空気を変えるかのように、着替えの事をさり気なく口にしたのは、龍哉さんからだった。
「シャツは、色有り?」
「スーツのお色を明るめのブラウンに致しましたので、シャツはアイスブルーを」
「襟は」
「ワイドカラー(喉元まできちんと止めた時に両襟の角度が広いもの。ビジネスシーンや正装で使われる数種類の襟の一つ)で。…ネクタイは今回は無しで」
「……」
「ようやく意識をはっきりさせた状態で。吐き気止めを飲みながら。ネクタイは【やりすぎ】です」
「……っ」
「貴方のお気持ち的には判ります」
「…黒橋なら?」
「……言うことはききます。あとで腹の中で『こん
「(笑)。やりそう」
「(苦笑)」
「…そうだな、やり過ぎは良くないな。引き時ってのは心得て
うっすらと細められる若の瞼。その脳裏に浮かぶのはあの主従だろう。
「龍哉様」
「ん?」
「めまい止めの漢方薬も追加でお飲みいただけますか。十七時手前でよろしいので」
「……分かった」
布団に起き上がった彼の動作、目線で知れた。
まだ三半規管が上手く動いていない。
大きなストレスは、たやすくめまいを引き起こす。
「黒橋」
「はい」
「
吉瀬家というのは清瀧が龍哉さんをお連れしたあの料亭の名だ。
「一応、移ったこちらの店の名をきちんと
「そうか」
「今回、女将には、初見なれど並々ならぬお世話になりましたので」
「……」
「きっと…若ならば、望まれると…」
「……ありがとう」
本来は必要ないが、あの女将さんは俺と龍哉さんの連絡役まで務めてくれて。清瀧へも毅然とした態度を取って下さった。
女将さんは、驚いていた。
俺の連絡にも、聞かされた店の、名にも。
そして納得したかのように、電話先の声が笑みを含んだ。
道理で、と。
あなた様の私共への立ち居振る舞い、納得致しましたと。
今いるこの宿はもちろん料亭とは業種違いなのだが。
創業が二百十数年、と
業界というものは、得てして繋がりが広い。
誇りある先達には、尊敬を。
そういう世界だ。
上を、重んじ、矜持を重んじるという点では我々の世界と似ていると言える。
「吉瀬家に関しては、
「…はい」
「……【
「…龍哉様」
「ほとぼり冷めたら、連れて行ってもらうさ」
「…はい、隆正様には私から」
「ああ、頼む」
「ところで」
「…はい」
「ここの女将さんは、どれくらい?」
「……」
「頭の堅さ(笑)」
「……若」
「ここさ、古いよな、かなり。柱の光沢とか、
「……」
「あ、そういえば聞くの忘れてた。ここってどれくらいの付き合い?」
「……祖父の」
「黒橋の爺様の代から?」
「はい」
「あー、じゃあ」
「若?」
「女将さんって言ってるけど、【大女将】でしょ?」
「………!」
「じゃあ、ノーネクタイ正解だな。マナー違反だけど。絶対黒橋が文句言われんだろ?病人の首元締めてんな、とか。他にも言いそうだけど」
「……若」
「女将の反応聞いた時に。やっぱりな、って」
「若」
「堅気商売の中で『物騒な知り合いが多い』くらいの吉瀬家とは違って、
「……ええ、まあ」
「……そこは女だからな。感情が先に立つ。うちの母親みたいな感情無しは特例だ」
「龍哉様…」
「…困るよな、こんな事をいわれても」
実母である
まれにしか、口にもされない。
それが、今の彼なのだ。
「だが、世話になるのは俺だからな。きっちりするのは俺の役割だ」
「…若」
「まかせろや」
「はい」
女将、いや、大女将は驚くだろう。
彼の、すべてに────。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます