胴体(あるいは本題、つまりは死せる猫を巡る巡回とその創作について)


   1



「猫なんて飼い始めたんですかァ」

 内枝くんの言葉に耳に入って、不意に私はタイピングの手を止めた。引っ掻くような形になっている手でそのまま、鼻先にずれた眼鏡をかけ直す。

 猫。猫。猫……。

「何処を見て?」

 と、私は背を伸ばしながら尋ね直す。

 斜めに見据えたデジタル時計が示す時間は午後七時。彼がうちにやってきてから、これでおよそ十五分が経過したという計算になる――新作小説の打ち合わせは今では大概がZOOMか電話が主流だけれど、内枝はなぜか作家当人の家にまで押し掛ける。

 にやにやと、尖った髭を揺らしながら笑って。

 そして度々、妙なことを言うのだ――それで今回は、猫。

「内枝くんも知っていると思うけれど」

 私はデスクトップに並んだ文字の列をすがめつけながら続ける。

「……このマンションはペット禁止だよ。表に出る職ではないとはいえ、作家という職業は書き手の人気にも、結構左右されるんだから――ルール、マナー、掟、風習。そういうものには礼儀を払う。常識的なことを常識的に行う――それは私の人生における鉄則だ。きみもそれくらいは知っているだろう? ……そのうえで、今の発言なのか? そういうのはハッキリ言って侮辱だね。その言い草じゃあ私がまるで、社会に不適合な作家のようじゃあ――」

「へいへい」と内枝くんは、私の口が嫌に回り始めたタイミングで、バサバサと印刷した原稿をめくり始める。私がふんと鼻を鳴らすと、内枝くんはさも嬉しそうに、それでいて、面倒な虫を追い払うように小さく笑った。

 そして目線だけで私を見る。

「先生……」

「なんだ」

「先生ってェ……」少し上目遣いになりながら、「小説のなかで無駄な文章を省いてくれるのは有難いんですが、会話となると途端に婉曲な言い方をしますよねェ……」と、内枝はクツクツと笑みをこぼしながら続ける。

「そんな言い方をしなくても、大人しく『どうしてそう思ったんだ』って聞けばいいじゃないですか」

「…………」

 わざわざ家に来る。ニヤニヤと人を喰ったように笑う。そして妙なことを言う。

 それでも内枝くんのことを嫌いになれず、追い出す気にもなれないのは、彼が私のことを、心底、嫌になるくらい理解してくれているからだった。……言葉の先で言おうとしていたことを先に明かされた、その居心地の悪さに少し気分の悪さを覚えながらも、しかし的を射ていただけに拒絶することもできず、しぶしぶ私は首肯する。

 内枝くんは途端に人懐こい笑みを浮かべて、

「解答は簡潔です。それですよ」

 と――ペンだこの浮いた人差し指を、私の右腕に向けた。

 言われるがままに、私は右手のすそをまくって顔に近づける――何度か腕をねじると、その先に二本の赤い線が見えた。

 いいや、線というより――

 ひっかき傷、と言ったほうが適切か。

「その傷――猫につけられたものでしょう」

 と、内枝くんは言葉を投げる。

「けれど先生は部屋から滅多に出やがりませんからね。根っからの引きこもりですから……、先生の腕が、家の外で猫に傷つけられたとは、あまり考えにくい。どちらかと言えば、取材のためにどこからか引っ張ってきた猫が、まだこの部屋のなか、どこかにいるんだ……と、考えたほうが道理に合う。でしょう?」

「言いぐさが気に食わないが……。まあ、言われてみれば、その通りだ」

 言いながら、私は傷をデスクライトの下に持ってきて、その様子を観察する。二本の引っ掻き傷だ。どこかで引っかけたりしたのなら、もっと軌道が曲がるだろう。けれどその傷は、まるでパレードの戦闘機のように、まっすぐ平行線を描いている。

 猫の指は前足に五本、後ろ足に四本だ。昔、分厚い洋書の本で読んだ。

 もっとも、前足のうち親指にあたるのであろう一本は他の四本より離れた位置にあるため、勘定としてはほとんど、前足も後ろ足も四本ずつだ。

 人間の指で言い表すならば、猫の指とは、親指以外の四本といったところだろう。中指と薬指は他の指よりも長く、それゆえにひっかき傷は大抵の場合、突出した二本の指、その爪ということになる。だから猫のひっかき傷は二本である場合が多い。

 犬のように、かみ砕くような攻撃ができないから――その鋭利な爪で敵を薙ぐ。

 だから、仮にこの傷が、何ものかによってつけられたものであると仮定するのならば、つまりその犯人は猫ということになる。

 しかし、言われてみれば。

 いったい、この傷は――どこで、いつ、ついたのだろう。

 私は数秒のうちに、前後一週間のいくつかの場面を回想した。

 けれど、やはり――心当たりがない。

 猫と触れあった経験はおろか、猫そのものをここ一週間のうちに見ていない。当然だ。食事はすべて配達で済ませているし、人と会うにしても、オンラインでの打ち合わせか、あるいは内枝くんが訪問してくるかの二択だ。

 小説家に依らず、何かを作る人間は人との交流が減る傾向にある。

 その例にもれず、だ。

「思い当たるふしがない、って顔ですねえ」

 またバサバサと原稿用紙をめくりながら、内枝くんは適当な口調で言う。「ははん、さては猫の幽霊でも、この部屋にいるんじゃあないですか?」

「猫の幽霊?」

 また奇妙なことを、と思いながら、けれど私は反射的に、部屋全体を見渡していた。深く椅子にもたれかかる。

「ほら、前にやったでしょう。交霊術の実験。霊を呼び寄せるっていう」

「ひとりかくれんぼのことか? あれはきみが途中で乱入してきて台無しになっただろう」

「あれえ、そうでしたかねェ」

 とぼけたようなことを言って、内枝くんは首を傾げてみせる。

「しかし、可能性としては十分にあると思いますよ」と内枝くんはまた笑う。

「ほら、例えば……人間が死んでしまったら、そりゃあ事故物件ってことで、告知義務が発生するってものでしょうが、猫や犬くらいなら、それが例え、どれだけ凄惨な死にざまであっても、別段、報告する必要はない。……そういうことなんじゃないですか」

「きみねえ」

 思わず背を伸ばすと、バキバキと音が鳴った。視界の隅に、段ボールの箱がちらりと映る。

「普通言うかね、そういうことを、引っ越しを終えたばかりの人間に……」

「あは、先生はそんなことを、気にするような人ではないでしょう」

「だがな」

「それじゃ、原稿はその調子でお願いしますよ」

 トン、と一度床で原稿用紙を跳ねさせると、内枝くんは狐のような軽々とした仕草で立ち上がった。天井付近にまで上がった視線がじいと私のことを見下ろす。

「……なんだよ」

「いえ、何も。では私はいったん編集部に戻るので、これで」

 ぺこ、と軽い会釈をしたかと思えば、内枝くんはそのまま、すたすたと玄関に向かって進んでいく。

「おい、きみ……」

 言いかけて立ち上がったころには、すでに内枝くんはドアの向こうに消えていた。遅れるようにしてがちゃりとドアが閉まる。途端、静寂が空間を支配した。話す相手がいなければ、私も自然と口をつぐむ。人間とは本来静かな動物だ。そういうものなのだろう――ただ。

