プロローグ このか―②
閉店間際、欠伸をしながら、お店の片づけを進めてく。
お客さんは大半帰って、残った人も会計の準備をしてるだけ。お店はすっかりしずかになって、ピアノはどことなく寂しそうに蓋が閉められている。
もう少しで閉店だなーって、しんみりとどことなくお祭りが終わった後のような寂しさを感じてた。
それから私は一通り作業が終わったのを確認して、一息入れてからピアノの方に向き直る。
「ましろさーん、起きてくださーい、もう店閉めますよー」
そして、ピアノに突っ伏して、いつのまにやら眠っているましろさんにそう声をかける。一応、寝ながら吐いてないかだけ確認して、その肩にふと触れる。
違和感。
普段、ましろさん厚着してるから気づかなかったけど、肩口から覗く首の部分に偶然、私の指が触れた時。
なんだか異様に冷たかった。
あれ、なんかおかしくない?
お酒が抜けて身体が冷えてるとか、毛布も掛けずに寝てるからとか、そういう感じの冷たさじゃない。
シンクを流れる水道に指を晒してるみたいな、なんだか底知れない、そんな冷たさ。
ぶわっと全身から嫌な汗が噴き出して、慌ててましろさんの首に手を当てて、口元を確認する。
息……してるよね? 脈……あるよね?
大慌てで、どことなく雪みたいに透明なましろさんの顔を見るけど、口元からはすーすーと普通の音がしてる。触った首の奥には、確かにとくんとくんと振動もちゃんと鳴っていた。
「こっわ……」
急性アルコール中毒とかで倒れちゃったのかと思った。明日寿命だとか言ってたし、冗談にしては笑えない。
ただまあ、何はともあれ大丈夫そうなので、ぺしぺしと頬を叩いてみる。
「おーきてくださーい、まーしーろーさーん」
程なくしてましろさんの穏やかな寝顔が、段々ともにゅもにゅしてくる。
「む……にゃぅ…………おうち?」
「今からそのお家に帰るんですよ。ほらー自分の足で立ってー、ダメならタクシー呼びますけど?」
「うにゅにゅ……だれかわーぷそうちをかいはつしてくへ……」
しばらくそうやって、むずるましろさんの相手をしてみたけど、ダメそうだ。精神年齢がちっちゃい子どもまで退行しとる。
なので店長に目配せして、タクシーを呼んでもらう。私は仕方ないなあって想いながら、ましろさんの腕の下に身体を潜り込ませて、よっこらせっと立ち上がらせた。
私がでかいのもあるけど、ましろさんは身体ちっちゃいから、運びやすいのが不幸中の幸い。
「あー、このかちゃーん、いわってー、たんじょーび」
「はいはい、はっぴーばーすでー、ましろさーん。誕生日だからってはしゃいじゃダメですよー」
言いながら、私は店用の端末をポケットから抜いて、肩にましろさんをぶら下げたままレジの奥に入れといた自分のポーチバックを肩にかけた。
「てんちょー、私このまま上がって、ましろさん送ってきまーす」
そう言うと店長はカウンターの奥からひらひらと手を無言で振ってきた。私よりさらにがたいのいいおっさんなんだけど、行動が微妙に可愛い。
「さ、帰りますよ、ましろさーん」
「ふふ、たんじょうびー、ふふふ、このかちゃんといっしょー」
「はいはい、このかちゃん一緒ですよ。じゃ、お疲れ様でしたー」
そう言って、バイト先のバーを出て、しばらく待ったら店長が呼んでくれたタクシーに乗り込んだ。それから、店長から教えてもらったましろさんの住所を運転手に告げる。
それにしても、店長が住所を控えてるってことは、こういう事態がそこそこあった人なんだろう。私は半年前に入ったぺーぺーだからわかんないけど、結構あれなお客さんかも。
「うう、ごめんねえ、このかちゃん」
しかも、さっきまで幼児化してたと想えば急にしおらしくなるし。
「ま、いいんじゃないですか。明日、お誕生日なんでしょ。これくらいはサービスしますよ」
「んー、やさし! このかちゃんすきー!」
「はいはい、ビジネス優しさだから信頼しちゃだめですよー」
なんて言いながら、タクシーの中で抱き着いてくるましろさんをそっと引き剥がす。
ただ、そうしている間に、時々触れるましろさんの手や指は、相変わらず冷水にでも触れたみたいに冷たかった。
さむがる様子もないし、これが普通ってことなのか……?
