というわけで。

今は四時半。

後一時間で女将が来るが。

この分だと、冷蔵庫に入っているミネラルウォーターをケースで二箱位。後は軽い煎餅のような米菓子を二三袋、かな。


人の手で調理されていない、簡素な補給食。

多分、それしか今は入らない。


篠崎を追い返した後、さすがにあそこまで長く引っ張る予定でなかったのでつかれて。初めて意識的に瞼を閉じて、三十分ほど座ったまま座卓にもたれ、軽く眠れたけれど。


そこからは。

吐き気。

吐き気。

吐き気。


畳と部屋のなかのトイレの往復。


…清瀧の人間は。

来ない。声をかけず。襖すら開けない。

よっぽど、怖かったのか。

俺の、初めての、我、神龍組継ぎとしての強い物言いが。


水分補給のために水を飲み、水を吐く。

胃が痛い。

布団になど横にはなれない。

頭が冴えて、気が狂いそうになり、自分を抱き締めて。


それの。

繰り返し───。

繰り返し───。

繰り返し───。




五時半───。

女将は、現れた。

誰も連れず。

人払いもしてくれたらしい。

極道すら逆らえぬ人払い…怖いな(笑)。


「世話になります、女将」

「いえ。…お顔色が…」

「………」

「無理も、ございませんわね」

「……はい」


対面に座り、始まる、会話。


「体力が無いので単刀直入にお願いしたい」

「はい」


彼女は痛ましげに俺を見る。

これだけの店の采配を、長年取り回してきた女将には俺の状態など丸分かりなのだろう。


「…昨日のお食事は、美味しかった。急だというのに、気遣われた、心のいた献立だった」

「…有り難うございます」


だし巻き玉子、青菜のおひたし。

白身魚の西京焼き。吸い物。

もっと手はかけられたかも知れないが、あえて。口にしやすさ、消化の良さを先にしたのが分かる、名より実を取ったメニュー。


「……俺の、身にすることは出来ていないが、美味しかった。もしも今後、別の機会があったならば是非、と思うくらいには。…とはいっても。俺は学生で未成年だから、今のところは受けた恩情を父や祖父に口添えするしか出来ないが」

「…神龍の若様」


女将は俺の言葉に口を開いて静かな声で。


「お気を余り使われずに」


言ってくれる。


「…冷蔵庫にあるミネラルウォーターと同じものを常温でケース二箱。菓子皿にあった米菓子を三袋。用意して頂きたい。本当は…このような素晴らしい店、どうせあちら持ちだ。たとえ身にはならなくとも意地でも食事しようか。そう思っていたが。…失礼を重ねたくはない。せめて、俺の部屋の中で俺が消費する分については」

「………」

「あ…そうだ。…何か良い漢方薬寄りの胃薬があれば」


こうした店だ。頓服用の胃薬など標準装備の筈。


「ご用意致します。吐き止めもございますが、御滞在をあと一日と区切りますならば…無理に止めない方がうございますね」

「…ですね」

「水だしのほうじ茶、烏龍茶等のティーバッグもご用意致しましょうか。すぐに出るものですので、ティーバッグをペットボトルに入れていただいて冷やしていただければ、一時間程でお飲みにはなれると思いますが」

「…有り難い」

「手がかからぬもののほうがよろしゅうございますものね」

「…女将」

「もともと、清瀧あちら様からのご要請をお受け致しまして、お二人にあわせて頂いた時に、翌日の固形物は控えた方が、と厨房に指示はしてあります。…神龍の若様は口をお付け頂きましたが…清瀧の若様は…」

「…文親先輩は……?」

「膳を、ひっくり返されました」

「!」


俺と先輩は別々の客室に離されたからな。

食事もそこに運ばれた。


……先輩。美しい顔に似合わない苛烈さがアダになったか。今、錯乱状態だろうし。


「要らない、気が利かない!と…」

「……っ…」



自分の代わりに殺された…かもしれない後輩。

通夜での哀しみは、胸をえぐり、彼ですら、壊している。


だからって止めないのかよ。

清瀧側つき。ここは、屋敷じゃない。『外』だぜ?


泣いて泣いて、冷たい雨にうたれた身体をいたわるような、消化の良いものばかりの、あの膳を。


女将は、続ける。


「実は…清瀧組長様、会長様に私より、ご連絡差し上げております。大事なご子息をお預かり致しますので。篠崎様に分かりましたと申しました後、すぐに。

あれは錯乱するだろう。数日の身の置き所があれば安心した、と。御一任を頂きました」

「そうですか」

「篠崎様にはこの事はお知らせはしておりませんので」

「……。篠崎さんですが。うちの途中で帰った者の事で、女将さんに何か聞いてきましたか」

「…ええ。やり取りがあったか、何かあったか、と」


聞いちゃったか、やっぱり。


「それで」

「…少し、きつく何度も重ねてのご質問でしたので」


要するにしつこかったわけね。


「たとえ名だたる組のお側つきでありましょうとも、こちらに馴染みのお客様でありましょうとも、商いで得た知り事を他所に洩らすことは出来ませんし、必要もなく、それを口にされるのは野暮の極みでは?答えられぬものは答えられません。私共は創業百数十年、誇り忘れた商いはしておりませんので。と申し上げたら、正気に戻られたようですが」

「あらら」


女傑だなぁ♪


「神龍の若様、後から魔法瓶ポットを三本、湯呑みを数個お持ち致します。私と料理長で運んで参りますので、御安心下さいませ」

「……魔法瓶…?」


突然言われて、不思議に思うけれど。


「ミネラルウォーターと割りましてお薬もお飲み頂けます。…温かいお茶もお飲み頂けます。

体外にものが出てしまうときには、水分だけではなく胃酸も出ますし。消耗に…補給は大切でございます」

「…女将…」

「“白湯を…”」

「……っ」

「……“白湯を望まれるとき望まれるように自在に飲むことの出来る環境を整えて頂きたい”と申されました。まだ乾ききらない御髪おぐし(髪の古い言い方。丁寧な物言い)から伝わる水気が、お肩を濡らしていて…」

「…女将」

「“御世話料などと烏滸がましいのは承知の上で。若の御意のままに…。その為の些少さしょうのもの。お納め頂ければ有難い”、と。

今の若のご様子を拝見し、ご慧眼けいがん、今更に得心致しましたわ」

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