。


□□


 少し経って、エリカが目覚めた事を聞いた辺境伯が、病室に顔を出した。


 辺境伯は大きな体を縮こめて、丁寧にホットチョコレートを作った。キャロルのレシピに、オレンジミントを入れるなどしてアレンジも多少加えた。辺境伯には辺境伯のこだわりがあるのだった。


「私はどのくらい眠っていたのでしょうか?」


「うん? 5日だよ」


「5日も……」


「何を言うか。それで済んだのが奇跡だろう」


 辺境伯はホットチョコレートをエリカに渡す。甘く、深い香りが立ち上る。


「頭蓋骨骨折、鎖骨解放骨折、肋骨解放骨折、外傷性気胸、両上腕骨折、左腕切断、内臓破裂、腹部穿通性外傷多数。永遠に眠ってない方がおかしい」


 辺境伯は優しい声色で物騒な診断名を連ねつつ、持ってきていたリンゴをナイフで剥き始めた。


「キャロルさんが治してくれたんですか……?」


「概ね、その場でな」


 辺境伯は事の次第を話す。


□□


 リトル・キャロルは瀕死のエリカ・フォルダンを担いで、坑道から出てきた。竜が暴れ、坑道が半壊したおかげで戦闘地点までの動線が確保出来たのは幸いであった。


 担がれたエリカの姿を見た兵たちは、これでは助かる見込みがないと、各々おのおの絶望していた。


 辺境伯は、腕の断面から突き出た骨を削り、肉を縫合することを提案した。だが、キャロルは『繋げて元に戻す』と言った。


 それを聞いて辺境伯は思った。繋げて元に戻すなど、不可能だ。断面は、引きちぎられて肉片も飛び散り損傷も激しい。単純に傷を治すのとは、訳が違う。くっつけた後も再び腕として機能させなくては、腐るだけだ。


 辺境伯は再度、腕を諦める事を提案したが、キャロルはまっすぐと目を見て、繋げると繰り返した。


□□


「見たまえ」


 辺境伯は瓶に入った無色透明の液体を見せる。


「彼女が用意した、真菌のゲルだよ。真菌が血から栄養を吸収して有性生殖を行い、失った細胞を補完するんだそうな。言わば、人工皮膚だな」


「それを、咄嗟に……?」


「いや、準備していたらしい。君が勝つ事を信じてはいたが、無傷では済むまいと踏んでいたんだろう」


 辺境伯はそう言って瓶を置き、ウサギ型に切られたリンゴをエリカに渡す。


「リトル・キャロル曰く、のちに真菌は細胞として置き換わり、腕は完治するそうだ」


 キャロルは、骨や神経、血管を、ポーションを垂らしながら丁寧に繋げ、足りない部分は真菌で補いつつ、左腕を繋げた。


「肺や頭の治療法も聞くかな? そこらは、時間がないと言ってゴリ押しで治してたから、聞くにも痛々しいぞ」


「ははは……。遠慮しときます」


 エリカは、キャロルが皮膚から突き出た骨を素手で押し込み、整形しながらポーションで治癒する様子を想像して、力無く笑った。


□□


 辺境伯は、花瓶の水を新しいものに代えている。


「リトル・キャロルは、何者なのだろうな。薬や体術、正教魔術や古代魔術にも精通し、殆ど不可能に近かった竜の討伐を数週間の指導で成し遂げさせた。そして生命菌糸を操る」


「それが、学園の聖女候補の力……。なんですかね……?」


「ワシは他の聖女たちがどのような人物なのかは知らん。だが、恐らくは……、リトル・キャロルがなのだと思う。いくら聖隷カタリナ学園とはいえ、あれ程のスペシャリストを入学から3年間で5人も揃えられるとは思えんのだ」


 エリカは辺境伯から貰ったリンゴを食べる。食欲は無かったが口に入れたら存外美味しく、また一口、また一口と、口に入れる。


「リトル・キャロルを見出したのは、当時、枢機卿すうききょうに過ぎなかった現教皇クリストフ5世だった。神の言葉を聞いて、貧民街の孤児だった彼女を選んだのは彼だ」


 他、4人の聖女は同一の神官が選んでいる。クリストフ5世が選んだ聖女候補は、キャロルただ1人だ。


「彼女が追放されたことで、就任早々に立場を悪くしているらしいがね」


「そうなのですか?」


「正教会も一枚岩ではない。特に軍部と本部教庁の軋轢は近年ますます激しい。我が頭上に燦々と輝く神の教えには、酷くつまらん政治が関わってくるのだよ」


 キャロルの追放は、ただの一般学生が不祥事で退学処分になったという単純な話ではない。


「彼女は原典における聖女の力を授からなかったかも知れん。だが、神の目は節穴では無かったと思うし、神の声を聞いたクリストフ5世もつんぼでは無かったと思うよ」


 辺境伯はそういって腰掛け、淹れていた紅茶に口をつけた。


「リトル・キャロルは、確かに救いの聖女だ」


 そして、辺境伯はロザリオを握る。


「長年、神を信じて歩み続けると、時に疑ってしまう瞬間もある。しかしワシはキャロルに会って、やはり神は信ずべき存在だと思った」


 辺境伯はエリカの沈んだ表情を見て、笑う。


「ははは。すまんな、老人のつまらん話を聞かせて」


 エリカは話に退屈していたわけではない。考えていたのだ。その、リトル・キャロルはどこへ行ったのかと。


「あの……」


「うん?」


「……いえ、なんでもありません」


 エリカは彼女はまだこの街にいるのかを尋ねようと思ったが、答えを聞くのが怖くなって、問うのをやめてしまった。


□□


 辺境伯が換気のために窓を開けると、ブナにあるキツツキの古巣に、コマドリが獣の毛を入れ込むのを見つけた。繁殖のために巣作りを始めているようだ。


 山に夏が来ようとしている。


□□


 昼下がり、エリカは治療施設から出て、街から続く長い坂道をリトル・キャロルが登ってくるのを待ったが、ついには現れることがなかった。

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