 ダダッ……と。

 そのとき。

 段ボール箱の影から音が鳴った。

「…………」

 私は言葉を発さずに――静かに椅子に腰を下ろして、そっとその音の続きを探す。

 ……。

 ……。

 ……無数の、静寂。

「……猫の幽霊、ねえ……」

 浮かんできた欠伸を噛み殺す。すぐさま次作の続きを書き始めた。部屋のなかを、タイピングの音だけが跳ねていく。キーの押し込まれる音。表面を指の腹が撫でる音。欲しい変換を探す、スペースキーを連打する音。

 幽霊、か。

 確かに、と私は心のなかで、彼の言葉の意味を検める。ここ最近の出来事ではあるが、内枝くんの言う通り、こうしてキーを打ち込んでいると、時折何か、その音の狭間に――何か、聞こえるはずのない音が聞こえてくるような気がすることがあった。

 猫の幽霊。

 打鍵音の狭間に、がさりと音がするような気がする。

 打鍵をやめる。

「…………」

 否。

 気がする、なんて曖昧な程度のものではない。

 聞こえているのだ、確実に。

「…………」

 私は深い溜息をついて、胸の前に腕を組む。

 そう考えてみれば、なるほど内枝くんの言っていたことは、あながち否定のできるものではないのかもしれない、ということになってくる――私は机の下にあった右足を、組むようにして左足のうえに持ってくる。そしてジャージの袖をめくった。

 そこに。

 二本線の傷があった。

 ……何もこれが、初めてではないのだ。

 この部屋に来て以来、確かに切り傷のようなものを負う回数は増えている。

放っておいても痛みはないし、人に見せるわけでもないので、気にも留めていなかったのだけれど――確かに、危険と言えば、危険だろう。今はまだ手足で済んでいるけれど、これが首や目なんかに向けばたまらない。

 猫も一応、百獣の王とも呼ばれるライオンの近縁種なのだ。

 言葉が腐るほど使われているクリシェだけれど、猫だって狩猟をする動物で、当然、それ相応の戦闘能力を有するし、そういう思考回路で生きている。例えば、警戒している相手には、可能な限り自らの位置を把握されないように工夫をする。

 つまり、だからこそ――タイピングの音に紛れるようにして動くのでは?

 自分のいる場所を、私に把握されまいとするために。

「私は獲物か?」

 そんな発想が浮かんで、思わず吹き出した。

 ひょっとすると、連日の頭脳労働で疲れているのかもしれない。引っ越したばかりの部屋で、猫の幽霊に食われそうになっているだなんて、笑えない冗談だ。小説にもなりはしない。無駄なアイデアだと切り捨てて、再度私はデスクトップに向きあう――そのとき。

「っ――」

 反射的に椅子から離れた。

 じんと痛みが、波紋が広がるような速度で広がってくる。

 咄嗟に私は左足を見た。

 そこには、――赤い二本線が。

 まるで間違いを訂正しようとでもするように、まっすぐに並んでいた。

「………………」

 音はいい。問題にはならない。ラップ音。物の自重落下。空耳。……なんでもいい。どうとでも説明はできる。どうとでも理屈をつけられる――どうとでも、納得はできる。

 ただ。

 これは例外だ。

 私は冷えきった感情をその傷に向けた。

 つ、と赤の球がそこに浮かぶ。



   2



 猫の幽霊。

 私は執筆を早々に切り上げて、市立の図書館にやってきていた。

 無論、猫の幽霊について調べるためである――休日の図書館は営業時間が非常に短い。建物の外はすでに暗くなり始めていた。通りの街灯は橙色の光を洩らし、すでに館のなかに子供の気配はない。

 レファレンスカウンターでいくつかのレシートを受け取って、その通りに本棚の合間を抜けていく。レシートに記された文献は、すべて猫の怪異に関するものだった。

 猫又。化け猫。猫娘。化猫遊女。金華猫。鍋島騒動……。

 ため込んだ書籍を平積みにして、ほうと溜息を洩らした。ありていに言って、どの文献にしても、私の部屋に発生している怪現象に結び付きそうなものはなかった。

 絶望的なのは、猫の怪異の可視性だ。

 私が調べた文献に登場する猫の怪異は、いずれにしても現実的な、可視状態のままで出現しているのである――我が家にひょっとするといるのかもしれない猫の幽霊のように、透明で、不可視というわけではしかしないのだ。

 そこにいて、そして、視える。

「視えない――猫、ねえ」

 ううん、と私は喉を鳴らす。

 他にも、致命的な部分は山ほどある。

 例えばそれは、猫の怪異の発現条件だ。

 これまでに確認した文献すべてに共通している猫の怪異の発現、その条件――それは皆一様に、その猫が常識では考えられないほど長寿である、ということだった。

 例えば、金華猫。

 これは中国に伝わる猫の怪異なのだけれど、その発現の条件は、三年から四年のあいだ人間に飼われていること、であるらしい。そうして長いあいだを人のもとで暮らしてきた猫は、ある日に突然、月の光から力を得て――美男美女へと変化する。

「そして人々を誘惑し、惑乱させる……」

 猫又や化け猫についても、その特徴は共通だ。

 江戸時代の旗本、根岸鎮衛の随筆「耳嚢」には、老猫が和尚にこう語り掛ける場面が存在する。『猫も十数年生きれば人語を解し、またさらに四、五年も生きれば、不可思議な力を得るようになる』と。同様の展開は岩手県に伝わる民話『猫檀家』にも登場する。

 つまり、猫の怪異は往々にして、老いたものが成っているのだ。

 けれどそれは、翻せば――それらの猫は畢竟、死んではいない。

 生きたままの状態で、怪異となる。

 異常な状態に――成長する。

 しかし、と私は思考の根底に立ち返る。私の部屋にいるあれは見えない。見えないのに存在するということは畢竟、オーソドックスな考えをそのまま当てはめれば、それは霊、ということになるのだろう。

 つまり、すでに死んでいる。

 人間でいうところの、地縛霊や浮遊霊のような存在なのだ。

 死。魂。霊。

「…………」

 ……よく幽霊は、それが死亡した瞬間の様子を象ると聞くけれど。

 それは猫においても同じなのだろうか。

 私は思考の方向性を変えてみることにする。

 猫の幽霊が、その死亡した瞬間の様子をそのままに反映させているのだとすれば、畢竟、それがどういう環境で、どのような飼い主のもとに飼われていたのかが分かる。

 例えば――虐待されていたのであれば、ひょっとすると片足が折れていたり、あるいはすっかりないということもあるかもしれない。ネグレクトされていたのなら痩せこけているだろうし、大事に育てられていたのなら、上品にもでっぷりとした猫になるだろう。

 猫の幽霊、その形――か。

「……ともあれ、この図書館に参考になりそうなものはないな」

 呟いて、私はパタンと本を閉じた。持ち直して、背表紙を本棚の空いたスペースに押し込む。猫の化け物の話はあっても、猫の幽霊について、実用的な記載のある本はなかった。

 徒労だったな、と私は図書館をあとにする。延べ四時間ほどは滞在していただろうか。昔からの習慣で、長時間のあいだ本を読むことについてはあまり苦を感じない。そのせいもあってか、つい時間を忘れてしまっていた――まあ、今回得た情報については、次回作の参考にでもすればいいか、と私は薄暗い道を歩く。

