「なんだか不思議な感じがする。修論を大学から遠く離れた実家で書いているなんて」

「それは、わたしもだよ。それに、大学から遠く離れているだけじゃなくて、しゅうの実家で書いているんだから」


 まったくの他人の家で書いているわけではなく、恋人の家で書いているということも、不思議な気持ちを生じさせている。わたしと周は、わたしに用意されていた二階の部屋に置いた紫檀したんの机を中にして、対峙たいじする形で座っている。

 恋人らしく隣どうし座っているところを、周の家族に見られたとしてもいいじゃないか。なぜわたしは、恥ずかいという気持ちに負けてしまったのだろう。こうしたためらいが積み重なっていくことで、周との関係が希薄きはくになるかもしれないのに。


かなで、ここを訳してくれる? 自信がなくて」

 周はわたしに、海外の研究者が書いた学術書を差しだしてきた。鉛筆で波線が引かれた箇所かしょの意味は、前後の文脈をとらえないと分からなかった。このことをきっかけにわたしたちは、それなりに会話を続けることができた。


 しかしそれは、大学院生どうしの耳学問となんら変わりはなくて、例えば会話のしまいにキスをするとか、そうした恋人っぽいことをしてみたいけれど、やはりどうしてもためらいが生まれてしまった。

 一度してしまえば、二度、三度なんて怖くもなんともないのだろうけれど、初めの一歩を踏み出すには、目を開いてがけから飛びおりるほどの勇気が必要だ。そしてそれに伴う結末というのは、マルバツクイズが当たるかどうかというような、単純な二択へと収斂しゅうれんされるものではないのだ。


 夕焼けが退けば、永い夜がくる。暗やみのなかには、なにがあるか分からない。そういう感じ。


     *     *     *


 お昼ごはんは、ひとりでは食べきれないほどのそうめんが用意されていた。天ぷらまでえられていた。このお惣菜の天ぷらが、わたしへの歓待かんたいの証であることは、想像にかたくない。

 いや、それはわたしの自惚うぬぼれであって、周の家ではそうめんを食べるとなると天ぷらを一緒に用意するという、ルールめいたものがあるのかもしれない。わたしの家がそうめんのときに用意するのが、麦茶だけだというだけで、ほかの家もそうだとは限らない。


 ころもがふにゃふにゃの天ぷらを、そうめんのつゆにビタビタにひたしている周を見て、びっくりした。と同時に、愛らしく思ってしまった。またもや、周にたいして母性のようなものが芽生めばえた。

 というのも、その食べ方に、幼さのようなものを感じ取ったからだ。いや、だけど、天ぷらになにもつけずに食べることに、優越感めいたものを覚えるのは、それはそれで恥ずかしいことなのかもしれない。


 もしかしたら、周の母がわたしに心を開いてくれないのは、この家への偏見というか、オリエンタリズムというか、わたしの意識していない傲慢ごうまんさのようなものを看取かんしゅしているからではないのか。

 わたしは彼女を憎むより先に、哀れむべき自分を発掘するべきなのだ。


「おいしいですね、この天ぷら」

「それ、パート先でわたしが揚げてるやつなのよ」

「おいしいです」

「ならよかった」


 わたしの「おいしいです」という言葉に対して、さして嫌味を差しはさんでこなかったところを見ると、もしかしたら、毎日「おもてなし」ができないことを、わたしが暗に責めてくるだろうという予想が外れてしまったことに、不満を感じているのかもしれない、などとうたぐってしまう。


「クーラーをつけるね」

 周は朝刊の下からリモコンを抜き取り、冷房をいれた。「クーラーをつける?」とわたしにたずねてこないところが、周のいいところだと思った。無自覚かどうかなんて、どうだっていい。返答にきゅうするようなことを言わないのは、わたしにとって、とってもありがたいことなのだ。

