俺はそっと、女将の部屋へ向かう。


本来は、龍哉様をお一人になどするべきではないし、赦されないだろうが。

あの方は、おやすみ、と言った。


起こされる事を前提の言葉をきちんと出した。それを信じて離れた。

セキュリティ上は問題ない。

この宿は。



「黒橋です」

「…お入りくださいな」


女将の部屋のふすまを開けて中に入る。


「若が…はっきりと意識を戻されましたので、お知らせまで」

「まあ」

「いまはまた、お休み頂きましたが…」

「黒橋さま」


女将の前に、静かに俺は座る。

古い付き合いなので、女将と呼ばせていただいているが、実質は大女将というのが正しい、六十代後半の、女傑だ。


「それで、誠に申し訳ありませんが、夕方、十七時頃になるかと思いますが、小一時間ほどの女将の御時間を、頂きたいと思い、うかがいました次第」


素直に頭を下げれば。

いぶかしげな声が、かえる。


「黒橋さま」

「はい」

「それは、若様へのご挨拶でしょうか」


すこし、固い、声。


「いいえ」

「……?」

「御時間が取りにくいようならば、明日以降でも構いません」

「……時間は大丈夫です。主なお客様対応は女将がしますのでね」

「…はい」


自分が少年、というよりは子供の頃から見知り合いの歳上というのは、危険性という意味では気を多少抜けはするが、決してやりやすい相手ではない。

少なくとも俺にとっては。


「それでは、お部屋にお伺いするのは十七時過ぎで…」


女将が声を平静に戻して口を開くが。


「女将」

「はい」

「申し訳ございません。言葉足らずでございますね」

「?」

「女将が私どもの客室に足を運ばれる必要はございません。ご挨拶をさせていただくのはこちらでございます」

「!」

「若様はおやすみ中でございますし、お聞きしてはいませんが、私の知る若様ならば望まれることは一つですので」

「目を…覚まされたばかりなのでしょう?」

「ええ」

「それに若様はお客様。こちらがご挨拶すべきです」


【普通】はそうだ。

だが。


「女将、今……別館特別客室にいらっしゃるかたは確かに十六歳の少年です。…百戦錬磨の大女将からすれば極道の上下のなかの細事などお気にはなされないかとは思いますが。あえて非常識な事を申します」

「……?」

「若様は、女将からのご挨拶を望まれているのではなく、暫くの滞在となりますので、若様からのご挨拶を、ときっと望まれます」

「……本当に【常識外】ですわね」

「………」

「二日も、夢うつつだったおかたを私のために動かす、と?」

「……」

「勘弁蒙ります」

「……大女将」


このひとは、案外気難しい。

俺達のような主従の長期滞在を許してくれる度量の大きさを持ちながら。古く重いくびきから解き放たれる事を望まないひと──。


少し、間違えたか。

ここは素直に引いたが勝ちか。

若には少し叱られそうだが。


「十七時半に、お部屋にお伺い致しますと、若様に」


否やを許しはしない威圧に満ちた声。

それは到底、【客】に向けるものではなかったけれど。


「畏まりました」


俺は、あらがわず頭を下げ、女将の部屋を出る。


女将の傲慢さなど、 こころに残りはしなかったけれど。


やはり、少し動揺している。

若の目覚め、会話。

表情。


その時には抑えていたものが、じわじわと。


普段の自分よりも、心動いていることに、自分が驚きながら、客室に戻るために、廊下を歩く。



らしくもない、とは思っている。

本当に、らしくもない、とは。





数時間後。

午後十五時半。


「よくやった」

「龍哉様…」

「たのもう、とは思っていた。ありがとう」

「いえ」

「おかみの、反応にかんしては、気にするな」

「…少し、先走ってしまったかとは」

「いや。個人的にはうれしい」

「龍哉様」

「言わなくても、気持ちの底が同じなのは」

「…龍哉様…っ」

「着替えをしたい」

「…若様をお迎えに参りましたときには数日分、持って参りましたし、若様お休みの間に、明日美様にご紹介頂きまして、百貨店の外商の方々に依頼したものが届いてございます」

「……そうか」

「どのようなものをご用意致しましょうか」

「スーツ」

「既製品になってしまいますがブランドスーツを数着買い足させて頂きました」

「どこ製」

「イタリア製でございます」

「ん、わかった」

「起こしましょう」

「頼む」


布団に横たわる彼の背と布団の間に手を差し入れて、ゆっくりと起こす。


「目眩などは…?」

「今はない」

「ですが、本調子では無いので、動作はゆっくりとされてください」

「ああ」

「その前に、お茶を」

「貰う」


言葉はゆっくりだが、だいぶしっかりとしてきている。


「固形物は粥以外はまだ無理そうだ。胃が少し、モヤモヤする」

「…お茶の前に白湯を用意致しますので、漢方薬の吐き気止めと、同じ漢方薬の胃薬を」

「うん」

「ご用意致します」


枕元に用意した薬入れの籠から、手早く用意して若に手渡せば。

用意した白湯で素直に飲む。

そして、白湯とは別にぬるめに入れた煎茶に、そっと口をつける。

それを見ながら。


「温度が」

「ん?」

「温度高めのお飲み物が、お好みだとは思いますが…」

「!」

「今の若のお身体では、少し刺激が強いので。せめて明日、明後日までは温めに入れたものを、お飲みいただきたく」

「黒橋」

「はい」

「…」

「俺は誰にも、言ったことは、ない」

「ええ」


湯呑みを見つめる少年の瞳がほんの少しだけ、揺れる。


「私も、他の者には洩らしておりませんので、ご安心下さい」

「…なんで?」


気づいた?と聞きたい、少年の心に気づく。


「『何となく』、ですよ」

「……『何となく』」

「ええ、『何となく』」

「…そうかあ」


そうでないことなど、二人、思い知りながら。

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