 と、そこで――ふと、ショッピングモールの明かりが見えた。

 営業が拡大して、最近ようやく二十四時間営業となった店だ。一度腕時計で時間を確認して、それから足の行き先を変えることにする。

「シーチキン味……、これでいいのかな」

 購入したのはキャットフードだった。

 家に帰り、部屋の電気をつける。そして一度、ぐるりと全体を見渡したのち、どっ、と椅子に腰かけた。

 それから辺りを見渡して、鞄から、百均で買ってきた青色の皿を取り出す。

 缶切りを引っ張り出し、それでキャットフードの缶詰を開いた。なかのものを皿に取り出し、部屋の空いているスペースに配置する。

 そしてじっ……と。

 私は片肘をついて、そのときを待った。

 キーボードに触れることもなく。デスクトップを灯すこともなく。

 デスクライトの弱弱しい光ひとつを頼りにした、薄暗いその部屋のなかで。

 それはきっと、釣りにも似た心象だっただろう。

 私は心のなかで言葉を反芻する。

 喰いつけ。喰いつけ。

 喰らいつけ。

 ちゃきん。

 ――――――と。

 皿が、不意に子気味良い音を立てた。

 き、ちゃき、きん、と。

 続け様に皿が鳴る。そして、一口――たった一口だけ。

 キャットフードが、欠けた。

 頬に、自然な笑みが浮かびあがってくる。


 こうして、私は――猫の幽霊を『飼育』することにした。

 食事は一日に二回。朝食と昼食の合間、昼食と夕食の合間だ。

 あとはタイピング音を鳴らし続ける。そうしているあいだ、猫は自由に部屋のなかを動き回る。いや、正確には、動き回ることができる――それがいい。動物に必要なのは適度な運動だ。何もしないでいれば全身の筋肉は衰えるし、身体にも悪い。

 まあ、もう死んでいるわけだが――幽霊になっているということに、どうやらこいつは気付いていないらしい。

 この幽霊は、生きているつもりでいるのだ。笑えるが。

「さて……」

 私は一仕事が終わったことを確認すると、執筆に取り掛かることにする――そのとき、ふとメールソフトのアイコンに、着信を示す赤色のマークが点灯していることに気付いた。慣れた作業でメールソフトを開く。

 内容は、昨年まで小説を連載していた雑誌の編集部からのものだった。内枝くんのところだ。秋の夜長の御供になるような小説を――ということで、猫に関する小説を募集しているらしい。つまりは雑誌への寄稿依頼である。

 そういえば過去、猫が死体を見つけるという設定のミステリー小説を刊行したことがあった。ひょっとすると、そのときのものを読んで依頼をしてきたのかもしれない。

 ぐ、と私は背もたれに身体を預ける。

 しかし――あれは、今とはまったくテイストの異なる、ラノベチックな小説だった。今とは文体も書きぶりも違う。作者当人に限って言えば、趣味も好みも違うのだ。同じようなものを作れと言われても、今の自分には少し無理がある。これといったアイデアもない。

 他社の原稿も締め切りが近づいているし、悪いが断りの連絡を入れようか――と、そう考えたそのとき。

 キャットフードの小皿が、きん、と鳴った。

「…………そうか」

 単純な解法だった。

「猫の幽霊を小説にすればいいのか」

 ききん、と。

 猫の幽霊の歯が、皿にぶつかる音がする。


   3


 猫の幽霊。

 しかし、ただ情報を並べるというだけでは面白みに欠けてしまうだろう。

 猫の幽霊を飼っているというだけの男のストーリー、というものも一応、考えてはみたのだけれど――どうにも、良い小説になってくれる気がしなかった。ただのSFになってしまうという予感しかしない。それでは凡百の作品に埋もれてしまうだろう。

 小説家に必要なのは信頼だ。

 面白いものを書くという――信頼。

 それを損なうとは、すなわち死を意味する。私は五千字ほど書いたタイミングで、一度その小説を白紙に戻した。

 大切なのは情報だ。情報は物語の心臓となり、全体に文章を巡らせる。

 つまらない小説には情報が足りない――もし、今書いている小説が面白くないだなんて状態に陥ったら、小説家は一度、その作品の情報を顧みる必要がある。何が足りていないのか。どこが欠けているのか。

 今回の場合、圧倒的に足りていないのは、やはり猫の幽霊のディティールだった。そもそも、なぜこんなところに猫の幽霊がいるのか。猫の種類は? どうしてペット禁止のマンションに紛れている? ここは四階だ、自然とやってきたというわけでもないだろう?

 猫の正体。

 もしくはそこに漸近するような何かが――欲しい。

 ならば、まずはこの部屋の前の住人を探すほうが得策だろう。

 私は腕を組んだまま、左に体重を傾けた。

 ゆっくりと椅子は回転し、そして右手の壁に向かっていく。

「……たまには、内枝くん以外とのコミュニケーションも必要……か」

 そしてぐっと重い腰を上げる。外出用の衣服を探して、三日ぶりに部屋の外へと出た。

「前の住人について――ですか」

 隣の部屋から出てきたのは、倉橋という男性だった。

 風貌からしてまだ若い。大学生くらいだろうか。中途半端に染めたボサボサの茶髪に、灰色の上下のジャージ。どうやら彼もあまり外に出るほうではないらしい。

「何度か交流がありましたが……」と、倉橋はもごもごと続ける。

「しかし、本当にそれだけですよ。……それに、相手方も、なんだか人とは関わり合いになりたくないって感じでしたし」

「関わり合いになりたくない……引きこもりだったと?」

「いえ、そうではなく……」と、倉橋はそう口ごもりながら、

「なんというか……怖かったんですよね。近寄りがたいっていうか。スキンヘッドで、ところどころナイフで切り付けられたみたいな傷痕があって。筋肉質だし、時々怒鳴り声が聞こえてくるし……」

「つまり、ヤクザみたいだった、ってことですか」

「直接的な表現をしますね……」と、倉橋は苦笑いを浮かべる。

「まあ、正直に言えば、僕もそう思ってたっていうか……そうなんだと思いますよ。ドスがどうこうとか、親父さんがどうこうとか、色々と言っていましたし。……ああいうの、ケジメっていうんですかね? 指も、何本かなかったですから」

「反社会的勢力か……」

 きな臭くなってきたな、と私は顔をしかめる。

 そういうものの登場を予想していなかったわけではないが、あまり歓迎できる代物とは言えなかった。そういう設定は、最近ではコンプライアンスに反するとしてよく思われない傾向にあるのだ。もっとドラマチックで、エキセントリックなものを望んでいたのだが。

「引っ越した理由も、それ関係みたいなんですよ」

 と、倉橋は興奮したように言葉を続ける。

「それ関係、とは?」

 ふむ、と何かを思い出すように倉橋は顎をさすって。

「あれは確か、早朝――四時くらいでしたかね。扉の外が急に騒がしくなって。何かあったのかと思って、眠い目をごしごしこすりながら、ドアスコープで廊下の様子を眺めてみたんですよ。そしたらそこに、見るからに堅気の人間じゃありませんって風貌の男が立っていて、人質がどうとか、金がどうとか」

「……なるほど」

 もめごとか、と私は、彼の言葉から受け取ったイメージを胸のなかに反芻しながらうなずき返す。廊下――横幅は一メートル弱。そういう類の人間には何度か会ったことがあった。チンピラとは訳が違う。ああいう連中は、敵意を外見に示さない。顔の傷や刺青、指の切断がなければ、およそ一般人と判断はつかない。

