三口目 まふゆ

 ふと目を閉じて、想いかえした姉の記憶は、どれもかれも眩しい笑顔ばかり。


 よく表情がコロコロ変わる人だったから、それ以外の顔もたくさん思い浮かべられるけど、ぱっと思いつくのは結局そのあふれんばかりの笑顔ばっかり。


 いつも臆病な私の手を引いて、大丈夫だよ、怖くないよ、ほら行こうってそう繰り返しているような人だった。


 そう言っている姉自身も本当は怖がりだから、結局その手は震えてて、だからこそ、その手を離さないようにぎゅっと握っていたのを覚えてる。


 初めて公園の子供たちの輪の中に入ったとき、姉の真似をして初めてピアノ教室に行ったとき、両親とはぐれて二人でショッピングモールを迷っていたとき。


 そして両親が真夜中に大きな声で喧嘩している間、子供部屋で二人、ぎゅっと抱きしめあっていた時。


 大丈夫、大丈夫って震えながら、必死に私に言い聞かせていた、あの人の声を、表情を、涙を。


 きっと私はこれからもずっと覚えてる。


 そして、そんな風にずっと大丈夫、大丈夫って言っていたあの人の表情が。



 父が家を去ったあの日に。



 ずっと気丈にふるまっていた小さな子供の心が決壊した、あの瞬間。ずっと希望を信じていたのに、それでも尚、それが叶えられることはなかった、あの時に。


 ずっと明るくて眩しかった姉の表情が初めて、取り返しもつかないほどに陰って崩れてしまっていた。


 涙をただ漠然と溢しながら俯いて、父から漏れる慟哭の言葉を、ただ訳もわからず受け止めて。


 まだ子どもの心では耐えきれない、その事実をただ受け止めることしかできなくて。


 きっとあの時に、あの人の想いには決定的にヒビが入ってしまったのだ。


 それから一年後、あの人は。


 自分はパートナーは作らないと、自分は誰も愛さないし愛されることもないと、自分は27で人生を終えるのだと。


 そう私たちに向けて、小さく静かに謝るように告げていた。




 あれから、13年。



 

 姉さんは気付けば家に寄り付かなくなった。理由はまあ、わかってる。自分の生き方が、私や母さんの生き方を否定してると想ってるからなんだろう。


 まだ私も子どもの頃は、姉さんの決断がわからなくて、わかりたくなくて、詰るような責めるような言葉を吐いてしまった時もあったっけ。あれはいまだに上手く謝れてない。


 そんなだから、少し距離を取られている……まあ正直私の自業自得なんだけど。


 最初は反発していた姉さんの言葉も、何人かパートナーを作って別れたあとだと、少し納得できてしまったし。


 だって、どれだけそういうものだと割り切っても、どれだけ生きるのに必要なことだと割り切っていても。


 自分のせいで、誰かの命が犠牲になっていく様子を見るのは、馬鹿らしいほどに虚しかったし、そうやって好きあったはずのだれかとの関係がぎこちなくなっていくのは、耐え難いほどやるせなかった。


 私に命をくれた誰も彼もが、最初は気にしないでいいって笑ってて、そして誰も彼もが時々少し辛そうな顔を隠してた。


 「君が雪女なんかじゃなければ」


 そして、そんな、いつかの父さんみたいなことを口にして去っていく。


 今付き合ってるぬくみも、一体いつまで持つことやら、当人は「えへへ……お邪魔でなければ一生そばに居させて欲しいです……」なんて言ってくれているけれど、そんな言葉が覆されるのも悲しいかな何度も見てきた。


 大体、3年。そこを過ぎたあたりで愛の約束も、生涯の想いも覆る。少しずつ愚痴が漏れて、失った時間を想い始めて、やがて段々と私が邪魔になる。悲しいかな、この身体はパートナー達のそう言った心の変化が、あまりにも鮮明にわかってしまう。


 口付けを繰り返すたび、貰える熱が少しずつさめて冷たくなっていくあの感覚は、理解していてもすこし涙が溢れそうになる。


 それに気づいてから、私の方から3年で別れを切り出すようになった。きっと他人の人生からもらえる時間としては、それくらいが限度なのだろう。ぬくみにはこのことを事前に伝えてあるけど、あんまりちゃんとわかってなさそう。


 まあ、こんな寂しさをずっと抱えて生きていくくらいなら。独り、誰からも熱をもらわずに死んでいくのも、一つの答えなのかもしれない。


 まして、愛した人がいて、その人のことを想って、自分の運命に巻き込まずに笑って逝けるなら。


 もしかしたら、雪女として、それが一番の幸せなのかもしれない。


 だからこそ数多のおとぎ話の雪女たちは、そんな選択をしたのかな。


 まあ、私と母さんには選べなかった道だけれど。



 「小さい頃、姉さんの真似をしてね、ピアノを始めたの。でも一年で、この人には敵わないって諦めた」


 「へへ……、そんなに凄いんですか? お姉さんのピアノ、動画では確かにお上手でしたけど」


 帰りのタクシーでぬくみとそんなふうにぼんやりと話を続ける。暖房が効いた車内は少し意識を微睡ませてくる。


 「生で見ると、動画で見るのと比べ物になんないよ? 心を無理やり掴んで揺さぶられるみたいな、命を本当に燃やし尽くしてるみたいな、あの人にしかできない、そんな演奏だったから」


