黒橋……。
「何か(お髪を)拭くものを、とお伝えしましたら、良くふいたつもりでしたが、お見苦しいものをお目にかけました、と。若をお願い致しますと深々と一礼されて」
そのまま、帰られましたと女将は俺に告げる。
「お客様のご事情は『見ても見ず、聞いても聞かず──』。それに徹しております私共でございますが、我が心に刻みおきたい
女将の声は静かだったが、感銘の熱も
「有り難う。…伝えます」
「…どうか、お一人でおられます時はお身体、お心、お休めくださいまし。内線六番で私の専用回線に繋がりますのでお心安くお使いください」
すぐに諸々用意すると言いおいて、女将は下がってゆく。
数分もしないうちに頼んだものが全て揃い、向こうが用意したものも揃う。
その間、人払いは解かれぬまま。
俺の部屋の中に何が運ばれたのかすら、清瀧が知ることはない。
その心遣いこそが。
そして今はここにいない男の思い
俺の心を慰めている。
決してあからさまな言葉にも、あからさまな態度にも出す事のない【
さて。
それから数時間足らずで。
黒橋が用意してくれた深い藍色のジャージの上下に着替えた俺をまっていたのは。
過干渉。過干渉。ベッタリと張りつくような、過干渉。
もちろん、清瀧の客室の中での話だが。
構い倒す文親先輩を基本止めない篠崎さん。
先輩の心情を想えば止められない、のかもしれないし、初めは俺もあえて逆らいはしなかった。
ただ。
俺も万全な状態であるわけはなし。
こまめな【部屋】へ帰っての休憩。
これは、早々に条件に出した。
数時間に一回は挟んでくれ、と。
文親本人に。
片時も離れたくないと、お前が心配だと。
辛いだろう、悔しいだろう。
側にいてやる、哀しみをぶつけろ、一人になるなと。
しかし、俺はひかなかった。…【今回】は。
一回は【譲った】だろう?と。
キョトンとする先輩に。
「連れて行けと言ったから、連れていったろ」
「…龍哉」
篠崎に言った事をまた繰り返し噛み砕いて言うのか。面倒くさい。
「追いつかれて、泣かれて。一緒に雄太の所へ行ってくれなかったら
「……っ…」
「だから譲った。
先輩の涙のために一度だけ。俺の為に巻き込まれて混乱しきった文親先輩の為に」
「龍…哉…」
「先輩の悲しみは俺のせいだ。だからそれに寄り添いたいから、ここへも来たけれど。
全部が全部聞くことは出来ない」
「!!」
俺のそばに座り、俺の手首を強く握り、離すまいとしている先輩は、哀れで、とても…綺麗で。
でも、俺とは……何もかも。
何もかも、違っていて。
それが哀しいのか、辛いのかは自覚したくなかった。
「……っ」
「【俺の哀しみ】は【俺のもの】だ」
「!」
「どんなにあなたが優しくて、俺達二人が特別な思いをお互いに抱いていても」
「そんな…」
「…苦しいからこそ、悲しいからこそ…俺の辛さ、俺の哀しみ、それは俺だけのもの。
たとえ相手があなたでも、
「龍哉!…どうして…っ…そんな…」
悲鳴のような先輩の細い声に胸は裂かれるが。
俺は先輩の指を力を入れないように解いて、自分の手首を自由にする。
信じられないような絶望を眼に浮かべる先輩を無視するように。
「分かってくれないなら、俺は神龍に連絡を取って本家へ戻る。本当は一日あなたに寄り添う気だったけれど」
「イヤだ!」
「なら、言う事聞いて」
「なんで!」
「……何が?」
「雄太が!雄太が…。俺は、お前が…苦しいだろうと思う…から…側に…」
「苦しい時に…側にずっと、誰かがいてくれることが…幸せ?」
「……龍哉?」
そんな生活を送ってきたのだろう。その【誰か】と。血縁ではなくとも。彼もまた、実母との縁は薄いが周りには恵まれている。
「声をかけて。愚痴を聞いて。一緒に哀しみを分かち合う。確かに幸せだ」
「……龍哉…?」
けれど。俺を囲うなら、それは
「あなたが味わうその幸せが、味わってきた幸せが……俺にとっては…いや、いい。
…とにかく、明日の朝まではあなたと居る」
「神龍の若」
「篠崎さん。俺は一度、紫藤先輩のお願いを聞いた。あなたの懇願もね。でも、紫藤先輩が今、正気でいられないなら、あなたしかまともな判断は下せない。だから昨日あなたに俺は色々言った。覚えているか?」
「若…」
「あなたが自組の若の発言、命令に、絶対なのは当然だ。でも昨日言って今日この有様では舐められているどころの騒ぎじゃないな、俺は」
「!」
「俺が望んでいるのは、部屋へ自由に戻る事、自分の部屋の中での自由。それを貰う代わりに先輩の哀しみに明日まで寄り添う。それはそんなに難しいか?正当な極道からすれば狂った考えか?」
「……神龍の若」
「俺を【保護した】というのは先輩の言い分だろう。先輩の為なら…自組の大切な若様の為ならば、見知って浅い俺なぞ、差し出したところでどうせ元は堅気からの後輩の若造だ。三代続きの次期組継ぎでもな。清瀧の後継とは比較対象にもならない、薄ら毛の生えた
言えば、気色だつ二人。
「龍哉!」
「……神龍の若…」
文親が悲痛に叫ぶ。
「俺達は!わざわざ!…お前を…っ、お前が…あんな事を…されて…自組の…神龍の…若手にまで……お前が、お前が!可哀想だから…」
文親先輩の何も疑わない上からのお優しい慈悲心?にカッとする。
可哀想ねえ……。
「可哀想?」
ゆっくりと聞き返してやる。
「…あ…っ…」
「ああ、【俺は可哀想】だなあ。
声が意地悪になるくらい、許してほしい。
「…っ……!」
「言うつもりは無かった。でも言う」
「神龍の若!」
「俺は【可哀想】だよ、先輩。
でもそれは…白沢のご両親に受け入れられなかったことでも、あなたが言うように自組の若手にきつく躾けられた事でもない。
【俺だけのために】あいつが死んだ事だよ!」
「!」
「確かに、
「……た…つや…っ」
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