 けれど、彼の言う通り、そういう外見の人間が差し向けられたということは、つまり――どうやら前の住人は、よほど重大な問題をやらかしたらしかった。

「それじゃあ」と私は本題に入る。

「その人……猫を飼っていませんでしたか?」

「猫」

 倉橋は意表を突かれたかのように目を見開いた。彼の発した「猫」の一文字が宙に浮かんだままになる。倉橋は少し考えるような素振りをしてみせると、

「さあ……ここはペット禁止ですし、騒音みたいなものも聞いたことはありませんから、飼ってたってことはないと思いますけど。……部屋のなかに傷でもついていたんですか?」

「いいや、部屋のなかに傷はなかった」

 私の身体に傷はついたが。

「ただ、少し気になってね……本当に、心当たりはありませんか?」

 問うと、倉橋は数度、何かを思い出そうとでもするかのように、視線をさっさ、と中空にさまよわせて――そして、不意に「あ」と発音した。

「そういえば……」

「そういえば?」

 倉橋は何度かうなずいて。

「そうだ、思い出した……! あれは、隣から聞こえてきた罵声のうちのひとつなんですけど、なんというか――こう、争っていたんですよ。ペットショップの店長と!」

「ペットショップの店長……ですか?」

 唐突な言葉に、私は思わず聞き返した。

「ええ」倉橋はうなずく。

「近所のペットショップですよ。店長の名前を聞いたことがあって。変わった名前でしたから、こう、耳に勝手に入ってくるんですよ。それで、ええ。密輸がどうこうと言っていたのが印象的で、はっきりと覚えています。それが、引っ越される数日前のことだったかな。焦っているというか、怒っているというか……」

「不穏な雰囲気だった?」

「だって、ヤクザですからね。高値で仕入れた動物を、物好きの富豪に売りさばいて大金を得る……みたいなの、テッパンじゃないですか?」

 適当そうな物言いだけれど、しかしてうなずける点はあった。

 種類によれば、猫でも犬でも、常識の及ばない値がつくことはままある――珍しい動物や美しい毛並みの猫や犬は、よく富の象徴であるかのように扱われるし、実際に資産としての価値もある。いわゆる、血統書付き、というやつだ。

 良い動物は言い値で売れる。

 金に困っていない、成金が買っていくというわけだ。

 そして金の成るところに、そういう『輩』は吸い寄せられる――か。

「……なるほど、ありがとうございました」

 私は最大出力の造り笑顔を浮かべると、倉橋と別れることにした。

 と、そこで――一番聞いておきたかったことを思い出す。

「そういえば、前の人の名前って、なんて名前だったんですか?」

「そうですね……」倉橋はまた、何かを思い出すように斜め上を見て。

「確か、栄善、とか言ったかな」

「栄善」

 変わった苗字だ。反社会的勢力の苗字に、善が栄えるとは――名前負けどころか、名が嘘になってしまっている。跋扈悪とかにしたほうがいいんじゃないか。

 ともあれ、この部屋にかつて住んでいた人物の名は――栄善仁志えいぜん ひとしというらしい。

 私は検索エンジンにその四文字を入力する。

 ……途端、十四年前のニュース記事が出てきた。アーカイブ化されているもので、大見出しに『大麻の大規模取り引き、未遂に終わる』と書かれている。その隣には大きく、栄善と思われる男性の顔写真が掲載されていた。

 スキンヘッドに吊り上がった眉。分厚い唇に壺のような鼻。麻薬の売人というよりは、悪徳の画商といった雰囲気のいでたちである。頬に浮かぶ横一文字の傷跡は、刃傷というよりは銃創に近い。

 どうやら、覆面捜査官が栄善をターゲットに、違法薬物の大規模な取り引き現場を押さえたようだった――栄善は五年の実刑判決。大麻の所持なら最長の懲役刑だ。国選弁護士だったあたり、彼の所属していた組織からも見限られた形だろう。

 脳裏に、栄善仁志が目を白黒させている様子が浮かぶ。

 大麻の取り引きと言えば、反社会的勢力の頼みの綱とも言える代物だ。それも、大規模取り引きともなれば――渡る金額は億を下らないだろう。

「出所のタイミングが十一年前、ね」

 そして、ようやく見つけた、大麻以外の別の稼ぎ所こそ――『動物』だった、ってことなんだろう。

 話の流れが見えてきた。

 私は背もたれにず、と全身を預けて頬杖をつく。

「重要なのは、しかし栄善などではなく――猫、だな」

 猫。

 例えば、世界にはアシェラという猫がいる。

 アフリカンサーバルキャット、アジアンレパードキャット、ベンガルの三種から成る交配種で、美しいヒョウ柄と、その繁殖の難しさから高額で取引されている。

 安くても三百万。

 血統書付き――それも、特に見た目の美しいものともくれば、二千万ほどの値がつく。

「……が、この場合は個体差が激しい。資産として保有するならば二千万は高額だろうが、薬物取引で失敗した男が、再起を賭けて動かす金として見るとなると、いささか低額すぎるきらいがある。まさか頭領への土産物というわけでもないだろうし……」

 違う。

 これじゃあないだろう。

 私は足を組みなおす。

 そして、各種ペットショップサイト、図鑑、パンフレットの類を漁った。

 カオマニー。……三十万。

 ジャーマンレックス。……千百万。

 セレンゲティ。……五百万。

 ピーターボールド。……百万。

 ベンガル。……二百五十万。

 サバンナ。……五百万。

 けれど。

「違うな――」

 動かすにしては額が安い。

 生育環境が日本に合わない。

 すでに絶滅している。

「どれも……違う」

 印象に合わない。サイズが違う。こんなに体毛が長かったら、段ボール箱の隙間をああも自由には移動できない――猫の幽霊はこの猫じゃない。

 猫の幽霊。

 こいつは、そもそも……いったい、なんという品種の、どういう猫なのだろう。

 きん、と小皿が小さく鳴って。

 私はそのほうを斜めに向いた。

「………………お前は何者なんだろうな」

 ナア、とその先の暗闇が鳴いた気がする。



   4



「高価な猫の情報が欲しいィ? アッハ、先生、いったいそれはどういう風の吹き回しって奴なんですか」

 パ、パ、と短く二度、内枝は手を打って笑った。

「猫の幽霊だよ」と私はイラつきながら言葉を返す。

「あれについて、少し調べてみることにしたんだ。いい短編のアイデアになるかもしれないって思ってね……だが、正直を言って、難航している」

「え」と内枝くんは、その表情をあからさまに曇らせた。

「ひょっとして、あの冗談を真に受けてらっしゃるんですか……?」

「それが冗談とも思えないから、こうして取材を重ねているんだ。……見ろよ、そこのキャットフード。中身がごっそり減っているだろう? 私が食べたわけじゃあないぞ。すべて猫の幽霊が喰ったものだ」

「へえ……」内枝くんは部屋の隅にあるキャットフードの包みを持ち上げて、張り手を食らったマーモットのような顔をした。

「……差し出がましい質問をしますが、幽霊が飯を食いますかね」

「きみは……編集者としての能力はあるくせに、怪談に明るくないのが玉に瑕だな。仏前に供えた白米や果実が減っているなんてのはよくある話だよ。私が知人から聞いた話には、供えたはずの蜜柑が、きっちり皮だけ残されて喰われていた、って体験談もあるんだ。無論、猿なんかが出るような場所ではないし、盗み喰いをするような輩もいない場所で、だ」

