プロローグ ましろとこのか

 お父さんとお母さんは、毎日のようにキスをしていた。


 子どもの頃、私はそれに無邪気に憧れて、そんな私を妹はどこか冷めた目で眺めていた。


 好きな人と、心を重ねる、そんな証。


 愛を確かめる、そんな儀式。


 そして14歳になった頃に、私はそのやりとりの真実を知ってしまった。


 私が憧れた愛の象徴は、愛する人からその命を奪う行為だった。


 あの時の、感覚を―――足元から自分の信じていたものが全部なくなってしまうようなあの感覚を。


 私はきっと死ぬまで忘れられそうにない。





 ※




 「え……っとね、だから私、本当に『雪女』だから……」


 「私とキスすると、命が吸われちゃうの……。多分、ちょっとこのかちゃんの寿命を貰ってて、だから今日、私凄い元気なわけで…………」


 「だから……その……えと、ごめんなさい! 謝って許されるようなことじゃないけど、その幾らでも出すから。お金が必要なら何でも言って、出来る限りのことはするから! それでこのかちゃんの失われた命に贖えるわけじゃないけど、絶対なんでもするから!!」


 しどろもどろになりながら、ほぼ泣きながら、そう言っている自分が情けなくて死にそうだった。だって、だって、こんなことになるなんて想ってなくて。


 うう……こんなことなら、雪女だとか、寿命がないとか口走らなければよかった。ずっと言い続けて狼少年みたいになってたから、もう誰も信じてないと想って、ほいほい言っていたのがよくなかった。


 ああ、ああ、ああ。ほんとに死にたい、人生の最後の最後にこんなことしでかしちゃって。私ってほんとダメなんだよねえ、いっつも要領悪いし、失敗してばっかりだし。雪女なんて制約なくても、もともと恋人なんてできっこなかったんだ、きっと。


 なんか考えてたら、悲しくて笑えてくるけれど、今は自暴自棄になってる場合じゃない。ほんとに辛いのはこのかちゃんなんだから、ちょっとでも私は彼女に罪を贖わないといけないんだ。


 ただ、このかちゃんはしばらく私と同じ土下座の姿勢で固まったまま、うーんと首を横に捻った。……あ、これはもしかして信じられてない? 狼少年化してたツケがここでも来てる?


 しばらくこのかちゃんは唸ってから、うんと強くうなずいて、それから、ゆっくりと厳かに口を開いた。


 「とりあえず……一旦、ごはんでも食べませんか?」


 彼女は少しお腹をさすって、そう言った。


 私は涙で滲む視界のままにスマホを取り出して、頷いた。


 「フレンチとかの高級レストランって朝やってるのかなぁ…………」


 とりあえず、朝食から詫びを入れないと、予約って今からとれるのかなあ……。


 「あの、ましろさん、普通のご飯でいいです。まじで、普通のやつ……聞いてます!? てか予約の電話かけなくていいですよ?!」


 慌てたこのかちゃんに説得されて、本当に普通の朝食を出すのに、おおよそ1時間くらいかかったりした。




 ※



 

 「うみゃうみゃ。……しかし、雪女……ですか」


 そう口にしてから、ましろさんが出してくれたホットケーキを口にする。うむ甘くてふわふわでとても美味しい。自分で作るとべちゃっとするから、ホットケーキ上手に作れる人は尊敬しちゃうなあ。


 ただ、当のましろさんはどことなく不安そうな表情で、私のことを窺っている。まあ、結構突拍子ないもんねえ、言う側も不安になるか。


 「うーん信じてないわけじゃないんですけど。なんか、信じられそうな、根拠とかってあったりします? ないならないでいいんですけど」


 そんな私の言葉に、ましろさんはえーっとって考えながら鞄を漁ってる。ただ程なくして、スマホと何やら形式ばった書類が私たちが囲む食卓の上に並べられた。


 「これ……何年も前から付けてる体温管理アプリかな。……ほら、ずっと低いでしょ、私平均体温28度くらいなの。今はこのかちゃんから貰っちゃったから、かなり上がってるけど」