まあ、それはそれとして、公私混同もよくないし、家の玄関まで送ったら帰っちゃお。
なんて想ってはいたんだけれど……。
タクシーを降りた瞬間に、よっぱらいの腰は無惨に二足歩行を諦めていた。
そうやって、まともに立てないましろさんを見兼ねて、結局、部屋の中まで入ってしまった。
女の人の一人暮らしにしてはちょっと広いアパートの一室。そこのましろさんのベッドのところまで家主を送り届ける。
気分はこのか宅配サービス、今日の荷物は酔っ払いの女性お一人様。ベッドまでの配送です。送料は代引きしときたい。
「むふー」
と満足げにベッドに寝転がるましろさんを見て、一息つく。
すぐ帰ろうかとも想ったけれど、ちょっとましろさんの運搬に手間取ったのと眠気もあって、すぐには動けそうになかった。ちょっと一息ついてから、うちに帰ろう。
なんて想っていたら、ましろさんはちょいちょい私を手招きしてくる。なんですかって寄って言ったら、手を伸ばしてきたのでそっと握る。相変わらず手は酷く冷たい。
「これであってます?」
そう聞くと、ましろさんは満足そうににんまり笑った。どうやらご要望に応えられたらしい。とんだ時間外労働になったけど、意外と気分は悪くない。
なんでだろ、ましろさんが子どもみたいで可愛いからか、想ってたより私がこの人のピアノが好きだからか、それかなんやかんや誕生日だから甘くなっているのか。
わかんないけど、悪い気もしないからまあいいや、と思うことにする。
そうやって、ましろさんと指を絡ませて遊んでいるけど、相変わらずましろさんの身体は、冷水がかかったみたいに冷たかった。
その異様さのせいなのか、ずっとそうしていると、少しおかしな気分になってくる。まるでこのやり取りがどこか夢の中のような。意外と、雪女ってのあながち嘘じゃないのかもなんて思ってみたりして。
だから、それとなく聞いてみることにした。
「体温ひくいですね、雪女だからですか?」
そしたらましろさんは、ちょっとだけ寂しそうに笑って頷いた。
「うん、そうなんだ。……って、信じたの? このかちゃん」
軽く笑うましろさんは、ちょっと意外そうに首を傾げる。でも目がどことなくとろんとしてるから、眠いのは眠いんだろう。
「ま、誕生日ですしね」
「まじかあ、凄いね誕生日ぱわー」
「そーですね、あ、日付回ってますよ。おめでとーございます」
「にじゅーななさーい! いえー!」
そういうましろさんは私の手を握ったまま諸手あげる。なんだか一緒にばんざいをしてるみたいだ。軽く笑って、そんな寝ぼけ酔っぱらいにじゅうななさい雪女さんの様子を眺める。
「それで寿命は今年までですか?」
「うんー、そーなの、私、多分、今年中で死んじゃうんだ」
冗談だ、そんなわけあるもんか。そう、軽く笑って聞いていた。
「そりゃあ大変、最後の一年は何するんですか?」
私の問いにましろさんは、笑って眠さに瞼を塞がれながら指折りして何かを数え始める。
「え、行きたいとこあるな、弾きたい曲もあるし、会いたい人もいるし、あとはあとは―――」
そうやって数える様はなんだか、明るくておふざけのようにも見えるのに。どうしてか、本当に今際の際に立っている人もそうするんじゃないかって想えてしまった。
もしかして、本当に、終わりが近い人はあえて、自分の終をこんなふうに軽く口にするんじゃないかって。
死ぬ前のおばあちゃんが、しきりに笑いながら、私はもうすぐ死ぬからねと言っていた記憶がぶり返したせいもあるのかな。
そしたら、どうしてか無性に寂しくなった。おかしいね、さっきまで冗談って笑っていたのに。
「でも全部はできないかも、明日死ぬかもしれないしなー」
……冗談で、人はこんなに淡く寂しそうな顔が出来るものなんだろうか。
ましろさんは天井をぼーっと見ながら、まるでそこに昔失くしてしまった大事な物を探すみたいに眼を細めてた。
「あと、ほんとはね、最後にキスしてみたかったかも―――」
「……キス……ですか?」
その顔に浮かんでいるのは笑顔のはずなのに、なんでか私の胸はじんわりと寂しさに染まってく。
まるで自分の恋が二度と叶わないことを知った少女のような。気付けば、そんな顔から目が離せなくなってる。
「うん、私さ好きな人作れなかったから、ほんとはちょっとしてみたかったな。一回だけでいいから、生きてるうちに一回だけでいいから、誰かを好きになって―――みたかったな」
その声が、その願いが。
なんだかあまりに寂しそうで。
その想いが、その夢が。
なんだかあまりに綺麗だったから。
魔が差した―――のだと思う。
酔っぱらってる相手の家に上がって、女の人同士なのに、相手の指向もしらないのに。
声もかけずに、了承も取らず、お互いのことなんて、ほとんど知りもしないままで。
ただ感情と想いに流されるまま。
ただ寂しさと、愛しさに押されるままに。
どうせ嘘の話なのだからと。
今日のこれも、秋の夜長に見る夢のようなものなのだからと。
誰にしてるのか分からない、そんな言い訳をして。
ゆっくりと瞼をおろすましろさんの、その唇に。
そっと自分の唇を重ねてた。
街も静まり返るころ、草の根の奥で虫がただ鳴いてる頃。
誰にも知られない、二人きりの部屋でひっそりと。
眠り行くあなたに向けて、おやすみの口づけをそっとしたんだ。
小さな街の、夜の隅っこで。
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