第三編

裏切り家庭教師にざまぁ

 美沙みさが目の前に座っている。クラシックなビジネススーツに身を包み、遠慮がちに身をちぢこませて幾分、居心地悪そうにソファに座っている。

 ――かわってないな。

 美沙みさの姿を見て、健児けんじは思った。一〇年前、高校生だった自分といまひとり、旧友の藤村ふじむら才人さいとの家庭教師を務めていた大学生。それが、美沙みさ

 いま、目の前にいる美沙みさもあの頃とかわらず若く、瑞々しく、美しい。けれど、あの頃の朗らかさはなくなっている。顔立ちそのものはかわらないけれど、その奥にはあの頃にはなかった疲れがにじんでいる。

 健児けんじはそのことを見逃さなかった。どうして、見逃すというのだろう。あの頃はあんなにも恋い焦がれていた相手だと言うのに。

 美沙みさは座ったまま、困ったような表情をして黙りこんでいる。まず、なにから話していいのかわからないのだろう。なので、健児けんじから口にした。おそらくは、美沙みさの話してもらいたくないだろうこと、しかし、今日、美沙みさがやってきた用事の根幹に関わるであろうことを。

 「藤村ふじむらのことは噂で聞いているよ」

 健児けんじのその言葉に――。

 美沙みさは『ピクリ』と、身をすくませた。

 「リストラされたらしいな。しかも、なまじ高学歴なせいでプライドが邪魔をして再就職もできないまま。いまでは自棄になって、酒を飲んではギャンブルの生活だって?」

 「……ええ」

 と、美沙みさは低い声で答えた。夫の惨状をかつての恋人に知られるのはやはり、抵抗が強いのだろう。

 健児けんじ美沙みさのそんな内心を察していた。察してはいたが、あえて無視した。

 「それで? おれになんの用だ? 高卒で、田舎暮らしで、妻とふたり、家族経営の出版社を細々と営んでいるだけのおれ、負け犬人生のこのおれに」

 「負け犬なんて。そんなこと言わなくても……」

 そういう美沙みさに対し、健児けんじはここぞとばかりに嘲笑を向けた。

 「へえ。あんたがそんなことを言うなんてな。学歴にこだわったのはあんただろう」

 「それは……」

 「あんたがおれと藤村ふじむらの家庭教師をしていた頃。おれはあんたのことが好きだった。あんたもおれを受け入れてくれた。短い間だったけど、あの頃たしかに、おれたちは恋人同士だった。そうだったよな?」

 「……ええ」

 「だが、あんたはおれを捨てた。おれが結局、大学に行かず、田舎で起業する道を選んだ途端、あんたはおれから離れていった。一流大学に入った藤村ふじむらと付き合いはじめ、そのまま大会社に就職した藤村ふじむらと結婚した。そのあんたがいまさら、おれになんの用なんだ?」

 「それは……」

 「それは?」

 「才人さいとを……夫をあなたの会社で雇ってほしくて」

 「藤村ふじむらをおれの会社で?」

 「ええ。あなたの出版社は規模は小さいけど業績は堅調だって聞いているわ。たしかに、才人さいとはリストラされてから再就職にも失敗して荒れているけど……もともと、能力は確かなんだし、きっかけさえあれば立ち直れるはずよ。だから……」

 「おれに、そのきっかけになってほしいと?」

 「ええ。才人さいとも友だちだったあなたの言うことなら聞くと思うの。だから、お願い。才人さいとをあなたの会社で……」

 美沙みさは身を乗り出し、必死の表情で訴えかけた。そんな美沙みさに対し、健児けんじは冷ややかに答えた。

 「断る」

 「健児けんじくん⁉」

 「『健児けんじくん』なんて、馴れなれしい呼び方はやめてもらおう。おれたちはとっくの昔に他人なんだ。あんたがおれをすてて藤村ふじむらに走ったあのときからな。そうだろう?」

 「それは……」

 「あんたはどうか知らないが、おれは忘れてないぞ。あんたがおれを捨てたあのとき、言った言葉を」

 その言葉とともに、怒りと恨みのこもった視線を投げかけられ――。

 美沙みさは固く身をちぢこませた。両手を膝の上でギュッと握った。うつむいた顔には脂汗が流れ、怯えた視線を床に向けている。唇はきつく噛みしめられ、血がにじんでいる。

 それはすべて、いま、美沙みさが感じている怯えの強さを示していた。

 健児けんじはそんな美沙みさに対し、容赦なく言った。

 「おれは小さい頃から児童ファンタジー文学が好きだった。様々な世界を空想のなかで旅することで多くのことを学んだ。成長できた。少なくとも、おれはそう思っていた。だから、これから生まれてくる子どもたちにも多くのファンタジー世界で旅してもらいたい。そう願った。だからこそ、自分の吟味したファンタジーを子どもたちに届けられるようひとり出版社をはじめることにした。そして、あんたに言ったんだ。