 暑くてたまらないというわけではないけれど、冷房をつけてくれることを望んでいたのは確かなのだから。


 周の母が洗濯物をほしに裏庭の方に行ったすきに、自分の分のそうめんを少しだけ周に分けた。

「やっぱり、奏にはこんなに食べられないよね」

「ごめんね、せっかく作ってもらったのに」

「いいんだよ、ぜんぜん。母さんも気にしないさ。イヤだから食べないってわけじゃないんだし。おいしいって言って食べてくれてるんだから、きっと嬉しいよ」


 いまなら、自分のはしでつまんだ天ぷらを、周の口のなかに運んであげられるような気がした。それくらい、自然なことじゃないか。恋人どうしなら。だけど、どうしても勇気を出すことができない。なぜなのかは、分かりそうで分からない。

 敵に撃たれてダウンしている周のアバターを、快復させることはできるのに、アバターではない周と、密な接触ができないでいるわたしは、いったい、どのような存在として周に映っているのだろう。そんなことも、いまは考えてしまう。


     *     *     *


 隣の家から「雨やでー!」という大声が、不意打ちの空砲のように上がると、周は掛時計かけどけいを一度見てから、「洗濯物を取り込んでくる!」と言い残して、階段を降りていった。

 ひとり見て見ぬふりをしてしまえば、自分は完全な客人であるのだという自覚を養ってしまう。そう思い、とりあえずわたしも、階段を降りることにした。


 周の祖母が両手いっぱいに服を持って、台所に上がろうとしているのが見えた。わたしはすっかり乾いたその服を受けとり、隣の居間へと持っていった。続いてその後ろから、山盛りの服を両手で抱えた周がやってきた。


「もうこれだけ?」

 そういてから、恥ずかしくなってしまった。わたしは、自分が客人ではないのだと認めさせるための立ち回りをしようとするあまり、監督官のようなセリフを言ってしまったのだから。

 わたしはもちろん、一緒に洗濯物をたたむことにした。わたしより周の方が綺麗に畳んでいるように見えた。ひとり暮らしが長いからだろうか。それとも、この家の洗濯物の畳み方の伝統に、従順にのっとっているからだろうか。


「平和だなあ」

 優しい手ざわりのする、周のその声は、ひとり言と決めつけるには、小さすぎなかった。

「平和?」

 わたしは素直に、そう問いかけた。

 激しい通り雨のなかから、うっすらと、せみが聞こえてきている。


「うん、奏の洗濯物の畳み方が、ぼくには新鮮でさ」

「お母さんがやってくれてるから、慣れてないだけだと思うけど……でも、それのどこが平和なの?」

「もっと折り目を気にしたらどうかな、とか思ってしまうけど、それでも、受け入れちゃうんだ。その畳み方を。こういうところに、平和があるんだなって、ふと思ってね」

「ちょっと、分からないかも」

「だってさ、これくらいのことでも、目くじらを立てて怒っちゃうひとをたくさん見てきたから。洗濯物の畳み方でもめなくていいのは、とっても平和なことなんだよ」


 独特な感性を持っているなという気もしたけれど、それは、わたしがこの家に受け入れられる可能性があるということをも意味しているのだと感じ取ると、ちょっと満足してしまった。だけど、こういうことを「平和」と表現しているのを小薗こぞのあたりが聞いたら、きっと激怒することだろう。


「奏はどう? ぼくの畳み方は嫌い?」

「そんなことないよ。上手だと思うし、できるならそういう畳み方をしたい」

「やっぱり、平和だね」

「ほんとうに、急にどうしたの?」

「どうしたんだろう。いま感じている幸福を言い表すのに、ぴったりとくる言葉が、世界でたったひとつ、それだけだったんだ」


 通り雨はいきなり勢いをゆるめたかと思うと、朱色のなかに蒸し暑さだけが取り残されてしまった。あれだけやかましかった蝉の音も、どこか落ち着きはらったものへと変わりはじめた。


 それは、いきなりのことだったのに、すぐに受け入れることができた。

 八月八日、午後四時、二十六分。

 わたしは、ファーストキスを周にあげた。

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