「ハァ……」

「まだあるぞ。欧米にはポルターガイスト現象というものがあって、深夜二時にグランドピアノが――」

「へいへい、降参ですよ」

 面白くなってきたと言わんばかりに内枝くんははにかむ。

「それにしても、猫の幽霊ですかい。高額な猫、なんて言葉が飛ぶもんですから、てっきりあっしは、こっち関係のことかと」

 言って、内枝は笑いも収まらないうちに、どこからともなく紙束の入っているファイルをこちらに差し出す。

 一番うえにあったのは栄善の履歴書だった。先週、内枝くんに調べてくれるよう頼んでおいた、栄善の個人情報をようやく持ってきてくれたらしい。

 受け取ってファイルを開く。

「栄善仁志。四十三歳。前科三犯。職業は反社会的勢力の一員。剛克組に所属。最終学歴は馬床高等学校。前科の内容は傷害罪。違法薬物取締法の違反。強盗――なるほど、笑えるくらいにオーソドックスな反社会的勢力だ」

「ちなみにそこの剛克組、最近別の、十文字組とやらとやりあっているらしいですよう。大変ですねえ、ヤクザってのも……。しかし、反社会的勢力の次は、高価な猫と来ましたか。なんでしょう? 情報の清濁の落差が激しいというか――ひょっとして情報で『ととのおう』とでもしています?」

「サウナじゃないんだから……いいや、双方は関係しているんだよ」

「へえ、風と桶屋ってことですかい」

「そう遠い位置にあるものでもないんだよな、これが……」

 私はデスクトップを前に、ふうと大きく溜息をつく。

 栄善仁志。

 こいつがこの部屋で何かをやらかしたのだということは、疑いようのない事実だろう。猫の幽霊だなんて奇特なものを生み出した容疑者としては、今のところ最有力だ。それどころか、私のなかにはこいつしかいないという確信めいた直観さえ芽生えている。

 問題は、やはり猫。

「とはいえ、先生のことですから、インターネットで検索して出てくるような猫はあらかた見ているんでしょう? でしたら、あっしにできることは限られてくると思いますがねェ――高価な猫。高価な猫ですかい」

「私が飼うわけじゃないから、値段に特段の制限を設ける必要はないよ。なんなら想像でも構わない。今は少しでもヒントが欲しいって状況なんだ」

「想像、ねえ」

 内枝は少し悩むように視線を上下すると、それからふと、思い出したように、

「そうだ、こんなのはどうです」

 と言葉を続けた。

「例えば、その猫が――化け猫だった、とか」

「化け猫」

 それは。

 切り捨てたはずの案だった。

「ほら、よく言うじゃないですか。化け猫ってのは長寿の猫のことで、つまりは死んでいない――翻せば、

「……つまり、 猫の幽霊の正体は、化け猫の幽霊だ、と?」

 空想に空想を重ねたような論理だったが、なるほど確かに、あり得ない話ではないようにも思えた。ツチノコにさえ懸賞金が幾千万とかかる時代だ。好事家が食指を伸ばさないとは限らないだろう。

 それにしても――、という発想は予想外だった。

 しかし思い直してみれば、化け猫とは怪異であって、幽霊ではない。

 なれば、怪異が死ぬことで、幽霊になることだってあり得るはずだ――河童の幽霊がいるかもしれないし、ネッシーの幽霊もいるかもしれない。

 現にこうして、私は猫の幽霊を飼育しているのだ。幽霊の存在そのものは、よもや受け入れないわけにはいかない――ともすれば、やはり怪異の存在も、同様にあってもおかしくはないものとして見るべきなのだろう。

 化け猫も、猫又も、金華猫も。

 現実にあってもまったくおかしくはない――なのだ。

「まあ、あくまで空論ですけれどね。けれど、幽霊になれる猫ってのは結構、生前からそういう資質を持っている奴なんじゃあないかって思って――」

 そこまで言って、内枝は短く嘆息する。

「それにしても、怪異を売り捌く反社会的勢力存在のお話ですか? 毎度思いますが、どういうものを喰ったらそんなよくわからない物語を思いつけるんです?」

「好奇心と興味、そこから生じる経験だ」

「決まり文句ですねえ」

 もっと具体的な言い方してくれればいいのに、と内枝は唇を尖らせる。

「ま、あっしとしては面白い短篇を上梓してくだされば、それでいいんですけどね」

 言って、内枝は荷物をしまい始める。

「それじゃ、また来週にでも原稿を受け取りにきますから、くれぐれもさぼらないでくださいよう」

「ああ、そうだ」と私は言葉を付け足す。

「ついでに、剛克組と十文字組のことも調べておいてくれるかな」

「へいへい」

 適当な相槌を返した内枝のいなくなった部屋で、私は再度、ファイルに閉じこんである資料に目を通すことにした。

「剛克組、か……」

 その名で検索してみると、複数の記事がヒットした。

 なかには抗争の果てに起こったものであろう、殺人事件の記事もある。拳銃の発砲。麻薬の売買。真夜中のカーレース――日本で起こったものとは思えないような凄惨な事件が入り乱れている。なかでも、特に目を引くのは「字室剛毅」という名前だった。

 剛克組の頭領、字室剛毅の名は私でも知っている――十八年前、都内でサブマシンガンをぶっぱなしたという事件は、今でも語り草になるほど衝撃的なものだった。平和な日本。安全な日本。そういう、ある種の神話として揶揄されもする類の幻想を完全に否定できるほどのパワーが、そこには存在した。

 圧倒的な暴力。

 その傘下に、栄善仁志はいた。

「栄善仁志の年齢からして、事件当時にはすでに、栄善は剛克組の傘下にいたと見て間違いないだろうな――剛克組が勢力を伸ばし始める以前から所属していたってことだ。ともすれば、栄善は剛克組の最古参……。相当の地位にいてもおかしくはない」

 そんな連中が取り引きを行う商品。

 高価で――希少な、猫。

「化け猫、ねえ――」

 ……例えば。

 猫又なんかは、尾がふたつに分かれていることが特徴とされている場合が多い。

 霊感商法やスピリチュアル療法が、庶民ではなく金持ちをターゲットに据えているように、金を持ちすぎた人間が、そういう存在へと傾倒していくのだとすれば――猫又そのものではなくとも、突然変異やシャム双生児のような理論で、尾が生まれつき分かれている猫を、猫又と言い張って売られた、と言う可能性も考えられる。

 密輸、か。

 倉橋の言葉を思い出すならば――ペットショップ。

 私はおもむろに、マップアプリの検索バーにいくつかの単語を入力する――と、経路八百メートルのうちに、一軒のペットショップがヒットした。

「ペットショップ・クローバー……」



   5



「いらっしゃいませ」

 一時間後。

 私はペットショップ・クローバーを訪れていた。

 ありていに言って、ペットショップをまともに訪れたのはこれが初めてだった――中学二年生までは実家に犬がいたけれど、そのとき頼りにしていたのはドッグフードを売っていたスーパーマーケットと獣医のところだけだった。

 一歩踏み込むと、店内からは途端にドッグフードやキャットフードのような匂いが香った。

 縦に三つ、横に四つの計十四のゲージが一つの壁につきワンセット存在しているというような内装だ。すでに売れてしまったものもあるようで、いくつかは空になっている。

「…………」

 それにしても、相変わらず相容れない空間だった。

 私は周囲をよく見渡す――どのゲージも狭い。

 ペットショップで商品となっている動物は、大概がまだ年少だ。思い切り身体を動かして、身体を育てる時期というものだろう。それなのに、このペットショップは――いいや、どのペットショップも同じだが、ゲージがとにかく狭すぎる。まるで奴隷船じゃないか。

 ひょっとすると……そういう「可哀想」って気持ちを引き出すことが狙いなのか?

