第16話「カール・ギブソンがシュートを止めると、日本は国際社会から一歩遠のく。」11
東京都、成都病院。18:00
小峰が搬送された病院のドクターに、庄司が容体を聞きにきた。
「例に漏れずに、言語野の障害……まあ、この場合障害とも言えるのか疑問だけどね。
それを除けば小峰さんは健常者そのものだよ。むしろ健康すぎるくらいだ。とても喫煙者とは思えないね。私が見習いたいよ」
「捜査に復帰できますか?」
「もちろん。私が保証するよ。なんなら面会もできるけど会っていくかい?」
「……いえ。お大事にとお伝えください」
「……小峰さんからもあなたに伝言があってね。『返します』だって。病院で受け渡すようなものじゃないんだけどね」
ドクターが庄司に渡したのは一本のタバコだった。
庄司が小峰に「勝利の御守り」と言って持たせたものだ。
庄司の経験上、こういった些細な事が案外身を助けるのだと思っていた。
今回は、結局なんの効能も無かった。
「どうも」
と言って、庄司は病院を後にした。
ふと、スマートフォンが振動して、誰かから連絡が来たのかと確認するが、それは連絡ではなくニュース速報を知らせてくれるスマートフォンの機能だった。
記事の見出しはこうだ。「異例中の異例。鹿島フーターズGK、カール・ギブソン選手が今夜開催のチャリティーマッチに急遽出場。」
庄司は業務に関係ないと判断すると、スマートフォンをポケットにしまった。
同日、19;00。
新宿区、ピィ事案対策課本部は、追加の改装が決定し、工事が終わるどころかさらに機材と人員が追加された。
作業員の中では一生終わらないんじゃないか。と言う噂まで立ち始めた。
特に一階フロアの休憩室兼仮眠室は、里崎大樹が数日間滞在するために急ピッチで改装が行われた。
改装業社と警察との窓口となった痩せた中年刑事、榊が、突然の追加発注に苛立っている親方の相手をしている。
「だから、『防音処置』ってなんだって聞いてんだよ。これやろうとしたらいっぺん壁ぶち抜かなきゃならなくなるよ?
おたくらそれわかってて今日中にやれって言ってるの? 無理だ無理。予算とか人手とかそう言う問題じゃねえよ。
なんで前もって言ってくれないのかね。おたくらは」
「はいー、こちらといたしましても日々状況が変わるものでして……申し訳ありませんが……。あの、塗装とかは最悪今日中に間に合わなくても結構ですので……。」
榊は頭をかきながら張り付いた笑顔を浮かべている。
一人の刑事が、榊のもとにやってきた。
「榊さん、まもなく到着するようです」
「……うん。とりあえず2階の会議室に行ってもらおう。2階にいる作業員は全員退避。一階の改装工事がお終わるまでは2階は封鎖する。
僕が対応する。他の誰も里崎に近づけるな」
数分後、
里崎を乗せた車がやってきた。
これにも榊が対応する。
「里崎さんですね。お待ちしてました。はるばるすいません」
「あ、いえ……」
里崎少年は、まるで飼い主ができて初日の猫のような印象だった。
それもそうだろう。突然英語が喋れなくなって、学校からは休学を言い渡されて、警察の保護下に連れていかれるまで、とんとん拍子で話が進んでいった。
悪い夢だと、思っているだろう。
「とりあえずお部屋を用意しましたので。ちょっとそのー、まだ色々準備が整ってなくてですね。最初のうちはご不便おかけすることになると思うのですが……」
「あ、はい……」
2階の会議室、広い空間に里崎を案内する。
三百人は収容できる広さの会議室だ。特に今日は、いやに広く感じる。
……ずっとここに収容してしまえばいいのではないだろうか。それで何人助かるだろう。
特事法を使って、未成年までは現在の形で拘留。そして成人した折には里崎に適当な罪をでっち上げて無期懲役を言い渡すのだ。
しかしそれではピィ事案の根本的な解決にはならないと言うことも榊は知っていた。
それでもこれから雪崩式に積み上がっていくであろう事案に、一つ一つ対応していたら時間がかかりすぎると言うことを、今回の「埼玉県英語紛失事件」を通じて榊は痛感していた。
里崎を前に、榊は正直葛藤していた。
里崎を会議室に案内し、榊は部屋の外から離れようとしなかった。
ここには今、里崎と自分しかいない。
……ここで一思いに陰道を渡してしまうのが正義なのではないだろうか。
自分一人が罪を被れば、少なくとも『この事案』は解決する。
きっと、これからこういう決断を迫られる事が増えるはずだ。倫理的、道徳的な方法は後進に任せて、自分が道を作るべきなのではないか……。
榊の指は自然と拳銃に伸びた。
ふと、高校受験を控えている娘の顔が浮かんだ。
退勤時間までは私生活のことは考えないようにしている榊だが、この日ばかりはそうはいかなかった。
自分に、子供を失う親の気持ちを秤にかけてまで、公正のために娘を撃つ覚悟はあるか。
自分にそんな事が出来るか。
出来たらもれなく、自分はサイコパスと呼ばれる人種になるだろう。
公正のために、サイコパスになれる覚悟はあるのか。
榊は目を閉じて考えた。想像の中で娘が高校の制服を身にまとい、朝リビングにくる。
パパ、おはよう。
「おはよう」
榊は返す。娘がパンに乗せたサニーサイドアップを食べる。バターをこぼして制服を汚さないように、注意しながら、そっと口に運ぶ。
彼女に向けて、榊は、奥歯を噛み締めながら拳銃を構える。
頭の中が、口の中が、目の奥が、冷たくなっていくのを感じる。
「私そういえば、新聞部に入ろうと思ってるの。学校の意味のない校則とかを問題に取り上げたりして、コラムを書くの。
生徒に寄り添う報道ウーマンになってやろうって」
「……そう。いいじゃないか」
なれるよ。お前なら。
お前はパパの自慢の……
榊は引き金を……
榊は大きく息を吸い込んだ。
覚悟は決まった。会議室に通ずるドアの取手に指をかけた。
「榊先輩」
ビクッと体を仰け反らせたが、その声で正気に戻された。声のする方向をみたら、いつの間にか湊が2階にきていた。
「湊くん。この階は封鎖されているよ……?」
「あ、すいません。でも緊急事態なんです。里崎くんと話させてもらえますか?」
「緊急……?」
「……あの……今大丈夫ですか?先輩、ものすごく思い詰めてましたけど。」
「いや。なんでもないよ。……里崎くんに何か?」
「ついさっき、omnisがサイバー攻撃を受けました」
「え、」
「負荷のかかる処理はできません。少し強引なやり方ですが、里崎くんのスマートフォンをomnisと物理的に接続して、
omnisの使用可能な容量内でスマートフォンを制御、解析します。あとは・・・事案発生時の録音記録が残ってる可能性に賭けたいと思います。
時間はかかると思いますが現状、これ以上できることが思い浮かびません」
「録音機能か……。やっぱり『音』が関係してるんだね。わかった……。頼んでみるよ」
榊は再び取手に指をかけた。その手を、湊の手が包んだ。
「あの、先輩」
「……どうしたの?」
「私も行きます。一緒に、行きます」
「……僕以外は原則として里崎君に会えない規則になってる」
「でも、行きます。なんとなくですけど……今先輩を一人にしない方がいいと思ったので……」
「なぜ?」
「榊先輩には研修時代からお世話になってるのでわかります。顔を見れば、わかります。……責任を一人で背負い込まないでください」
榊はため息をついた。
「参ったな。まさか湊君にそんなことを言われるなんてね。……わかったよ。一緒に行こう」
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