新たな組み糸

更に数日───。


俺は朝から、女将の部屋へ呼ばれていた。

とは言っても、龍哉様がご挨拶した大女将のほうではなく、現在この宿の総指揮を任されている、娘にあたられる現女将のほうだが。


「おはようございます」

「おはようございます、黒橋様、どうぞお座りくださいませ」

「失礼いたします」

「若様は……」

「小一時間ほどであれば、お一人にしても心配ないかと。龍哉様のお許しを得て参りましたので」

「それは良うございました」

「女将」


大女将よりは柔らかな印象。

けれどもこの人はこの人で、けしてくみやすひとではない。そんなひとだ。


「神龍会長様から、正式に本日より五日後お訪ねになりたいとご連絡がございましたので、お知らせを」

「畏まりました」

「龍哉様のご意志が最優先であるとおっしゃられ、まずは私からお知らせし、お二人のご意向を聞いてほしいとの事で、会長様は直接連絡はなさらないと」

「龍哉様にお聞きして、本日中には女将にお返事致します」

「あまりかずともよろしゅうございます」

「はい」

「お茶を」

「頂きます」

「どうぞ」

「……若様は?」

「だいぶ上向きになられております」

「お食事は、ご要望どおりお粥から柔らかめのご飯に致しましたのは大丈夫でしょうか?」

「はい、ゆっくりとですが美味しそうに召し上がっていらっしゃいます。一口ごとに喜びが伝わるような召し上がりかたで」

「光栄でございますわ」

「…女将」

「はい」

「申し訳ございません。一度、女将には改めてお話と…お詫びを」

「あら…謝って頂くことなどありましたかしら」

「………」

「母の事でしょうかしら」

「……はい」


【龍哉様の挨拶後】から、大女将は段々と宿への【大女将】としての出勤を控えはじめ、今は自宅屋敷に居る事が殆どという。



「まだ、どうなるかは分かりませんが母も歳は歳ですからね。あまり根詰めは良くないのですが、御常連、知己にはやはり張り切ります。そうした時には私などはまだ後進ですから、先人を止め切れないこともございますので、お客様にご謝罪を頂くよりも、私の不手際をお詫び致さねばなりませんわ」

「……女将」

「ショックだったのでしょうね」

「………」

「あのかたはあのかたなりの【世界の中】でずっと生きてきましたからね。百年、二百年という時間を継いで参る我々は普通の世間の皆様とは教えられる常識が相違することも多々あります。一般常識は厳守の上でね」

「…私共にも独自の掟も、こだわりも約定もございますね。一般常識を厳守するか逸脱するかは判断の難しい案件というところがそちら様とは違いますけれど」

「(笑)」


俺の言葉に女将は柔らかい微笑みを向けてくれる。


「お聞きしましたわ。母からだけではなく」

「…女将」

「帰ってまいった母は、顔面蒼白でしたわ」

「…………」

「そして、自室へ籠って翌朝、屋敷に帰ってしまいました」

「…申し訳ない」

「母の世話をした仲居が申しますには」

「……」

「【あれで子供?】、【私は知らない】、【恐ろしい怖ろしい、恐ろしい子】」

「………」

「そればかりを、熱に浮かされたように、敷かれて寝かされた布団の中で申していたようですわ」

「…そうですか」

「こちらこそ申し訳ございません。黒橋様とのお話の関わり上、母の申しようをありのままお聞かせいたしましたが、若様にはご内密に」

「はい」

「翌朝、事情を私にも話してくれました。一応聞きまして、屋敷へ戻るのを止めはしませんでした」

「女将」

「一目、見ればわかるものを」

「!」

「迎えたのも私、采配したのも私、動いたのは私の指揮下の者たち。あの人がしたのは【良いようにして】、という命令だけ」

「……女将」

「でも、あなた様は母にご挨拶に【行ってくださった】のに。そして若様は母に【ご丁寧なご挨拶を】してくださったのに。もう、それもわからない」

「女将」

清代すみよと申します。今は亡き父がつけてくれた名でございます」

「……穏やかな、方でしたね。私を見かけるとよく、黒砂糖の入った温かなホットミルクを作ってくださった。内緒だ、とそっと」

「まぁ」

「それで必ずお八つをくださるんですが」

「…日野屋のお饅頭。中が芋餡いもあんの」

「はい(笑)」

「…父様ったら(笑)」

「とても、美味しかった」

「…こうして長くお話させて頂くのもはじめてですわね。いつも母が出張でばっておりましたから」

「清代様」

「有難うございます。…支配ちからというものを」

「はい」

「頼みにするのは勝手でございますけれど。万物どんなものも流転する。時もことわりも」

「ええ」

「母には届きにくかったその事を母にお教え下さった神龍の若様には感謝致しております」

「そう言って頂けますと、若様もお気を軽くされます」

「やはりお気にされていらっしゃいますのね」

「……細やかなかたでいらっしゃいますので」

「仲居が」

「…………」

「黒橋様がご自分で手の届ききらない領分をこちらへお任せくださいますので、安心しております」

「私は武骨者ぶこつもの、仲居の方々はその道のプロフェッショナルですから。こちらこそ助けて頂いております」

「仲居頭が申しますには、黒橋様が所用で外されているときにお寝巻き代わりの新しい浴衣をお持ちする若いものに、『糊を掛けないでくださって有難うございます』と仰ってくださったとか」

「……」

「その者は業務として特別室のお客様の浴衣の洗濯も受け持っております。ご静養に来られるお客様のご事情は様々、対応も千差万別でございますので」

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