「何か、お探しですか」

 と、不意に背後から声がかかる。振り向くと、先ほどまでカウンターの奥にいた店員がすぐ後ろでこちらを向いていた。

「うちの商品は健康状態も抜群の、それも血筋の良いものばかりを集めていますから――きっと、お客様のご期待に添えますよ」

「商品、ね……。あなたは、この店の店主の方?」

「ええ」肯定して、男はうなずく。

「もっとも、二か月前になったばかりですが」

「それじゃあ――」

 私はぐるりと周囲を見渡しながら、単刀直入に尋ねる。

「――栄善仁志という男を知っていますか?」

「栄善……様でございますか?」

 ふい、と男は首を傾げた。

 自然な動作に、私は少し拍子抜けする。普段から出不精の人間の口から唐突に、以前から関係のあった反社会的勢力の名前が出てくれば、少なからず驚愕の感情を露にするものだろうと考えていたのだけれど――。

「いえ、そのようなお客様との取引はございませんね」

 と、男はあくまで自然な動作で言葉を続ける。「そういう客の情報は渡さないんじゃあないんですか?」とカマをかけてみるけれど、それでも「取り引きさせていただいていない方の情報は、そもそも存在しないので」と流暢な返答だった。

 ……頭のなかで一度、ここまでの経路を整理する。

 ここのペットショップではない――のか?

 けれど――と、昨晩に確認した、マップアプリのことを思い出した。近隣のペットショップはここだけだ。別のところを探すとなると、電車で十八駅ほど移動しなくてはならない。倉橋の言葉を信用するならば、ペットショップは近い位置にあるはずだ。

 あの猫がかつていたペットショップは、あのマンションから近いところにあるはず。

「もっと、倉橋から詳しい話を聞いておくべきだったかな……」

 呟いて、私はペットショップをあとにする。――その間際に、自動ドアに貼り付けられている紙が目に入った。

「……この店、トリミングもやっているんですね」

「はい」と男は店の奥から返事をする。

「ご用命でしたら、裏手の入り口にまでよろしくお願いいたします」

 うなずいて返事をする、その背後で。

 ……トリミング。

 確か、犬や猫の体毛を整える作業のことだったか――と思い出した、そのとき。

 まるで火打石のように、何かが弾ける音がした。

 ……待てよ。

 道端に踏み出したタイミングで、私はふと、何かに引っかかった。

 立ち止まるとブーツの足音が消え、クラクションや横断歩道の音楽ばかりが聴覚を占領する。その音をかいくぐるようにして、その思考に集中する。

 栄善仁志。剛克組。十文字組。取り引き。金の移動。

 高価な猫――それらのキーワードこそが、あの猫の幽霊を紐解く、鍵になるはずだ。そして短篇小説のネタになる。

 ただの、想像の産物には終わらない、硬質なディティールを保った状態の。

 新鮮なネタは、そうして生まれる。

「クローバー……」

 四葉。

 四葉はまれに、キリスト教系のシンボルとして扱われる。なぜか? それが十字架を象っているように見えるからだ――縦の線と、横の線。

「十字――」

 十文字。

 倉橋が聞いたという、真夜中の罵声。交渉。人質。大金が動くだけの動機。

 ペットショップ。

 トリミング――

「ああ」

 言葉と言葉が繋がり、そして――

 真実の姿を、造形する。

「そういうことか。そういうことだったのか……なるほど」

 思わず私は口元を抑えた。

「なるほどな。……考えが及ばなかった。これは最初から、戦争だったというわけだ」

 否。

 抗争、とも言うべきか。

「……栄善仁志は、大麻取り引きの失敗によって、古くから所属していた剛克組を追い出される寸前だった。……彼には、失墜した信頼を取り戻す必要があった。多少のリスクは侵してでも――信頼を勝ち取れるだけの、大金を得る必要があった。けれどどこから? 正当な手段では得られないだろう。金融機関を頼る? それもおかしい――けれど、方法はあった。

 ペットショップだ。

 ペットショップ・クローバー――あそこは。

 

 そして、あの店では――トリミングを請け負っている。

 トリミング。

 押さえた口元に、我慢できなかった笑いがこみ上げる。

「栄善が攫った猫ってのは――つまり、高価な猫じゃない。高額な猫じゃあない――高価な猫の、じゃない。それでも、誰かが桁外れの大金をはたいてしまえるもの――巨大な額を出してでも、取り返したいと思える猫」

 

「栄善仁志は――

 トリミングのために、ペットショップ・クローバーに預けた、そのタイミングで。

「話が見えてきたぞ……」

 栄善は、例えば自分を、あたかも十文字組の人間であるかのように見せかけて、ペットショップの店員を騙し、十文字組の頭領の愛猫をペットショップ・クローバーから盗み出した。そして、、十文字組への脅迫を開始した――身代金と引き換えにするなら、無事に返してもいい、とでも条件を出して。

 キッドナップならぬキャットナップ。

 人を質に出して交換することを『人質交換』と呼ぶのなら、さながらそれは猫質交換とも言うべきか。けれどもしかし、ことはそう上手くは進まなかった。

「……栄善が、その脅迫の結果として、大金を得たか、あるいは得ていないか、なんてのはさしたる問題じゃない……。ただ、劣悪な環境で、猫は生きられない」

 ペット禁止のマンション。

 だから――栄善は、誰にもばれないように、猫を監禁したはずだ。

 鳴けない状況で、飯も水もやらず。そんな状況にあれば、猫は当然、衰弱する。

「そして、死ぬ――」

 幽霊になる。

「飼い犬や飼い猫は、ときに家族と呼べるほどの存在になることがある。ペット葬なんてものもあるくらいだ。ただの家畜とは違う――ただの動物とは違う。十文字組の頭領とは言っても、愛猫の命がかかっているともなれば、いくらでも自由な金額を支払っただろう。けれど――それでも、人質が死んでしまったら、元も子もない」

 争うような音。

 倉橋が聞いたというその音はきっと、栄善を追ってきた、十文字組の人間の代物だったはずだ。けれどそこには、おそらく、栄善はすでにいなかった。当然だ。猫が死んでしまったのだから、取り引きは破談――むしろ、今は自分の身が危うい。

 そう考えた栄善は、とにかく十文字組に見つからない場所へ、逃げ去ろうとした。

 だからこその、引っ越し。

 そして、この部屋には――

「猫の幽霊だけが残った」

 そしてきっと、そのことが原因で、元の店主は首になったんだろう。今の店主がそのことを知らないのは、それが極秘事項になっているからだ。

 それが、この部屋に起きている出来事の顛末だ。

 ……そして、その真偽を確かめる方法を、私は知っている――私はくるりと踵を返して、ペットショップ・クローバーの店主に向け、言葉を投げた。

「この店で一番上等なキャットフードを」



   6



 翌週。

 私は新作の短篇小説の執筆作業に取り掛かっていた――購入した『キャット・フード・ゴールデンミックス』に対する猫の幽霊の反応は過剰なほどで、部屋を飛び回るような食べっぷりだった。これで確定だ。猫の幽霊は、十文字組の所有していた愛猫だったのだろう。調査の甲斐があったというものだ。

