ほとんど、疲労のおかげで眠れたといっていい。

 いつしかわたしに背を向けて眠っていたしゅうは、わたしが顔をのぞきこんでいることに気付かず、静かに寝息をたてている。障子しょうじかられてくるうすい光が、夏の明け方を切ないものにさせている。


 充電器に繋いであるスマホを手に取ろうとしたところで、部屋に掛時計かけどけいがあることを思い出した。五時過ぎだった。

 二度寝をする気にはなれず、エアコンのタイマーが切れたせいで暑くなった部屋のなかで、いびつな年輪を見せた木の天井を見つめながら、今日一日はどんな風になるのだろうかと、想像を巡らせた。


 周は、目覚まし時計をかけても、起きなければならない時間になると、自然と目が覚めるのだという。

 わたしたち人間は、精密な時間を世界のなかに見出し、それを頼りに生活をしている。時計に頼らないというのは、本来的に自然なものだと思うけれど、もうそうした自然さは不自然さへと鞍替くらがえされた時代だ。


 わたしたちは、各々、好きな時間に出勤したり登校したりしないし、電車もバスも時刻表通りに動くし、労働の時間も、一応は法律で規定されている。

 だからこそ、体内にオリジナルの「時間」を持っているひとに出会うと、うらやましく思ってしまう。というより、それを持っているにも関わらず、社会の中でしっかりと生きているひとというのが、羨ましいのだ。


 普遍的な時間の概念に馴染なじめないと、社会的に排除される対象になるということを、わたしは身をもって知っている。この社会で蔑視べっしされているのは、標準からズレた時間を生きているひとたちなのだ。

 わたしはむかし、ひきこもりというラベルを与えられて、厄介な存在のように眼差まなざされていたことがある。空っ風のような優しさが書きこまれたプリントを、毎日のようにお母さんを経由して渡された。

 来ても来なくてもどっちでもいいと思っているに違いないのに、「みんな待っているよ」とプリントには書かれていた。


「おはよう」

「うん。おはよう」

「だいぶ前に起きてた?」

「ううん。ちょっと前に起きた」

「ぼく、いびきとかかいてなかった?」

「ぜんぜん。すやすや寝てたよ」


 わたしはなんだか、母になったような気がした。もしかしたら産まれ落ちるかもしれない、周との間にできた子どもの母ではなく、周の母になった気分だ。或いは、周の母に生まれ変わった気持ちがする。

 周に母性めいたものを感じてしまうということは、わたしが周に対して抱いているものは「愛」に違いないということではなかろうか。実現するはずがないことを、実現したくなる。これほどまでに、真実らしい「愛」はない。


 周は寝起きでも爽やかな香りをしている。獣のような臭いがしない。寝ているあいだに洗濯をされたのではないかとさえ思える。

 不思議なひとだ。夜より朝に抱きつかれることを望まれているかのようなその身体は、どのようにしてつちかわれてきたのだろうか。その答えは、周が言葉にできるようなものではないのかもしれないけれど。


 もしいま周を抱きしめてみたら、それに対して、ひとつの答えが与えられるのだろうか。しかしそれは、毒味のように、必ずしも良い結果をもたらさない挑戦になるのかもしれない。


     *     *     *


 帰るとすぐに仏壇に手を合わせていた周は、今日も、ライターで火をけた線香を供えていた。

 仏間にゆったりと漂いはじめた煙は、わたしに蚊取り線香の煙を思い起こさせた。同じような匂いに感じられたということではなく、どちらの煙も、ある特定の生物を寄せつけない効力を発揮するという一点において、共通しているように思えたのだ。


 この場合、蚊に当てはまるのはわたしだ。わたしはこの家の系譜からまったくの外側にいる存在で、きっと周以外からは歓迎されていない。

 この煙に愛や落ちつきを感じることが、この家に受け入れられたかどうかの基準になるのだと思う。

 わたしは、よくない方向へと進みそうな思考を、安穏あんのんな地平から退けようと必死になった。


 もうすぐお盆だ。お盆のときに、他のひとの家にお邪魔しているなんてどうかしている。

 だけど周は、それを受け入れてくれたし、なんなら自分から提案してくれた。このことはなにか、わたしたちの関係に決定的な役割を演じる伏線のように思われたが、まだなんの効力も発揮はっきしてくれていない。


