しゅうとの新しい関係のなかに分け入ったとたんに、わたしはべつの焦燥しょうそうにとらわれはじめた。それは、周を手放したくないという独占欲として現れた。


 こうしてベッドに寝ている周を背中に感じていると、なんだか我慢ができなくて、ときおり寝返りを打ってしまう。だけど、そうした自分のことがなんだか恥ずかしくなって、また背中を向けてしまう。

 周との関係に依存しすぎてはならない。べつの誰かとの繋がりも持たなければならない。そうしなければ、周を自分の監視できる範囲に拘束こうそくしようとしてしまうだろう。もしそうしてしまえば、脱走への欲望が、周に芽生めばえてしまうかもしれない。


「眠れないの?」

 わたしが何度も寝返りを打っていることに気付いた周は、眠たげな声でそうたずねてきた。夕焼けの明かりにした部屋の中では、クーラーの音がやけにはっきりと聞こえている。


「周も眠れないの?」

「もう少しで寝れそうになっているんだけど、なんというか、心配でさ」

「心配?」

「実は昨日、イヤな夢を見たんだよ。ぼくが寝ているあいだに、かなでがどこかへ行ってしまうのを、ただ黙って観察している夢。それをさ、いま思いだしちゃったんだ。ねえ、奏。ちょっとだけ手をにぎってもいいかな?」

「いいよ」


 ベッドの上へと手を差し向けたとき、それを探す周の手を感じ取った。そして指の先が触れあうと、どちらともなく、決して逃さないようにと、相手の手を握りしめた。

 周はベッドのはしの方に身体を寄せて、わたしの手の負担が少ないようにしてくれた。だけど、こうした形で寝ているかぎり、手を握り合ったまま眠ることはできない。周はなぜ、わたしの真横で寝ようとしてくれないのだろう。


 わたしたちは、なぜいままで、手を繋いでいなかったのだろう。手を繋ぐというのは、恋人どうしであるということの、ひとつのしるしだ。けれど、それだけでは物足りないということに気付く。

 周の手の中で、わたしの手をもぞもぞと動かしてみた。するとほとんど自然に、周の指にわたしの指がからまった。わたしたちは初めて恋人繋ぎをした。


 たった一日のうちに、ファーストキスをして、大切なひとと手を握り合って、さらに恋人繋ぎまでして――たぶんこの日が、わたしの人生の転換点てんかんてんになるだろう。

 もし、親戚が亡くなった日に、家族が怪我をして、家が燃えたとしても、この日より一大事だとは思えないに違いない。


「安心しちゃった」

 そう言って周は手をほどき、眠たげに「おやすみ」と言った。身勝手なふるまいだと思ったけれど、このままだと、わたしの理性は押しつぶされて、その上を欲望が走り回るのは目に見えていたから、ちょっとだけ安心したのは事実だった。

 たまに恋人らしいことをしていれば、恋人どうしであるということを確認しあえる。そんな当たり前のことに気付けただけで、満ち足りる思いをしてしまう。


     *     *     *


 周がかけた目覚ましで、わたしは目を覚ました。周が起きるのにわたしが起きないのは――この部屋にひとりぼっち取り残されてしまうのは、自分が来客であるという意識を高めてしまう。


 今日はいつもより早く起きることになった。「墓経はかぎょう」というものがあるらしいから。ご先祖のお墓にお参りにいき、お坊さんにおきょうをあげてもらうのだというが、まだ涼しい早朝に行なうことになっているとのことだ。

 周たちは、近くにある共同墓地へと車で向かった。わたしはひとり留守番をすることになった。もしわたしも行くと言い出したら、それはあまりにも深い介入となり、周の家族の反発を呼び起こすことになると思ったからだ。自分は来客ではないということを、自他ともに認めさせたいという気持ちを、あまり先走らせてはいけない。


 ひとり寂しく取り残された。仕方がないから放っておいてもいいようなメッセージに返信をすることにしたのだが、小薗こぞのから届いていた「活動報告」は、既読をつけるだけにとどめておいた。相手のことなんてなにも考えない、自慰じいのようなメッセージに、反応する筋合いはないのだ。

 それにしても、添付てんぷされている写真に映っている小薗とその同志たちが、わたしと周が享受きょうじゅしたあの平和よりも、抽象的でとらえどころのない、実感がともなわない「平和」について考えているのだと思うと、もっと肩の力をぬいてみればいいのに、なんて言いたくなってしまう。


 自分の目の前に隠れている、身近な平和を見つけることから、まずは始めたほうがいい――なんてメッセージを送ってやる義理はない。


     *     *     *


 周にひざまくらをしてあげたいという願望が頭をもたげてきたのは、周が眠そうにしている様子を見てしまったからだった。もしひとりで実家にいたとしたら、好きなときに寝ていたであろう。

 しかしわたしがいるからには、そうしたことをしないと決めているらしい。それじゃダメなんだ。周は安心して、わたしのそばで寝てくれないといけない。


 わたしは周が寝ているあいだに、どこかに行ってしまわないし、ぶったり蹴ったりなんて絶対にしないし、死んでも悪口を言ったりなんかしない。わたしの前で安心して寝てほしい。周がわたしの前で無防備で寝ているところを、一番近くで見ていたい。

 だから「ひざまくらをしてあげようか?」と問いかけてみたいのだ。問いかけたとして、首を縦にふらないかもしれないけれど、わたしの言葉で、周がどのような反応を示すのかというのには興味がある。強く拒絶されたとしたら、わたしはどうなってしまうのだろうという不安も、少しはあるけれど。


 わたしがじっと周を見つめていると、周は身を乗り出してきた。わたしは迷うことなく、周の方に顔を近づけた。

 せみが高らかに鳴いているのが、やけにはっきりと聞こえてくる。窓を閉めずに、網戸にしていたっけ。いや、そんなことは考えなくていい。

 わたしはいま、この幸せだけに、集中していればいいのだ。


 わたしたちはこれで、二回目のキスをしたことになる。だけど、舌をからめあうようなキスは、まだ経験していない。なにより、ひざまくらがまだだ。わたしはいま、ひざまくらをすることを欲している。周が寝ているあいだに、わたしがどこかへ行ってしまわないということを、そうすることによって、伝えたいのだ。


     *     *     *


 明日はお父さんが帰ってくるから外食をしましょう――と、周の母がみんなに提案した。

 しかし、周の祖母はぜんぜん乗り気じゃなかった。「行かん」と言って聞かないのだ。すると周が口をはさんで、「じゃあ、お寿司をとることにしたら?」と対案を出した。こうしてすぐに、妥協案だきょうあんがまとまった。


 お盆になったら市街地にあるどこかの飲食店に行く、というのは、周の家の「恒例こうれい行事」のひとつになっているのだという。でも昨年から、周の祖母が、外に出るのを面倒がるようになったらしい。その理由は、わたしには教えてもらえなかった。

 周の母の受けた屈辱はいかほどのものだっただろう。部外者の前で家庭の規律のボロを見せてしまったことを、どのように恥じいっていることだろう。


 しかしほんとうは、彼女は、そんなことには頓着とんちゃくしていないのかもしれない。屈辱を受けているだろうという想像は、屈辱を受けてほしいという願望と表裏一体になっている。きっとわたしは、周の母に屈辱を感じてほしいという気持ちをいつしか抱くようになっていたのだろう。

 それは、わたしを部外者へと――来客へととどめようとする態度と対峙たいじしているうちに、自然と本能的に涵養かんようされていったのかもしれない。


 しかし彼女は、周の意見にすぐに同意を示したし、わたしに「それでいい?」と屈託くったくなくいてきた。屈辱を受けることに抵抗のある人間にありがちな、多少のねばりと長ったらしい注釈は見られない。

 わたしはこのやりとりに「家族」を感じざるをえなかった。

 ありふれた家族のやりとりの現場に立ち会っただけなのに、わたしの気持ちは、不自然なくらいに楽になってしまった。周の母のことを、愛おしく想ってしまった。


     *     *     *


「周のお母さんのお名前って、なんだっけ?」

「ユキコ、だよ」

「どういう漢字を書くの?」

スノーに子どもの子」

「へえ、ぴったりだ」

「ぴったり?」

「あっ、ごめん」


 ひとりごとのつもりだったのに、思ったより声がでてしまっていたらしい。

「雪のように、あたたかい人だなって思って」

 皮肉に聞こえなかっただろうか。言ってから後悔をした。急いで言葉をおぎなわなければならないと焦った。よく考えもせずに口走るとこうなる。


「それ、わかる。熱いんでも、ぬるいんでもなく、あたたかいんだよね、母さんって」

「分かってくれるんだ」

「うん、分かるよ。雪って、あたたかいよね」

「ほんとうに、あたたかいよ」


 冷房のいらない夜だった。網戸にして眠りについた。山の上に月がでているというのは、ときおり吹き込んでくる涼しい風の匂いで、なんとなく分かっていた。川のせせらぎがここまで聞こえてくるはずがないのに、まるでその近くの木陰こかげで横になっているような気分だった。

 人生のうちで、冬のことを愛おしく思った夏の日は、これから先、この日だけになることだろう。今日は、深く眠ることができそうだ。雪のようにあたたかい寝言を、ひとつふたつ言ってしまうかもしれない。

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