 非現実的な事象の背後に潜むリアルの事情。

 それは、私の得意分野とするところだった。

 ネタがネタであるがゆえに、情報をそのまま出すことができないのが惜しいけれど――その部分の誤魔化しってやつも畢竟、必要な作業というものなんだろう。私は適当につけたニュース番組の情報を右から左へ聞き流しながらタイピングを続ける。

 と、そのとき。

『先月、県内の浜辺にて――』

 ふと――とある言葉が、耳に入った。

『片腕のない身元不明の遺体が漂着するという事件について、身元が判明したとのことです』

 タイピングの手が、止まった。

 流し目に画面のほうを向く。

『警察の発表によりますと、遺体は、県内在住の栄善仁志さんのものであるとされ、警察は栄善仁志さんが、何らかの事件に巻き込まれたものとして捜査を続けています』

 画面に映し出される、傷だらけの、見覚えのある顔。

「…………」

 直後。

 真夜中だというのに、インターホンが鳴った。

鏡葉かがみばさん――?」

 と、私の名を呼ぶ声が聞こえる。鏡葉離島かがみば りとう。それは私の名前で、声は大家の声だった。立ち上がって玄関へ向かう――何事かとドアスコープを覗き込むと、そこに藍色のスーツが見えた。そのうえに羽織っているベストには『POLICE』と英語表記がある。

 片方は如何にも体育会系といった風貌で背の高い、短髪でガタイの良い男だった。眉に剃り込みを入れている。耳がつぶれているところを見るに、きっと柔道をやっていたのだろう。

 もう片方は、対して貧相な身体付きをしていた。ワックスで撫でつけた髪型。骨格の浮き出るような頬。しかし眼鏡の奥にある瞳は鋭利な色を宿している。

「……こんな夜中に、どういう要件なんだ?」

 訝しみながら扉を開くと、怯えたような大家を囲うようにして立つ二人が、礼の代わりというつもりなのかサッと短く帽子を下げた。

 そして、

「夜分遅くに申し訳ありません。以前、ここに住んでいた栄善仁志についての捜査令状が出ています。ご協力を」――と、体育会系の男が早口に言った。

「栄善ン――?」

 私は思わず顔をしかめる。やれやれと頭を掻きながら、

「そいつは私の、前の住人でしょう? 私には関係ない。私は仕事中だし、それに今は夜中だ。二十三時……常識的な思考の持ち主なら、日を改めて出直そうって考えに行きつきそうなものだと思うが」

「しかし、そういうわけにもいかないんですよ」慇懃無礼を絵に描いたような口調で、眼鏡の男は冷静に続ける。「悠長なことをしている場合ではないんです。事態は一刻を争う。この部屋には……大規模犯罪の証拠が隠されている可能性があるんです」

「大規模犯罪?」

「人身売買です」

 衝撃に、思わず目を見開いた。

「それも普通の人身売買ではありません――と言えば、少し日本語として不適切であるかもしれませんが今回のものはかなり質が悪い。一人二人ではなく、二十人、三十人という規模の取引です。そして栄善は生前に、この部屋に重要機密の入ったUSBメモリを隠していた。それを回収するのが、私たちの役目です」

 私は心のなかに、肺が空になるほどの溜息をついて――いくつかの不運への文句を諦めて、大人しく道を退く。

「…………私のパソコン以外なら、適当に荒らしてくれて構わない。協力するよ」

「恩に着ます」

 警官二人とすれ違うようにして、私は部屋の外に出る――と、そのタイミングで一本の電話が入った。スマートフォンを取り出す。内枝くんからだ。

「内枝くん? 悪いけど今、ちょっと大変なことになってるんだ。それに疲れていて……」

『高価な猫のこと、調べましたよ』

「……何?」

『先生のことだから、どうせ猫も、その栄善なんたらとかいう人に関係しているんじゃないかと思いましてね。色々とツテを探ってみたら出てくる出てくる。……ほら、先生もご存じなんでしょう? 十文字組の飼い猫ですよ』

 内枝くんはへらへらと笑う。

『あそこの猫。正式名称は『シャルロッテ』……灰色の体毛が特徴の希少種です。しかもあっしの予想していた通り、しっぽがふたつですよ。正真正銘、稀少に稀少を二乗したかのようなレアケースです。こりゃあ高値がついたでしょうね。しかも、まだ――健康状態は良好と来ている。猫はね、若いほうが高価なんですよ

「……なんだって?」

 その言葉に、私は目を見開く。

 健康状態は――良好?

「つまり……、その猫は、まだ――?」

『……? ええ』

 何を言っているのかわからないといったふうに、内枝くんはそう返す。

『猫に多い、体毛や皮膚の病気についても、別段問題はありません。良い獣医がついているんだろうなあ……本当、ばっちりですよ。去勢もしていないみたいですから、正真正銘、人の手の加えられていない猫です。あとちょっとしたら子供もできるんじゃないかな』

 それなら、あの猫は――

「………………………………」

 ――なんなんだ。

「……すまない、あとでかけ直すよ」

 私は逃げ出すように電話を切った。

 そしてへなへなと、力なくその場に座り込む。

 足元からアリの大群が這い上がってくるような、嫌な感覚が駆け巡る。粘性の高い泥のなかに溺れて、身動きのできないような苦しさに襲われる。

 何だ。何が起きている。

 あの部屋にかつていた猫は、実のところ飼い主の元で、好ましい環境で生きていた。

 そして代わりに、その猫をさらった男は死体として海に捨てられている。

 つまり――これは。

 全身がぶるぶると震え始める。

「栄善は、猫を金に……換えられなかった? いいや、それだけじゃない。栄善は、それどころか、ろくに逃げることもできずに…………」

 

 争うような音。

 引っ越し――そして、死体遺棄。

 そう言えば。

「……猫の幽霊だというのに、この部屋には傷ひとつ残っていなかった。猫が引っ掻く意味はふたつ。威嚇と爪とぎだ。猫ならば、爪をとぐために……、部屋も当然、引っ掻くだろう。それなのに現実は、

 反射的に、内枝くんに指摘された傷のことを思い出す。……左腕。けれどそうだ。考えてみれば――

 なぜだ。

 どうして私は、あれを――

 ゆっくりと振り返る。部屋のなかに、すでに二人の警官は踏み込んでいた。どこを探すのかはあらかじめ決まっていたとでも言うかのように、一点を重点的に探している。

「おい」と私は、眼鏡のほうに向かって問いかける。

「ニュースでさっき、やっていたよな。栄善仁志の死体が見つかったって事件……教えてくれ。栄善仁志に指は何本残っていた?」

 眼鏡の警官は、気だるげにこちらを振り返ると、一度、何かを思い出そうとでもするかのように天井を見上げて、それから――一世代前の芸能人のように、薬指と中指で、歪なピースサインを作ってみせた。