 「…………」


 私の言葉にぬくみはじっと黙るように口を噤んだ。


 「なんだろね、想いの量が違うのかな。小さい頃から、誰よりも想いや感情が大きくて強い人だった」


 ―――私と違って。


 その想いが少し羨ましくもあり、でも決して自分はそうはなれないという確信もあった。だって私は結局、自分が死ぬのは怖いから。


 そこに犠牲があると知ってなお、私は無様に生き長らえようとしてしまう。


 「童話のヨダカみたいな人なんだよね、自分が生きるために何かを犠牲にすることを憂いて、最後は燃え尽きて星になる」


 ヨダカの星もそういえば姉さんが読んでいたから、私も読んだんだったっけ。これ寂しいけど、面白いよって言ってくれたから。


 「………まふゆさんが星になったら、私が困ります」


 「……心配しなくてもなれないよ」


 ちょっとやけくそ気味にそう呟いたら、ぎゅっと腕を抱きしめられた。


 「……それに私、まふゆさんの想いが軽いなんて思いません。自分が生きることに必死になって何が悪いんですか。生きたいっていう想いは軽いんですか? 私、お姉さんのことは全然知らないけれど、まふゆさんの想いが負けてるはずがありません」


 そういうぬくみの顔は俯いて見えないけれど、どうしてかいつもより言葉に熱がこもってた。いつも困ったように愛想笑いばかりしている子なのに。


 「どーしたの? 怒ってる?」


 そう聞くと、ぬくみはすこし黙ってから、ゆっくりと言葉一つ一つに熱を込めるみたいつぶやいた。


 「……まふゆさんに怒ってます。私はまふゆさん大好きなのに、まふゆさんがまふさゆんの想いをお姉さんと比べて、大したことないなんて言っちゃうから。嫌です、引きこもってばっかりだった私は、まふゆさんに人生を変えてもらったのに」


 ぬくみはそう言ってくれるけれど。


 それは、そうすることであなたが私を愛してくれると、経験則で知っていたから。


 雪女として必要だからしていただけで。


 打算と利害でできたこれはね、きっと愛ではないんだよ。


 ……なんて口にはしないまま。


 「そう、ありがと、ぬくみ」


 「……ぐぬぬ、まふゆさんが本気にして無い時の顔してます。あの、私本気で一生添い遂げるつもりでいますからね?」


 「それはだめ、三年限定」


 「……うへへ、その時はストーカーしてでも振り向かせます。……引きこもりメンヘラの本気をまふゆさんはご存じではないのです」


 「そう、まあ、三年後。期待しないで待ってるよ」


 そんな言葉が覆されるのも何度も見てきたから、私は軽く笑って流した。きっとこの子も、三年もたてば熱も冷めているだろうと高を括りながら。


 「……えへへ、どうぞお待ちください。……あ、そういえば、お姉さんとパートナーさん、よかったですね。ちゃんと好きあってそうでした」


 ゆっくりと私の体からはがれたぬくみが、にへらといつもの表情に戻って笑った。


 その言葉に、私はうーんと即答を少し悩む


 「…………」


 「まふゆさん……?」


 二人が好きあっているのは確かにそうだ。本当は少し足踏みしているようなら、焚きつける気でいたのだけど、そこは図らずともぬくみがやってくれた。


 あの恋の一つもしてはいけないと自分を縛り付けていた姉が、誰かを好きになれたならそれはきっと喜ばしいことではあるけれど。


 ……あるのだけれど。


 「…………あの人の場合は、好きあってるからこそ……なんだよね」


 私の言葉にぬくみは不思議そうに、首をかしげてたけど。杞憂を口にしても仕方がないので、私はぼんやりと視線をタクシーの窓の外にそらした。


 ね、ましろ。思いが通じたら、どうするの?


 どんな決断をしても茨の道には違いないけど。


 せめて後悔しない決断を願うことしか私にはできない。


 ……………あ、そういえば。


 慌てて席を外したから、ましろに、伝えなきゃいけないことを一つ忘れてた。


 まあ、メッセージでいいかと、思い直して私は携帯に指を添える。


 『お母さん、最後なんだったら、顔くらいだしなさいって言ってたよ』


 そんなメッセージを一つ送って。


 私はゆっくりと目を閉じた。


 「まふゆさん、お疲れですか?」


 「うん、ちょっと……」


 視界が少し滲むようにぼやけてくる、タクシーの暖房もあってすこし微睡むような感覚の中、瞼がゆっくりと落ちてくる。


 「えへへ……おやすみなさい、まふゆさん」


 そんな、ぬくみの声を聴きながら、ゆっくりと目を閉じた。


 閉じた瞼の裏で、朗らかに明るく笑う、誰かの表情が見えた気がした。

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