二口目 このか―⑤

 「うん―――それでいいと想うよ、私は」


 そう言うと、男だか女だかわからない医者は、どこか気の抜けたような笑みで笑っていた。


 さっきまで、私を見定めるように細められていた視線は、気づけばどこかに消えていて。


 まるで安心したとでも言うように、肩をすとんと下ろして私を見ていた。


 「……どーいう意味っすか?」


 「言葉通りだよ、含みも比喩も何にもなし。それでいいと言っているんだ」


 そう言ってから、医者は少し手を空中で遊ばせてから、胸ポケットから棒付きの飴を取り出して口に咥えた。どっかで見たことあるなと想ったら、喫煙者がタバコを探す時のそれだ。


 「それでいい? 愛も何もなくても……?」


 それがないとダメっていう話じゃなかったのか。


 そう想って首を傾げるけど、返ってくるのは気の抜けた笑顔ばかり。


 「うーん、どっちかっていうと、……『愛してるから大丈夫』なんて言ったら蹴り飛ばすために聞いたからね」


 ……ますます訳のわかんないことを言う。


 私のそんな疑問を察してか、医者は軽く首を横に振って言葉を続けた。


 「仮にあと三十年、君とましろに時間があるとして、その間、まったく想いが変わらないなんていえるかい?」


 一つ、一つ、言葉の響きを確かめるみたいにゆっくりと。


 「考えてみて欲しいんだが、一年前の君は、今の君の気持ちを予想できたかい? 一月先だって、怪しいものだろう? 心がどう変わるかなんて、誰にだってわからないものさ、結果論でしか語れない」


 一年前の私は、一体、何を考えていただろうか。そうやって想い出すことすら、うまくできそうになかった。


 「だから愛とか想いとか言っちゃう人には、少しお灸をすえることにしてるんだ。なにせ科学的に言えば、恋愛状態ってのは、脳の一過性の症状に過ぎない。大体、持って三年だ。興味があったらこの国の離婚率でも調べてみればいい、愛の耐久値が現実的な確率で認識できるよ」


 医者は指先で器用に飴を転がしながら、少し寂しそうに表情を陰らせた。


 「だから、君たちパートナーがずっと雪女かのじょたちを愛せるかなんて誰にもわからない。分からない以上、医者としてできることは一つ、


 「逃げ道……ですか?」


 私の問いに医者はゆっくりと頷いた。


 「もし想いが変わってしまった時、もし愛が続けられなくなってしまった時、君たちがちゃんと彼女たちのそばを離れられるようにしておく」


 「そもそも考えてみて欲しいんだけどね、パートナーから寿命を受け取って延命する……なんていうのは、正直医者から見れば、とても病気が治せてるとは言えない状態なんだ」


 「例えるなら、癌で余命いくばくもない患者から、腫瘍を半分切り出して、他人に埋め込んでるのと変わらない。致命的な問題をただ二つに分割して軽くなったように見せてるだけだ。一人の病人が二人の病人になっただけ、本質的な問題は何も解決していない」


 「扱い的にもね、私は雪女症候群の患者の主治医であると同時に、君たちパートナーに対する主治医にもなる。指定難病の高リスク患者という扱いになるかな」


 「つまり君は末期癌の腫瘍を、今から手術して身体に植え込むようなリスクを抱えることになる。そんな苦行を愛だけを頼りにして、独りで挑ませることなんてできないだろう?」


 「なにせずっと一緒に居れば30年、それだけの時間があれば、きっとたくさんのことができるんだから。きっと苦しいよ、死ぬほどね。彼女を憎むことすらあるかもしれない。その果てに愛が上手く抱けなくなったり、自分の時間を惜しんでしまうことを、一体誰が咎められる? それはとても自然な心の動きだ」



 「だから一つ覚えておきなさい。


 ―――



 「自分の人生を惜しむことは恥じゃない。他人より自分の人生を優先することは何も間違えてなどいない。想いや愛が変わってしまうことも、何もおかしいことじゃない」


 「残された雪女かのじょたちの人生を心配するなというのも、難しいかもしれないが、それはどこまでいっても彼女たちの人生だ。君が全てを背負う必要はどこにもない。残りの人生をどう生きるかどう伸ばしていくかは、彼女たちと医療従事者わたしたちが解決するべき問題だ」


 「パートナーの中には本当に責任感だけで、自分の苦しみを蔑ろにして、そばに居ようとする者も沢山いる。そして、そういう気持ちを、彼女たちは敏感に察してしまう。愛を受け取る生き物だから、愛の多寡をどうしても感覚でわかってしまうのかもしれないね」


 「得てしてそういう関係に陥ると、彼女たちは自ら身を引いていく。お伽話の雪女が、愛する人のそばからふとした瞬間にいなくなるのも、もしかしたら、そういうことなのかもしれない」


 「まあ、気休めに近い話をするが、色々と私達も手は打っているんだ。粘膜接触を介せずに他人から愛を受け取る方法ないのかとか。より多くの人から少しずつ、愛を受信するシステムを構築できないかとか、薬物や食事運動面から、雪女の体質を改善できないかとか、色々ね。それにさっきのサンプルの話も、もう結構昔の話でね、現代医療や栄養環境の改善を考えれば、雪女も自然に寿命を延ばせるかもしれない」


 「ま、そういう色々をちゃんと検討したかったのに、どこかの馬鹿は二年も顔を出さなかったわけなんだが…………」


 「だから、まあ、私は君の今の考えでいいと想うよ」


 「たまたま今、手を伸ばせる。だからたまたま今、手を握ってる。それでいいさ、離したくなったら離していい。高名な心理学者曰く、人生は時折重なる線路のようなものだそうだ。交わり、離れ、並行し、それをただ繰り返していく。それが自然だ。だから君が隣にいたいと想える間だけ、隣にいてやってくれればそれでいい」


 「ただ、一つ個人的な礼を言うのなら」


 「ありがとう、あの子の手を握ってくれて」


 「誰かの手を取ることすら、拒んでいたあの子の手を握ってくれて」


 「ありがとう」




 「私はそれだけで、もう、充分だ」




 そう言って笑った医者の顔には、寂しさと優しさが同居した、不思議な笑みが浮かんでいた。



 そこにある想いは正直、ちゃんとはわからない。わからないけれど。



 私に告げられた想いの大切さだけは、なんとなくわかった気がした。

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