「この通り、でしたよ」


 答えるその男の――すぐ背後で。

 びしゅうッ! ……と。

 奇妙な音が鳴った。

「――っか、は」

 ぱ、と部屋中に赤黒いものが飛び散る。

 まるで抽象画の仕上げのように、それは部屋を斜めに横切った。

 ……血、だった。

「田中ッ!」

 叫ぶ眼鏡の男の目線の先。

 ガタイの良い男は、自らの首元を抑えていた。

 その手の指と指との間隙から、それでも血は噴水のように溢れ出す。

「そんな……田中! 今、助けに……「駄目だ、そっちに近付くな!」

 遮るように言った直後。

「ぐ」

 と、眼鏡の男の表情に、苦悶のようなものが走った。

「…………おい、きみ。大丈夫か」

 私の言葉に返事をすることもなく、眼鏡の男は私のすぐ目の前で、実にゆっくりと、ピサの斜塔のように傾いた。そして、目の前の、何もないところから――まるで、

 つうと赤の筋が垂れ――どさ、と男はその場に転倒した。

「……な、に…………」

 これは……かなり、まずい。

 今にも命を失いかけている目の前のふたりに、私は思わず口元を手で覆った。これは、すでにかなり不利な状況だ――逃げだすことも難しいだろうし、もしここで、仮に私が逃げおおせたとしても、私の部屋で、警官ふたりが首を切り裂かれて、そして死んでしまったら……裁判所は幽霊の存在を信じてくれるだろうか?

「…………」

 ……しかし、一瞬の出来事だった。

 けれどきっと、いつでも、やろうと思えばできたのだろう。

 だが、そうはしなかった。

 それはきっと、私が彼を、猫であると仮定していたからだ。

 奴はそれを――利用した。

 刹那。

 ばつん、と。

 部屋の電気が唐突に落ちた。

「――!」

 深夜の暗闇が、途端に私の視覚を覆い隠す。

 そして――暗闇のなか。

 きん――と。

 金属の鳴る音がした。

 私は静かに、部屋のなかに広がる無数の暗闇を前にして、問いかける。

「栄善仁志――

 ぐしゃ、と紙の踏まれてつぶれる音。

 浅い呼吸音。

 こっちに……向かっている、のか。

 私はひとまず、慌ただしくその背を壁に密着させ、そして首全体を手で覆った。これでひとまずは、二人のように首を切り裂かれる心配はなくなる――けれどそれでも、危機が回避されたわけではない。この部屋には依然として、まだいるのだ。

 彼が――殺された、彼が。

 ぐしゃり、と再び、紙のつぶれる音が鳴る。

「……この暗闇のなかでも、私のことが見えているのか、あるいは見えていないのか、それは分からないが――私の首を切り裂くことはできないぞ、栄善」

 つま先が本を蹴る音。

 隠そうともしない接近の音色が、じわじわと近づいてくる。

 ……選ぶ必要がある。

 目の前の二人の警官の生命と、私の人生か。

 あるいは――人身売買されるという、三十人規模の人々か。

 選択する必要がある――進むか、退くか。

 その間にも、足音はやってくる。

 一歩、二歩。

 着々と。

 刻々と。

「…………待て。お前の目的は――正確には、証拠の処分であるはずだ」

 制止するように腕を前に突き出した、その動作と同時に。

 ぴた、と音色が停止した。

 つうと顎先を汗が伝っていく。

「こんな不安定な場所に、こんなものは置いてはおけない。私がいつか見つけるかもしれないし、そうでなくとも、今みたいに、警察や対立組織の手が伸びる可能性は常に考えていたはずだ。その未練を――私が叶えてやるとすれば、どうだ?」

「…………」

 暗闇は、

 答えない。

「だが……

 私は首筋を抑えながら続ける。

「私もこう見えて、結構人目を気にする立場なんだぜ。こんなところで警官がふたりも死んだとなれば、ましてそれが幽霊のせいだなんて話になれば、さすがに私としてもやばい。できれば早急に、きみにはここから立ち去ってもらいたいところなんだ……なあ、取引をしよう」

 言って――ボッ、と。

 そこで、ライターの火をつけた。

「このライターで今、きみの目の前でその証拠とやらを焼いてやる。それが例え紙資料だろうが、メモリーカードだろうがなんだろうが、これで破壊してやるよ。情報は炎に弱いからな。だが、その代わり――きみは、ここから消えろ」

「な……、に……?」

 不意にそう呻いたのは、倒れた眼鏡の男だった。

「やめろ、貴様……それがなくては、捜査の続行が……」

「知ったことか」

 炎で闇を炙りながら、私は部屋の奥に向けてライターを振りかざす。

「私にとって、これはすでに取材なんだよ! 死してなお続く生への、醜くも美しい執着へのな! ……さあ、教えてみろ、栄善!」

 言葉に触発されるように、音が――

 これは……床、だ。

「な……この音は……」

 眼鏡の男が、うろたえるようにそう呟いた。私は沈黙して、ゆっくりとその音の方向へと向かう――ライターでその位置の闇を払った。

 そこは、私がいつも使っている、机のある場所だった。

「…………なるほどな」

 私は静かに納得する。部屋のなか、私が引っ掻かれたのは決まって、私がこの机について作業をしているときだった――きっと、栄善はここから私を遠ざけたかったのだろう。そこにいれば、怪我をする場所として。

「……それに、ああ、なるほど――きみには指が二本しかないから、そこから取り出すことができなかったんだな」

 火。

 その照らす先――フローリング。

 溝に紛れて、何か隙間のようなものがそこにあった。

 私は親指と人差し指で、引っかけて取るようにして、その部分をつまみあげる――ずる、とそれは引き上げられた。簡易的な引き出しだ。それほど凝った仕掛けではないが、それでも、何かひとつを隠すためには十分すぎる。

 そして、なかには――

「USBメモリ、か」

 私はその場に立ち上がると――ど、と壁に背をつけ、部屋の中央へと視線を向けた。そして、ライターを掲げるようにして――その火の先端へ、USBメモリの接続部を持っていく。

「く……お前、それが何を意味するのか分かっているのかッ!」

「分からないね」

 可能なかぎり、冷淡な口調で言った。

「目の前で死にかけている人間がいるってのに、それよりもこのちっぽけな道具を優先するって気持ちがまったく分からない。今、ここで私が何もせず、きみたちが死んでく様を黙って見ているってことはな……単に、気分が悪くなるってだけじゃないんだぜ。私はきっと、この暗闇を、この静謐を、この炎を恐れるようになる――人生が破壊される。それだけは阻止する必要がある」

「しかし、それがなくては、人身売買を止めることが……」

「は、知ったことか」

 指につまんだUSBメモリ。その内部構造が段々と、高熱によって変形していく。

「私を不機嫌にさせたのが間違いだったな」

 刹那、ばちん、と何かが鳴って――。

「……屑め」

 部屋がぱ、と明るくなった。

 私は低く溜息をついて、そしてライターの炎を閉じた。

「まずは救急車だな」

「…………くそ!」

 私はポケットのなかのの感触を確かめながら、スマートフォンを手に取った。そのまま、受話器の向こうの救急隊員に現場の惨状を報告しながら――そして私は、出来上がったイメージを反芻する。

「……お前、何をしたのか分かってるのか」

 責めるような眼鏡の男の問いに、私はゆっくりと振り返る。

「……さあな。人命救助か?」

 そして私は眼鏡の男だけ見えるよう、そっとポケットのそれを取り出した。

 あり得ないとでも言うかのように、男はその目を見開く。

 USBメモリ。


 選択は――両方、だった。

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