 わたしはこんな屁理屈へりくつを言っていたことがある。先祖がお盆に帰ってくるというのなら、普段は空っぽの仏壇に手を合わせているのかと。

 だって、死者がいまどこにいるのかということは、とても大事なことのように思うから。わたしたちは、死者の存在を意識するからこそ、死を認識できるし、生きることの尊さや厳しさを知ることができるのだから。


 いまは宇宙葬というものがあり、なんでも遺骨の一部を宇宙空間に漂わせるらしい。その場合に先祖は、お盆になればロケットかなにかに乗って帰ってくるのだろうか。

 それとも、残り半分くらいの地球に埋められた骨にだけ、先祖の魂は宿っているのだろうか。だとしたら、宇宙にある遺骨は、ただの無機質な骨なのだろうか。


 そんなことを考えられるくらいには、のんびりとした時間の流れる朝なのだということに、いまさらながらに気付いた。

 これからどんどん暑くなってくるのだろうけれど、わたしたちは冷房のいた部屋で、自分たちに与えられた「仕事」を――修論の執筆をするだけだ。

 夏らしい暑さに情緒的なものを感じる余裕は、きっとない。


     *     *     *


 わたしがいるからといって、見栄みえをはった朝食を作る気はないらしい。周の母は、スクランブルエッグとウインナー二本と、ブロッコリーとトマトが乗った皿を、わたしの前に出した。

 勝手にごはんをよそってくれたが、この気遣きづかいはわたしを不愉快にさせた。もしこの家族の一員として、将来的に、迎え入れようという気が少しでもあるのだとしたら、このような気遣いを見せないと思ったからだ。


 そして彼女の顔には、昨日の夜に、わたしと周との間にあったことを看取かんしゅしたいという表情が、少なからず宿っていた。わたしたちに何度も、流し目を与えてきた。

 もちろん、わたしたちはセックスはおろか、それへと至りかねないような行為すらしていない。


 一瞬だけ、風鈴の音が前景に踊り出て、蝉の音が後景へと退いた。網戸から朝の涼やかな風が吹き抜けてくる。少し肌寒く感じてしまう。

 もしここで「寒いね」と言ったら、周はわたしの身体のどこかをさわってくれるだろうか。それとも「寒いね」とオウム返しをするだけだろうか。


 さわってほしいという気持ちはもちろんある。でもそれ以上に、周は自分の母がいる前で、わたしに対して、どのような反応を見せるのかということを試してみたい。

「寒いね」

「うん」

 周は、いつもよりすげない感じの返答をしてきた。まだ、寝起きの気分だからだろうか。だから、いつも通りであることが恥ずかしいのだろうか。そうであってほしい。掛時計は八時を示そうとしているけれど。


 周のその冷淡なふるまいに、周の母は安心のようなものを得たのか、わたしに憫笑びんしょうを与えてきた――ような気がした。

 もし彼女が、心中になにかしらの満足を感じているのだとしたら、わたしは屈辱と羞恥しゅうちに震えるしかない。不愉快のために、こころを暗くするしかない。


 しかし、この夏の朝の肌寒さのおかげか、妄想上の不快な気分は頓馬とんまになってしまった。そしてのろのろと、地平線の向こうへとひとりで歩いていった。こちらへ振り返ることもなく。


     *     *     *


 後片付けを手伝うと言っているのに、彼女は「お客さんにさせるわけにはいかない」という方便を使い、わたしを台所から排除した。「お客さん」という言葉を受けて、またもや、不快な気分が地平線の向こうからやってきた。

 はっきりとこの場から去れと言えばいいのに。お盆という、家系に固執しなければならない時期に、まったく家系に風馬牛ふうばぎゅうなわたしがいることに対して、堂々といきどおりを表明すればいいのに。


 だけど、本音を言えば鬱憤うっぷんほどく場面で、本音をおおい隠し建前に固執するのは、人間関係を営む上で必要不可欠なことでもある。だから、わたしはわたしで、黙っているよりほかはない。

 建前と本音をうまく使い分ける柔軟性じゅうなんせいが欠如してしまえば、いらない亀裂と分断を生み、憎悪の連鎖れんさを自らの意志に反して引き起こしてしまう。


 周の母は、わたしに建前を使っている。だけどもし、わたしに強い要求をしたいのならば、いくらかの本音をぜなければならない。建前だけで、わたしをこの家から完全に排除することなんてできない。

 裏返せば、周の母が本音を隠し通しているからこそ、わたしたちは、ひとつ屋根の下で共存をすることができているわけだ。

 それでも、わたしと周の母は、一緒の容器に入れられた水と油のようなものなのだ。

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