二口目 このか―⑥


 言われた言葉を咀嚼するのには時間がかかった。


 なにせ今日は情報量が多かったから、どこにどんな感情があって、誰にどんな想いがあって、それに私が何を感じていたのか。


 一筋縄では説明なんてできなくて、薄い感情の織物が幾重にも重なっていくみたいに、これっていう名前は付けられない。


 少し、寂しい気がした。


 少し、嬉しい気がした。


 少し、悲しい気がした。


 少し―――、泣いてしまいそうだったけど、これがどういう涙かはわからない。


 ただ想ったのはましろさんが、きっとたくさんの人に想われていると言うことと。


 そのましろさんの隣にいる私のことを、想ってくれている人がいると言うこと。


 私自身は、ふわふわで、軽率で、軽薄な人間だけれど。


 そういうちゃんとした想いが尊いとは想うから。


 貰った言葉は大事に胸の中にしまっておくことにした。


 私はいつでも逃げていい。


 私は自分の人生を大事にしていい。


 その言葉を覚えたうえで。


 今、あの人の手を握っていたい。


 それだけかな?


 それだけだよ。


 だって、深い想いは大事だけれど、たくさん持ちすぎても、うまく歩けなくなるでしょう?


 だから今はきっとこれでいい。


 てきとうに、てきとうに。


 なんとなく会いたくなったから、あの人の背中を探しに行こう。


 どうにも私も健診とか色々受けないといけないらしいしね。


 病室を出るときに、小さく頭を下げたら、たかはな先生はひらひらと揺れるポニーテールと一緒に小さく手を振ってくれた。


 私も小さく手を振り返して、病室を出る。


 そしたらすぐに看護師さんが健診の場所まで案内してくれた。


 そんで廊下を歩いてる間に、色々と話をしてくれた。


 大体は、ましろさんのこと。


 どんな子どもで、どんな少女で、どんな大人になってきたか。


 中学生の頃に、一生パートナーを作らないって言って、周りをびっくりさせたこととか。


 注射が嫌いで、いっつも泣きながら打ちに来たこととか。


 血管が細すぎて、全然見えないから、採血がいっつも大変なこととか。


 今日こうやって、私を連れてきてくれたことが本当に嬉しいこととか。


 そんなことを話してた。


 それにしても、愛されてるなあ、ましろさん。


 ちょっと看護師さんと話してるだけで、すぐわかってしまう。


 キスで受け取る愛は拒み続けたのかもしれないけれど、そうじゃない愛は沢山貰っていたんじゃなかろうか。まあ、あの人がそもそも明るくて優しくて、ちゃんと愛される人だからって言うのもあるんだろうけど。


 でも、それがちょっと嬉しいのはなんでだろうね。私のことじゃないのにね。


 くすっと笑って、案内された病室のドアを開けた。


 そしたら、水色の患者衣を着たましろさんが、なんでか半泣きになって、こっちを見ていた。


 「あ、あ、このかちゃん!! 聞いてよ!! さっき検血でいっぱい腕に針刺されたのに、今度はさらに注射するって言うんだよ!! おかしいよこんなの!!」


 「はーい、点滴用の針指すだけですからねー、血を抜くとすぐ倒れちゃうんですから大人しく刺されててくださーい」


 「や、や、やだぁ!! もう一杯針刺さったじゃないですかあ!! しかも血管の位置わかんないって言って一杯刺すし! だから病院来るの嫌だったのにぃ!!」


 「残念ながら今日はいつものベテランの方が休みなんで我慢してくださいねー。ていうか、それもこれもましろさんが昨日急に、しかも夜中に予約いれるからですよー? あと必要な検診が溜まってるのも、ましろさんが二年間サボったからですよー?」


 「うわぁぁぁぁ、このかちゃん! 看護師さんが正論で!! 正論で殴ってくるよぉ!!」


 うーん、27歳児が必死に担当の看護師さんに抗いながら、私に涙目を向けている。


 あははと軽く笑いながら、隣の看護師さんを見てみると、どことなく微笑ましそうに笑ってた。やっぱ愛されてるよね、この人は。


 軽く笑ってから、そっとましろさんの隣に移動して、置いてあった椅子に腰かける。


 うーん、近くで見ると、泣き顔がより鮮明でいらっしゃる。かわいいっすねと言ったら、もっと泣きそうだな。


 まあ、それも面白そうではあるけれど。


 それはまた今度にしよう。


 「ねえ看護師さん、ましろさん今、血を抜いて栄養足りてないんっすよね? だから点滴するんすよね?」


 「そーなんですー、雪女って血圧も低くてねー、もっと食べろって言ってるんですけどー」


 「お腹ぐるぐるするから、そんなに食べれないって言ってるじゃないですか! そもそも私、うちの家族じゃまだ食べてる方だし―――」


 「なるほど、じゃ、栄養補給できればいいんすね?」


 「そう、だけど……?」


 「…………ん? このかちゃん?」


 涙目のましろさんが、不思議そうに私を見上げる。


 不意打ちでやってもいいけれど、それは前にしたしなあ。


 今回はあえてちょっとわからせてからやってみよう。


 鼻がくっつきそうな距離で、潤んだ瞳をじっと見つめる。


 また不思議そうにましろさんは首を傾げる。


 うーん、気付くかな。


 じっと見つめる。


 じっと。


 息が触れあいそうな距離で。


 じっと。


 段々とあなたの顔が赤くなっていくのを眺めながら。


 じっと。



 その唇を。




 あ。




 気づいた。



 



