しかしこれだけ言っても。廊下に繋がる襖の前の篠崎は動かない。

……ほんとに壊れてんのか。


「お静まり下さい、神龍の……若様。直ぐに医者と布団を。今はお一人には……できません。うちの若様が…それをお望みでは…無いなら…せめて…若様のお目に届く…ところで」


俺が断ったことを馬鹿の一つ覚えのようにくり返す。


「そうか。……わかった」


次の瞬間。

俺は。

自分の右手のこうの親指と人差し指の間

に思い切り歯を立てる。


破れた皮から、最初はジワジワ、次第にタラタラと流れる血。


「た…龍哉ぁ!」


先輩が今度こそ悲鳴を上げるが。

俺は間髪入れずに言い放つ。


「来るな!触るな!」

「龍哉…っ…」

「龍哉…様…あなた…」

「雨の中で立っていたのは黒橋も同じだ。だけど、気構えが全然違う」

「!」

「昨日も言ったが、そちらに叱られることなど、あいつはしていない!……っ……」



傷が疼く。俺は机の上のお絞りを掴み、指の間に押しつけて止血をする。


「どけ!清瀧後継側付きモドキ!面汚つらよごしがっ!」

「……っ!」

「俺を次期神龍後継と知りながら認識甘く、自組の若可愛さに他組後継の心身、体調に関わる要請を聞き流し、お前の忠義の皮かぶった自己判断で、ないがしろにして。錯乱した主の考えに従い続けるなら、【お前自身のため】に、組と組との間に、大きな波風立ててやろうか!」

「…ぐっ…」

「軟禁だろう、これ」

「!?」


「やめて!やめて、龍哉!」

「どうして?そっちがやめないのに俺が引く道理は?そっちが引かないから血まで流したのに?やめて?ふざけるな、俺が悪いのかよ?

よく見ろよ、他組の【下】から、【格下に見られている】この俺を!」

「…誠に誠に、申し訳ございません!」



俺に寄る事を許されずにへたり込んで泣く清瀧後継。

今頃土下座する側近。


どちらも。俺も含めて正気の沙汰ではないのかもしれないが。


「あんたの口先だけの謝罪と土下座になんの意味がある。さっさとどけ?無駄だ」

「……!」

「それとも?どいてあげて、篠崎、と言われなければどけないか?

なら、なんのための年長か。付き従い、甘やかすだけならば教育係すらまともに任を果たしてはいないだろ?」

「…龍哉…様…っ…」

「下の名を呼ぶな。今のあんたに許す気はない、けがらわしいし、生意気だ。【神龍の若】か、【桐生家長子】以外は呼ぶな」

「……っ…」

「納得も理解も鈍く浅く、気が立っているのは今だけと俺の心を蔑ろにして、適当な返事で切り抜け、自組の若の前に戻れば、俺と彼の関係性という物差しだけで彼に媚びて、俺をあなどるのを再開する」

「…そんな…」

「そうかな?俺が、神龍会長の孫なのだと、真に理解していれば、あんたは俺にこんな態度は取らない。取れないはずだ。

分かっているのか?

俺は、養子は養子でも神龍本家組長の実甥。

会長の実の孫。堅気から還った養子と他組にあなどられようと。桐生の確かな血縁者で。あんたの大事なワカサマと同じ【組継ぎ】。清瀧がいかにデカかろうが、血族でもなく、配下にすぎないあんたより遥かに【上】。

立っている場所がそもそも違うんだよ。

年だけ喰っていても情緒が不安定ならガキと一緒だな(笑)。この、なまくら。

言っとくが、俺が怪我したのは錯乱じゃない。追い詰められたから仕方無しの打開策。原因はアンタ等だ」


篠崎がまた目を見開く。

こんな事を自分の歳の半分くらいの若いのに言われるのは初めてだろう。


「俺は、本気だ。ここにいる意味は消えた。傷の舐めあいすらしたくない。先輩、清瀧の誇りを取り戻し、正気に戻ったら連絡しろよ?あんたの取り乱しっぷりは注意に値するが、今はまだ見逃せないほどじゃないからな」

「…龍哉っ!」

「どけ!鈍ら」

「……は…い…」

「篠崎!」

「廊下の配下を引かせろ、俺の部屋に至るまで、人払い」

「…承知…いたし…ました。…退け」


廊下の気配が戸惑いながら消えてゆく。


「多分、黒橋はすぐに来る。邪魔はするな」

「…はい」

「いいか?俺の部屋に一歩でも、おたくの可愛い若様と大事な配下が足を踏み入れたり、俺の組の大事な若手に指一本でも危害を加えたら、神龍本家、神龍別宅を未来永劫、敵に回すと思え。桐生隆正、桐生龍三郎をな。…清瀧の若はともかく…篠崎、テメェは、生きていられるとは思うなよ?」

「……っ!……重々…承知…いたしました」


俺は戸口へ向かう。躊躇わず、先輩に背を向けて。


「龍哉ぁ!」


文親の叫びに足を止める。

まだ絡みつく甘ったるい哀しみに、うんざりしながら。

振り向かずに言ってやる。


「目がくらむ。耳鳴りがずっとやまない。俺が、あんたが今まで見てきた愛玩用の意気地なしの馬鹿息子達なら、すぐにここで胃の中のものを吐くさ。胃液しか出ないだろうが。昨日食ったのは味は美味かったし感謝もしてるが、ほとんど戻しちまったしな」

「……っ…あ…」

「……あんたは吐いてないよな?食べてないんだし。お茶はあれからも途切れなく飲まされてるだろうしな?親の名を出されてでも。女将が作った心づくしの膳をひっくり返す事はできても親の名を出されての命には逆らえない」

「!」

「…なんで…?…あの女か?お前に余計なこと…篠崎、あの…女…!」

「文親さまっ!」


本当に、錯乱というのは、恐ろしい。

俺は向けた背中が冷えるのを感じながら冷たく、呟く。


「受け入れてくれた女将まで、…あの女…か。おい、篠崎、先輩。あんたらが女将と、ここの商いに手でも口でも嫌味、脅しを出したなら、俺は清瀧を軽蔑する。心底」

「……っ」

「…龍哉ぁ」

「あんまりうざったらしいから、事実を言ったまで」


襖に指を掛けて引きあけながら、振り向き。


「俺がカワイソウな若様のお悲しみとやらに純粋に付き合うのはこれが最初で最後だ。次からはちゃんと文句も言うし、絡まれるのも断る」

「…俺の…何が…悪いの…何が…悪いんだよぉ…っ」


分からないから、錯乱なんだよ。

一部からの愛は無くとも、皆に愛されてきたワカサマ。


「その台詞……。人が変われば、【あいつ】と同じだけど?先輩?」

「……!」

「今頃ニヤニヤしている、あのクソ野郎と。……いや、それ以下かな?」

「……ぅあ…あぁあぁあぁあぁっ………!違う!違うぅ!」

「文親様!……若様ぁ!」


思えばこれが最初の、先輩との大喧嘩に、なるんだろうなあ。



なんて、人でなしな、俺──。


ひなは雛。

けれど魂を寄り添わせようが相剋そうこくは存在する。

相手への取り込みと取り込まれが必ず存在するのが愛と恋ならば───。

ここまでは可、ここからは不可。

対立する二つのものは互いに勝とうとするものだ。

矛盾を抱えながら──。雛だからこそ。

葛藤に血まみれになりながら。


ああ、俺はそれでも──。


人でなし、なのだ。


{閑話休題─────了}

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