 『一緒に来てほしい』

 ってな。そうさ。まだ高校生だったけど、本気のプロポーズだった。それに対して、あんたは言ったんだ。『夢ばかり見ている子どもとは結婚できない』ってな」

 「それは……」

 美沙みさは顔をあげた。必死に言い訳しようとした。しかし、健児けんじはそんな間は与えなかった。

 「言い訳はいい。あんたはたしかにそう言ったんだ。そして、一流大学に進んだ藤村ふじむらと付き合いはじめた。おれが高卒でこの田舎町にやってきて、身ひとつで出版社を育てている間、藤村ふじむらはつつがなく大学を卒業し、一流企業に就職した。そして、あんたは藤村ふじむらと結婚した。だが……」

 健児けんじは勝ち誇った視線を美沙みさに向けた。

 「いまはどうだ? あんたの言った『夢ばかり見ている子ども』は立派に出版社を経営している。稼げているわけではないが、経営は堅実だ。あんたが夫を雇ってほしいと頼みに来る程度にはな。『この本を出版してくれてありがとう』という読者からの反応ももらえている」

 「健児けんじくん……」

 「そして、大学、会社とブランドに頼って人生を渡ろうとした藤村ふじむらはリストラされて飲んだくれの暴れもの。あんたは、その男の妻。それが、あんたの選択の結果だ。あんたは学歴と結婚したんだろう。だったら、学歴に助けてもらうんだな。おれに頼るな。もう帰れ。二度と来るな。おれは自分の会社のことで精一杯なんだ」

 そして、美沙みさは帰っていった。いや、健児けんじの前から追い出された。ガックリと肩を落とし、絶望をその背に乗せて。

 その後ろ姿を気遣わしげに見送っていた妻の綾女あやめが、健児けんじに向かって心配そうに言った。

 「いいの? あの人、あなたの初恋のひとなんでしょう?」

 「ああ」

 と、健児けんじは答えた。その答えのなかにはどこをどう探しても『昔の思い出』すらつまってはいなかった。

 「だけど、もうどうでもいいことさ。かのとのことはもう『過去の思い出』ですらない。いまのおれにとって大切なのはいまのこの暮らしと、綾女あやめ。君だけだからな」

 「健児けんじ……」

 「綾女あやめ。君がいてくれたからいまのおれがある。いまのこの暮らしがある。君は起業したてで右も左もわからないおれを支えてくれた。貧乏暮らしにも文句ひとつ言わずに一緒に働いてくれた。そして、君が無名の海外児童ファンタジー作家の作品を発掘し、翻訳してくれたからこそ、おれはその作品を出版して経営を軌道に乗せることができた。すべて、君のおかげだ。感謝している。ありがとう、綾女あやめ

 「そんな。あたしはただ、あなたの情熱に惹かれて手伝っていただけで……」

 「そんな君を、おれは愛しているんだ。君だけを愛すると決めているんだ。他の女のことを気に懸けたりはしない」

 「健児けんじ……」

 そう呟く綾女あやめの前で、健児けんじは急に溌剌とした表情になった。両腕を大きくあげて、思いきり伸びをする。晴れやかなその表情には、なにかを気遣う様子などまったくなかった。

 「さあ! そんなことより、仕事に戻ろう。続編を楽しみにしている子どもたちが大勢いるんだ。子どもたちに思いきりファンタジー世界を冒険してもらいたい。その思いではじめた、ふたり出版社だ。ここで手を休めてはいられないぞ」

 「……ええ」

 そして、ふたりは手をつなぎ、よりそうように仕事場に戻った。その途中、健児けんじがふいに頬を赤らめた。気まずそうに鼻の頭などかいて見せながら呟いた。

 「それから、その……」

 「なに?」

 尋ねる綾女あやめに対し、健児けんじは頬を赤くしたまま言った。

 「……そろそろ、子どももほしいかなあって」

 言われて、綾女あやめも真っ赤になった。

 「……バカ」

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