 言われるままにみて、うんむと頷く、確かにずっと私のよりかなり低い体温が刻まれている、日付は何年も前から連なってるから。これを嘘で作ってるとはちょっと考えにくい。


 それから、少し古めの書類は、どうにも診断書のようで難しい文字が羅列されている。首をかしげていると、ましろさんが注ぎ足すように解説してくれた。


 「あと、これ指定難病の診断書。雪女って言うけれど、医学的には『恒常的低体温症』って名前なんだ。ずっと体温が低くて、そのせいで寿命が短い病気ってことかな。し、心配なら病院に電話で確認してもらってもいいし! ちゃんと実在する病院の、実在する先生だから!」


 別にそこまで疑ってはいないんだけれど、ましろさんは念を押すようにそう教えてくれた。一応、ちらっとスマホで調べてみたけれど、確かに実在する病院だった。結構大きい大学病院っぽい感じ。それにしてもホットケーキ美味しいなあ。


 「なるほろ、……体温が低い病気かあ……大変ですね」


 「し、信じてくれるの?」


 「まあ、ましろさんの身体が異様に冷たいのは、昨日、身をもって知ったので」


 そう言って昨日、ましろさんの首筋や肩に触れたあの時の体温を想い出す。そりゃあ普通の人と触った時じゃくらべものにもならないくらい、冷たいわけだ。


 ふと思い立って、なんとなく、指をましろさんに伸ばしてみると、おずおずと指先を私の指に重ねてくれた。今はまあ、少し冷たいくらいの体温でしかない。これが私のキスのおかげってことらしいんだから、なかなかに不思議な話だ。


 「それで、キスとかの話はどんな感じなんですか?」


 私の問いに、ましろさんは少し慌てたように、言葉を探してた。


 「え、っとね、こっちは科学的根拠とか全然ないんだけれど、私たちは他人から『愛』を貰うことで、寿命を延ばすことが出来て……」


 口にしてるましろさんの頬は少し紅い。肌がまっしろだから、赤さがよくわかるのかな。なんてことをぼんやりと考える。


 「それの一番、手っ取り早くて、効率的な手段が……その……」


 「キス」


 「…………なんです」


 少しどもった彼女の言葉に、相槌を打つみたいに言葉を投げた。


 しかし、キスに、愛に、命ときたか。さっきまで低体温症とか言ってたのに、一気にファンタジーになってきた。私、実感できないものは、あんまり信じない主義なんだよなあ……。


 「でも、愛を貰う時に、多かれ少なかれその人の命をすり減らしちゃうみたいなんだ。多分、雪女の寿命が延びる分、少しだけ寿命が減っちゃってるんだと思う。……だからこのかちゃんも、少しだけ私のせいで寿命……減っちゃったかもしれないんだ」


 そういうましろさんは、本当に申し訳なさそうというか、そのまま陽に当てられた雪だるまみたいに溶けて無くなりそうだった。私の命……というか寿命に随分と責任を感じてくれているらしい。


 ……うーん、それにしても命かあ。正直イメージはさっぱりできない、


 「…………なるほど、ちなみに一回のキスで寿命何年とかあるんですか?」


 私の問いにましろさんはえーと言葉を零しながら、何かを辿るように返事をしてくれた。


 「え、えと。一回のキスだと、何年もはないかな。多分何日かそこらくらい? あんまり根拠はないんだけど、何十年も一緒に居て、毎日キスし続けるとちょっとずつ短くなっていくっていうイメージだと……想う」


 うーん、なんだ想ったより安いな。一回のキスで十年くらいとられる覚悟はしてたのに。


 ていうか、うん十年後の今際の際の命が数日減ったなんて、直感できる人いったいどれくらいいるんだろう。私としては、今日は言われてみればちょっと体温低いかなくらいの感覚しかないわけで。


