女将は、挨拶のあと、すぐに部屋から去っていった。

挨拶の後半から彼女の視線は畳ばかりを追ってうつむいた頭部が前を向くことはなかったけれど。


あえて、彼女の驚きには気持ちを添えずに、俺は逃げるように去る女将を見送った。



女将の姿が、気配が完全に消えると。


不意に龍哉様の姿勢が崩れ、畳に伏す。


「龍哉様!」

「…悪い…緊張、解けた…っ…」


抱き起こしたその身体が、全身が、細かく震えている。


呼吸いきは苦しくないですか!」

「呼吸は…大丈夫…力が入らないだけ」


俺はすぐに片付けていた布団を敷き、横になれるように整える。

そして畳に座り込む形の龍哉様に、鎮静剤の漢方薬を飲ませる。


「ご無理を……」


持参した新しい寝間着に着替えていただき。

薄化粧を濡らしたタオルで落として。

横になると、少し楽になったようだ。

薄く笑みを浮かべられる。


「うん」


それにホッとする。


「女将は、この宿を代々受け継いできた直系の血筋の女傑ですから」

「【圧】が半端なかったな。ちょっとキツかった」

「……若」


と言う割には。

完全に圧倒していたが。

本人的には、思うものがあるのだろう。


「老舗の大女将、頭の堅さ予想はしてたけど、それより【圧】が凄い。吉瀬家の女将はまだ、まろやかなほうだったな」

「職種が違いますからね。と、いうか。ぶっちゃけ、吉瀬家の女将さんのほうがずっと歳下で」

「ということは」

「柔軟性の基準が違う」

「だな」

「吉瀬家の女将のお人柄もあるでしょうが」

「…こればかりはな。創業年数で推し量れないか」

「お話するのは、お身体苦しくないですか?」

「…だいぶ、楽。雑談してると気がまぎれる」

「龍哉様」


けれど、龍哉様は不意に切なげに瞳を揺らされて。


「…俺が、眠るとき」

「…はい」

「いつも、そばに、いて?……ここにいる間だけで、かまわないから」

「……っ…」

「…ごめんなさい、がんばってみたけど…【若様】として神龍の跡継ぎ候補として、ちょっとだけ、このごあいさつだけはって…、気を張ったけど。

これはつらくても、やらなきゃ。

【上】にならなきゃ。

黒橋の顔をつぶすから…」

「…龍哉様……っ」

「…ここに、きてから……ずっと…そばに…いてくれたの、分かってた。だから、あんしん、できた」

「…若…」

「おねがい」

「…離れません」

「くろはし」

「ずっと、そばにいる」

「…うん」


俺の目の前にいるのは、今、俺の目の前に、いるのは。


傷ついた、獣。

ずっと威嚇することを止められないでいた悲しい獣が、ようやく気をゆるして、牙をおさめ、爪をゆるめて、うずくまることを自分にゆるした。


触れる者を、選ぶ、誇り高い……獣。


「あなたのそばに居ます」

「……うん」


目を閉じて眠りに落ちてゆく少年。

幼い、表情。


龍哉様、貴方は……。

俺は膝の上で拳を握りしめる。


今は、この胸に浮かぶ感情に蓋をすることしか、俺には、すべが無かった───。

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