…暫く前から、龍哉さんは時折、俺といる時の呼びかけを変えるようになっていた。

いつもは、【黒橋】だが。感情がひどく動くときに、【お前】になる。不思議に嫌ではなかった。

自分の気質からすれば遥か年下の少年に呼ばれ、嫌悪感が出てもおかしくはないのに、【お前】という言葉に心の距離が近くなった喜びすら感じて。


今も───。


「叱ってくれて……有り難う。……だけど、叱らせて、ご免なさい」

「……ッ!」

「言いたくないこと、言わせた。……先輩はお前の事情は軽く知っていても、お前の事情を理解りかいしてるわけじゃない。……理解わかっていたなら、俺を叱る」

「…若……っ」

「俺に、謝らないで帰った。……俺はお前にまた…救われた。……それだけは、覚えておく」

「…龍哉…様」

「……学校は、一週間くらいは、休む。手配と口実こうじつ。手続き、手回し。出来れば、頼みたい」

「承知、隆正様からは若よりご指示があれば、お心のままに、と」

「…そうか」


スマホの向こうからそっと、聞こえるため息。


「心配させて、悪いと…おやじに伝えてくれ。帰ったら自分でも言うけど…」

「…若」

「何も言わずに俺自身を放っておいてほしいと、想うときは…近いうち…必ずくる。…俺は知ってる。でも、今は…言葉を惜しみたくない。言葉足りないまま、失った…から…」

「……龍哉さん」

「俺はもう、ここでは泣かない。……帰らないのは、先輩あのひとを今、無責任に放り出したくないだけだ。料亭みせにつく前には、俺は落ち着いた。

…落ち着かせた。

先輩を刺激したくなくて、清瀧に気遣いさせていたが」


龍哉さんは少し、言葉を溜めるように黙ってから。


「…一日付き合えば充分だ。そうだろう、黒橋」

「!」

「明日一日くれてやるさ、先輩に」


聞こえてきた少年の声はくらかった。


「俺は……あの人を…幼いなりに想って…いるけれど。自分がどんな…人間で…どんな…立ち位置で…あの人と…何がどれくらい違うかなんて…分かってる。絶対に悟らせないけど」

「…若」

「ごめんな、間違えたのは、俺で。お前は間違えなかったのに。間違えたから、雄太は死んで。間違えなかったお前は俺のために……」


何を間違え、…間違わなかったのか。

言おうとする少年の声はかすれ、苦しげで。


「…若、いけません」

「黒橋」

「……明後日、お迎えに参ります。帰りの車の中で若のお心、お哀しみ、この黒橋に吐き出して楽になるのならば、いくらでも、お聞き致します」

「……っ…」

「ですから、今は…」

「…お前…伝言……意味ねえよ」

「龍哉さん」

「言わねえことのほうが、伝わりすぎで」

「……お互い様でございます、と、あえて憎まれ口を言わせて下さい」


静かに俺は言葉を返す。


「無理だとは思いますが、少しでも、休息を。不可能ならば、数分、眼を閉じる事を何度か繰返してもいい。無理に眠ろうとするとフラッシュバックが怖い」

「ああ」

「…もしもあちら様から…布団に横におなり下さい、仮眠を、とすすめられましても…」

「文親先輩は今日はもう来ない。会っても明日の朝だ。言いに来るなら篠崎だが。部屋の中は構いなし、と後で伝える。…文親を優先してやれ。神龍には神龍の流儀がある、と。ひさしの中に雨に濡れた猫をかばってくれた恩義はあるが、軒下でどう過ごすかはこっちの勝手だ」

「………」

「…他は?黒橋」

「…明日からの食事、今日、気力で取られた分、揺り返しが来るかもしれない」

「…吐いても食うさ。グレードは最高級だ。…あっち持ちで(笑)」

「…龍哉様」


電話の向こうから伝わる、少年の悲しみと…虚無。


「…バカでも言わなきゃ、気が滅入る」

「………」


「固形物は少量でも、食べられるならば衰弱しないよう、今日のようにお心のままにお取りください。吐いても、少しは身体には栄養として残ります。脱水が怖いので、水分は決して切らさぬよう」

「…うん」

「カジュアルのお洋服は材質が柔らかめのものを上下選んでございます」

「…ん」

「無理に整理などはしないで下さい。宿も兼ねているならば、浴衣などもあるでしょうから…その辺りはご調節を」

「うん」

「龍哉様」

「……黒橋」

「…はい」

「ごめんな」

「……何故…貴方が…謝る?…謝りすぎだ」


私は一言だって貴方に謝っていないし、そのつもりすら、無いのに。


「二つの…ガーメントバッグ。荷物の存在を知らされて…お前の気持ちがすぐに知れた。あと、スポーツバッグの中身」

「……っ…」

「あれを用意して、車のトランクに入れて、俺を追ってきた」


少年の呟きは、俺の心にまた新たな驚きと、期待を生むには充分だった。


「…若」

「清瀧が俺を誘わなくとも、庇護しなくとも」

「…龍哉様」

「お前はちゃんと…考えていた」

「………」

「場所だって…用意していただろう。…帰りたくない。…帰れないと駄々をこねるガキの為に」

「…清瀧の若のお優しさのおかげを持ちまして、私の愚かな考えは御前にさらさずに済みましたが」

「……そういうことに、しておくのも…今は、良いかもな」

「はい、若」

「…明後日、迎えに来たお前と、出来れば、お前が用意してくれた場所に行きたい」

「…若」

「まだ、本家へは…戻れない。…理由は言わない」

「畏まりました。お迎えに上がりますときには、全ての手配完了し、お心安らかにご休養頂けますように致しまして、おうかがい致します」

「…頼んだ」

「失礼致します」

「…ありがと…黒橋…」



電話を切った、自分の指先が、さっきよりも細かく、目に見えて震えているのを自覚する。



「龍哉様、貴方は…」


呟く自分の声の震えも。


たった十六の少年が俺のために、かけてきた電話。

そう、俺には分かった。

これはまさしく、俺のために、龍哉様がかけてきた電話だ。


今ではなくとも良かった。

あの方の受けた衝撃、傷を考えるならば、かかるはずもない。


ただ、時を置く事を、あの方は望まなかった。


やはりあの方は【私】の予想の上を行く。

遥か、上を──。

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