四口目 このかとましろ
「―――――――」
寒空の下、涙でぐちゃぐちゃになったあなたは、時間が止まったみたいに、呆然として私を見ていた。
おあつらえ向きのいつかのピアノに腰掛けて、何かを弾こうとしたその直前に。
「なんで―――?」
「なんで、って。そりゃあ嫌でも気づきますよ。なんか無理が見え見えなのに明るく振舞ってるし、結論はぼかして言わないし」
吐きだす息が白く棚引いていく。
あなたの顔は、涙で崩れてまっかっかで、指先も冷えたせいかどことなく紅くなっている。そりゃあ、そろそろ冬になるって言うのに、こんな真夜中に出かければそうなるよ。
「―――――」
「まあ、正直、今日朝に会った時から、結論は察しがついてました。ああ、これは身を引く気なんだろなって、そのために無理に明るくしてるんだろなって。もうましろさんの中で答えは出てるんだろなって」
ほんとはそれを気付いた瞬間に問いただしてしまいたかったけれど。
それでもやっぱり結論は、待つべきだとそう想った。
「―――――」
「でも、それでも――――私はちゃんと聞きたいです」
「でも――――」
「朝起きたら、いなくなってて、それでさよなら、なんて嫌です。お伽噺の雪女みたいに、気付いたら雪が解けたみたいに消えてたなんて。そんな寂しい終わり方、私は嫌です」
たとえそれがこの関係が始まった一か月前から、決まりきっていた結論だったとしても。
「私は—――あなたの口から答えが聞きたかった」
私の言葉にただでさえ涙で滲んだあなたの瞳が、ぐらりと揺れる。不安と動揺と、きっと数えきれないほどのいろんな感情で、ぐちゃぐちゃに揺れていく。
一か月、そうたった一か月。
この人がしてきた覚悟は十年以上の人生を懸けて積み重ねたもの。
そんな覚悟を、たった一か月で堕としきるのは無理だなんてことは、わかってた。
わかってたけど―――。
「嫌ですよ。どっか行くなら、一言、声をかけてください。知らないうちに勝手にいなくならないでください。いつ戻るのかちゃんと教えてくれないと、嫌ですよ」
「でも――――」
「わかってます、ましろさんの優しさに、覚悟に、水を差すようなことをいってるのはわかってます。でも、それでも――――」
ゆっくりと歩み寄る、何を喋ろうとしているのか、何を伝えたいのか自分でもよくわからないのに。口は勝手に動いてく、心は勝手にあなたに縋るように言葉を紡いでいく。
「ましろさんがいなくなるのは――――嫌です」
頭をそのまま座っているあなたの胸にそっと預ける。
「ましろさんのピアノが聞けなくなるのが嫌です。いつものバーで、ましろさんとお話しできなくなるのも嫌です。もうデートに行けないのも嫌だし。一緒にご飯食べられないのも嫌です。キスできないのも嫌だし、一緒にくっつけないのも嫌です」
私は今、どんな顔をしてるんだろう。
「ピアノ見るたび、あなたはもういないんだって想い出すのが嫌です」
あなたは今、どんな顔をしているんだろう。
「ましろさんが弾いてくれた曲を聞くたびに、あなたともう歌えないんだって想い出すのが嫌です」
泣き声を必死に堪える音だけが聞こえてる。
「最初は、正直、なんとなくあなたがいなくなるのが嫌だって想ってただけなんです」
「ましろさんの気持ちを変えられるかなんてわからなかったけど、何かしたくて」
「この一か月、私、全然大したことなんてできなかったけど」
「でも」
「なんでだろう、わかんない」
「想い出が増えちゃったからかなあ」
「あの時より、今はもっと、あなたがいなくなるのが嫌です」
「ねえ、ましろさん」
「置いてかないで」
「――――独りにしないで」
※
君は顔を私の胸にうずめたまま、そう呟くように、冀うみたいに言葉を口にしてた。
それにしても、置いてかないで、独りにしないで―――かあ。
ああ。
ずるいなあ。
本当は私の心なんて、全部お見通しなんじゃないかってくらい、致命的に揺さぶってくる。心の中の小さな子どもの部分をぐらぐらに揺らされる。
ピアノにしたってそう、私は君の想い出のほんの一欠けらになればそれでよかったのに。心の穴にまで、想い出すたび苦しい想いをしないけないまでになりたいわけじゃなかったのに。…………まあそれはそれで、ありかもなあ、なんて想っちゃう自分もいるけれど。