 それをちゃんと確認してから、そっと指であなたの冷たい首筋を絡めとる。



 自然に、無理矢理じゃないように、優しく、でも明確に私の意思をこめて。



 今からキスしますよ、ってわからせる。



 はっとあなたの眼が見開かれて、赤かった頬がさらに真っ赤になるのを確認してから。



 そっと、その唇を優しく塞いだ。



 ゆっくりと、唇が重なる部分が少しずつ、広がっていくのを感じとれるくらいゆっくりと。



 唇の先端が触れあって。



 真ん中が触れあって。



 隅の方が重なるまで、ゆっくりと。



 今ここにあることを、ただ確かめるみたいに。



 だって先のことなんてわからないし。



 約束の一か月後、どうなっているのかすらわからない。



 だから今、隣にいることを確かめる、そのために。



 ゆっくりと、あなたの唇と私の唇を優しく重ねた。



 愛は私には難しいっす。



 想いはそんなに自信ないっす。



 でもまあ、今隣にいることくらいは、出来るかなって思うんで。



 そういう所から、ちょっとずつやっていこうと想うんす。



 想いの種は、どこかの誰かが言うにはちゃんと胸の中にあるらしいんで。



 そういうのが上手く育てばいいなって、想いながらこうやって水をやるんっすよ。



 「ね、ましろさん?」



 名残惜しむようにゆっくりと唇を離してから、笑いかけてそう聞いた。



 あなたの顔は真っ赤を通り越して、もう茹でだこみたいになってるけれど。



 ま、栄養補給は多分できたんじゃないんっすか。



 堕とし具合はどうでしょう、あと二回でなんとかなるといいんすけれど。



 そっと撫でたあなたの首筋が温かいから、うん、とりあえず目的は成功したようで。



 「ちょっとは、元気でました?」



 そうやって問うと、あなたははっとして、我に返ったように頬に手を当てて熱さを確認しているようだ。




 「でた……けど」



 「そうですか、何よりですわ」



 「…………こーいうの、もう病院でしちゃダメだよ?」



 「ははは、そういや前も人前でしたもんね、すんません」



 「いや、そうじゃなくて…………」



 真っ赤に染まったあなたの顔は、見ていて面白いけれど、どことなくちょっと困惑に満ちたものになっていて。


 あれ? なんか想像してた反応とちょっと違うかも?


 はてと首を傾げていると、ましろさんがおそるおそるといった感じに看護師さんの方を振り向いた。


 私もそれに倣って、さっきまで点滴の針を刺そうとしてた看護師さんに目を向けると―――。



 「検温、検温準備ー。あと先生に連絡。先生の大好きな臨床サンプルですよーって」


 「はーい、先生いまこっちに向かってまーす。医者の癖に廊下全力で走んないでって誰か言ってー?」


 「え、MRIさっき撮りましたよ? もっかい回す? 経過前後で比較がしたい? CTも? はいはい、ちょっと連絡しますね、もしもーし」


 「採血サンプル追加でいるかな。血中のホルモンバランスとか調べて、まふゆちゃんやお母さんのデータと比較とって。あ、脳波もいるかも、あとはあとは――」


 「ましろちゃん、それとパートナーさん、もっかい! もっかいいける?! できればしてるあいだの体温変化の記録つけたくて!」


 「このか―――!! でかした!! 記録、ほら記録急いで!!」


 「もうしてまーす。それにしても先生くるのはっや、まじで走ってきたでしょ、あんた」


 「え、35.8? ……35.9。36.0……36.1……36.2。


 うっそまだ上がってる……?


 このかちゃん恐ろしい子……」


 なんか気づいたら、周りはてんやわんやになっていた。


 ちらっと横目で見ると、ましろさんは困ったように赤く染まった頬をかきながら苦笑いを浮かべてた。


 「……こういうことになるからね?」


 「……らじゃっす」


 なるほど、確かに病院でキスするのは控えた方がいいらしい。


 その後はもう、ましろさんともどもありとあらゆるデータをひん剥かれて取られることになってしまった。気分は二人して実験室のモルモットのよう。


 二人揃ってたははと笑いながら、その日は結局、検査だらけで最後にはへろへろになった。おかげで帰りにファミレスでご飯食べるくらいしかできなかった。


 四回しかない貴重なデートのうちの一回だったんすけどねえ……。


 …………まあ、満更無駄でもなかったのでよしということにしときましょう。


 帰り道の途中、まだ少しほんの紅いあなたの頬を見ながら、そんなことを考えた。


 すっかり暗くなった夜に、吹く秋風は少しだけ肌寒い。


 だからちょっと手を伸ばしたら、ましろさんはちょっとだけ迷った後、ぎゅっと手を握ってくれた。


 秋も深まって少し虫の音が遠くで響く、そんな静かな夜の中を二人でこっそり歩いてた。


 ほんのりとあたたかいあなたの指の感覚を、そっとなぞりながら。



 今この瞬間に、隣にいたい気持ちだけをひっそりと噛み締めていた。

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