 正直、そんなことより、あれだけ冷たかったましろさんの体温が、今日普通になっていることの方がよっぽど驚きだった。


 ただ、ましろさんの方はそうは想えてないようで。今にも萎んで消えて無くなりそうな顔をしている。



 さて、どうしたもんかなあ……。



 ましろさんは私に対して、なんだかえらく罪悪感を感じてくれているらしい。


 私としては、どう考えても私の方から性的に襲っているので、そこを詰められると思っていたわけなんだけど。


 どうにもそういう雰囲気じゃなさそうだ。どころか、私が一言「慰謝料」とでもいえば、全財産の半分くらいなら普通に出してきそうな顔してる。


 柔らかあまあまホットケーキを、カフェオレで流し込みながら、うーんともうひとうなりしてみる。


 別に、数日の命とか、私は正直どうでもいい。


 いや、別にどうでもいいは言い過ぎかもしれんけど、そこまで必死に想ってはいないかな。


 そんな命の瀬戸際まで生きてるかもわからんし、その前に病気や事故で死ぬ可能性も全然だ。今のご時世、その数日が未来の技術で伸びましたなんてオチも全然あり得る。


 だから、聞き捨てならなかったのはそこじゃない。



 『雪女は愛を貰うことで寿命を延ばす』



 そして、ましろさんは、多分それをしてないってことは―――。



 「……ねえ、ましろさん、27歳ってもしかして、誰からも愛を貰わなかった場合の寿命ってことですか?」


 私の問いに、あなたは少し黙った後、ゆっくりとうなずいた。


 ……まあ、やっぱりそうだよねえ。


 そしてましろさんに恋人がいないのは実は、酔っぱらってる時に一度、話題に上がったから確認済み。


 そうでなくても、たった一回のキスでこんなに謝ってたんじゃ、心置きなく日常的にキスする人なんていやしないだろう。


「今まで、恋人は作らなかったんですか? ほらせめて、キスだけしてくれる人でも」


 そうやって聞いたらましろさんは、ちょっと悲しそうな顔をして首を横に振った。


 「ううん、私が作らないって決めてたから。他の人の命、まして好きになってくれた人の命を吸って寿命を延ばすことを……私はしたくなかったから」


 そうやって、答えるあなたの顔は、少し寂しそうだけどそれでも小さな決意に満ちていた。なるほどなあ。


 誰かの命を吸うくらいなら、自分は27歳で終わってもいいってことか。


 …………まあ、ましろさんの人生なんだから、私がとやかく言うことじゃない。


 言うことではないけれど。


 ちょっと寂しい気はするかなあ。


 だって、本当に今年中に、ましろさんはあのバーにこなくなるのかもしれない。


 誰からも命を吸わないことを決意して、独りでその命を終えていく。


 数日くらい、誰かからちょっとずつ貰えばいいのに、それすらせずに一人で冷たい身体を抱えて死んでいく。


 それを私は、きっとあの人がふとした瞬間にバーに来なくなったとき、想い知るんだろう。


 それできっと、ピアノを見るたびに想い出すんだ。


 もしも、あの時―――なんて。



 ……。



 ………………。



 ………………………………。




 いやだな、それ。




 まあ、話を聞いてる途中から、なんとなく自分の結論は出てた気がするけれど。




 ましろさんの決断は、そうは言っても立派なものだよね。自分が生きたいっていう欲望を差しおいて、誰かの命を重んじてるんだから。



 そんなこと普通出来ないし、尊重されるべきものだ。間違いなく。



 だって、他でもないこの人の人生なんだから。



 ただ―――それは私の決断にだって同じことが言えるだよねえ。



 ホットケーキを、食べ終えてゆっくりと手を合わせた。



 「非常においしかったです、ごちそうさまでした。ところでましろさん―――」



 「な、なにかな……?」



 ましろさんはどことなく緊張した面持ちで、私のことをじっと見ていた。



 罪悪感につけ込むようで悪いけど、ダメもとで一つ聞いてみる。



 「それだけ、申し訳なく想っているのなら、私のお願い一つ聞いてもらっていいですか?」



 私がそう言うと、ましろさんはどことなく緊張した面持ちで、でもどこか決意に満ちた目をしながら、背筋をピンと伸ばして私を見た。



 「な、なにかな?! なんでも言って! 私がかなえられることなら、なんでもするから!」



 なんでも……ねえ。そういう大事な約束は、そう安請け合いするべきじゃないと想うけど。



 でも、まあいいか。



 これはただましろさんのわがままに、私のわがままをぶつけるだけのものだから。



 この想いは、きっと愛とは程遠い。自己満足に近い何かだけれど。



 私、実感できない物はあんまり信じない主義だから。



 目的は単純だ。この常連さんが、たまに弾いてくれるピアノを、私がまだ聞いていたい。要するに、そんだけ。



 たったそれだけの実感を得るために、あなたに一つお願いをする。




 「じゃあ、ましろさんに




 そんな私の我がままに、あなたはただ茫然としたまま口を開いていた。



 愛とか命とかは見えないからよくわかんない、実感なんて出来もしない。



 でもましろさんがいなくなるかどうかは、どうしようもないほど実感できるから。



 私は私の決断をするだけだ。



 他の誰でもない私のために。

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