でも。
君を苦しめたいわけじゃない。
君に幸せになって欲しいから。
そのために私は邪魔だから。
そう想い込もうとしてたのに。
ああ、ほんとにずるい。
欲しい言葉をわかってるみたいに、並べてくる。
ほんとはしたかったことを、見透かされてるみたいに言い当てられる。
自分についていた嘘さえ、否が応にも見せつけられる。
いや、結局か。結局、今日こうやって泣いているところを見られた時点で。
…………もしかしたら、一か月前の約束を断れなかったあの時に。
私はもう、この子に手を捕まえられていたのかもしれない。
「ね、このかちゃん」
「昔話ひとつしていい?」
君は私の胸から顔上げて、ぐちゃぐちゃに、……君がそんなに泣き腫らしている顔なんて初めて見た。
普段しっかりしてから、こんな顔するの珍しいんだろうなって、こんな顔私以外あんまり見る機会もないだろうなって想ったら……。ああ、うん、どうしよう。これを可愛いなんて想っちゃってる時点で、もうこのかちゃんに敵わない気さえしてしまう。
ピアノの椅子を半分開けて君を座らせて、泣き腫らした顔のまま、同じように泣き腫らした君の頬を袖で軽く拭ってあげる。
「中学の頃さ、お父さんが出て行ったんだ―――」
君はじっと私を見つめたまま、話を聞いていた。
私は赤く染まってる顔と、涙で濁った声のまま、白い息と一緒に言葉を吐きだしてく。
「それまで、雪女が愛した人から体温を貰ってるのは知ってたけど、命を貰ってるとまでは想ってなかった。私達が大人になるまで、お母さんとお父さんは伏せておくことにしたんだって」
「子どもだからさ、ほんとはすっごい憧れてたんだ。好きな人が出来て、その人から貰ったもので私の身体が満たされてく。愛の証じゃんみたいな、恋に恋する子どもっぽい夢をそれまで抱いてたんだけど」
「丁度、私が人から命を貰わなくちゃいけなくなったころにね」
「お父さんは限界が来ちゃったみたい」
「お母さんと一緒に居るのが辛くなって」
「どうしてかは、わかんない。命が減っていくのが怖くなったかもしれない、愛が冷めてしまったのかもしれない、それとも違う人が好きになってしまったのかもしれない」
「お母さんもそのことは段々わかってたみたいで、小学校卒業するあたりから、二人は喧嘩が増えてって」
「私が中学上がってしばらくしたころに、離婚がね決まったんだ」
「なんでって、どうしてって、一杯聞きたかったけれど、お父さんずっと辛そうな顔してて、うまく聞けなくて」
「家から出てく最後の日に、私の肩を掴んでね『お前たちが雪女なんかじゃなければ』って―――――そう言ったんだ」
「辛かった、苦しかった。そんな言葉で言っても全然伝わらないじゃないかってくらい、痛かったし悲しかった。私が、お母さんが、まふゆが、こんな命の形を生まれてきてしまったこと自体が間違いだったような気までして」
「生きてるだけで、誰かを、愛している人を犠牲にしなきゃいけない。この身体が、悍ましかった」
「でもね、お母さんもまふゆも凄いんだ。ちゃんと自分の身体と向き合って、ちゃんと生きていく術を模索して」
「私だけが、生きることそのものから逃げて、逃げて」
「そんなやるせなさとか、死ぬことの怖さとか、自分の生い立ちとか、そういう言葉にできないものを、無理矢理吐き出すためにピアノにのめり込んだんだ」
「ずっとね、怖かった。こうやって生きていること自体が。またどこかでお前が雪女なんかじゃなければって、言われてしまうのが怖かった」
「でも、それより何よりね」
「きっと、好きになってしまった人に、嫌われてしまうのが一番怖かったの」
「このかちゃんのこと好きになって、雪女としてきみの命を貰った果てに」
「きみに憎まれるのが怖かった」
「死んでしまうことより、ずっと。私が生きていることで、きみを不幸にするのが怖かったの」
「ずっと、ずっと怖くて、言えなかった」
「好きだって」
「きみが好きだって」
「言えなかった」
「ごめんね」
「ごめんね」
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