自由と何も無いは大違い
前章の続き、サンロクに入って最初の食事、昼食の話でもしようか。
サンロクでは基本、大広間で食事をとるのだが、この日は(夕食を含めて)独房みたいな個室で食べた。何故かというと、感染症対策らしい。我輩は精神はともかく、体はいたって健康。困っていることと言えば、人と半日ずれた生活を送ることぐらいだが、まぁ、大した問題にもなっておらず、食事が一日二回である事以外はいたって普通。まぁ、とにもかくにも、一般男性と同じ免疫を持っているのである。
しかし、サンロク(精神病院のほとんど)は、高齢者が多い。目測、8割くらいが高齢者だろう(入院時)。まぁ、彼ら、彼女らは認知症であると予想しているのだが、問題はそこではない。風邪に対する免疫が低下している人達が集まっていることだ。我輩にとっては取るに足らない夏風邪でも、ここの人達にとっては命にかかわる危険がある。そんな場所でウイルスを撒き散らしてみよ、パンデミックの騒ぎどころではない。
と言う訳で、初日は割と部屋でゆっくり過ごしたのだが、記念すべき初の食事もこの独房で食べることになった。メニューはシチュー。でも、色合いからしたらビーフシチューなのだが、肉は鶏肉。もう、しっちゃかめっちゃかである。
だがまぁ、味は普通に美味しいので問題はないが、それよりも食べにくいのである。と言っても、食べ物に問題はない。問題点は椅子に対して、机が低すぎることである。貴方も想像してほしい。ローテーブルやコタツに置かれた食べ物を、椅子に座りながら食べる様子を。
姿勢は前かがみになり、それでも遠くに食器があるので、手を伸ばさなければならない。幸い、食器は軽く、中身の量も大量ではなかったので、手で皿を持ちながら食べることが出来るが、3、4品くらいあるのでもう大変。逐一、持つ皿を替えながら、しかも、小鉢やコップも含めてとっかえひっかえしなければならない。面倒なこと極まりないのである。貴方も食事をとる時は、是非とも適切な高さの机と椅子で食べてほしい。
さて、ちょっと困りながら食事をとっていると、看護師が来た。さっきの看護師とは違い、男性だ。何かな~、と思っていると、彼は近づきながら、
「お食事中すみませんねぇ。体温と血圧、測らせていただきます。」
いや、今かい!?
まぁ、向こうも仕事だし、患者の状態を知るために大切な測定なのは分かるが、飯食ってる時に来るとは思わなかった。だがまぁ、特別断る理由も無いので、箸をおいて体温と血圧を測る。食事中だから変な値が出ないか心配だったが、何事もなく終了。彼は部屋を後にし、我輩は不便な食事に戻る。
食事が終わり、さて、皿をどうしようか、看護師が取りに来るだろうかと考えていたところ、さらに別の看護師(女性)が来た。
「白下さん。お食事、下げに来ました。」
とやや事務的に事を進める彼女。我輩はお願いしますと反射的に言い、その行動を見つめる。そして、ふと思いついた疑問を口にする。
「すみません。ここのルールとか、何か注意することとか、何かあるのか?」
そう、我輩、サンロクに来てまだ1~2時間ほど。病棟の案内と持ち込める物の説明はされたが、他は何も知らない。次の食事の時間とか風呂のこととか、スケジュールと言うか予定と言うか、そんな感じのことを一切知らない。また、ここは精神病棟。言い方が悪いが『ワケアリ』の人達が集まっている。心構えの1つや2つ、必要だろう。なので、一定の知見があり、なおかつ日頃からそういう人達と接している彼女から、何か参考になることが聞ければ嬉しいものだ。
しかし、彼女は顔をしかめる。
そう邪険に扱わなくても良いじゃないかと思いつつ、言葉を足す。
「いやぁ。ここって色んな人がいるだろぅ? なもんで、何か聞ければなぁと。」
彼女も納得したのか、一つうなずいて、
「ああ。ここは年配の方が多いので、持ち物に名前を書いておくことですね。あと、部屋に入って来る人もいるので。鍵があるので使ってください。」
とドアノブを指さす彼女。確かに、鍵がついている。
「あと、ここは友達を作る場じゃないので、ほどほどの距離感で。」
「ほどほど?」
我輩が聞き返すと、彼女はええ、と言って部屋から出ていった。
なるほど、ほどほどかぁ。これが難しい。人間関係に限らず、何事も適切な状態が好ましいのは承知しているつもりだが、現実問題として、それを成すことを我輩は苦手としている。踏み込めば距離は近づくし、離れていれば遠いまま、名も知らぬ相手となる。だがまぁ、様子を見るという意味でも、しばらくは一人でいてみるか。
と解決案を出したとき、我輩に新たな問題が降りかかる。いや、それは一度出ていた問題でもある。
それはサンロクのスケジュールである。スケジュールと言う言い方が壮大なのであれば、時間割でもいいし、日課でもいいし、予定でもいい。とにかく、この後の事が知りたいのである。直近のことで言えば、晩御飯はいつなぁ、とか、風呂はいつかなぁ、いや、病院だから曜日で男女別れているのかぁ、とか、不毛な想像と時間の浪費をしなければならないのである。
仮に、6時から夕ご飯なら、それまで寝よ、とか、本を読もうとかできるが、何も知らないとご飯がいつ来るかとびくびくしながら待たなければならない。
結論 スケジュールに組み込まれた自由時間は謳歌できるが、何もない世界では、いつ、どこで、何が起こるか分からないので、気も揉むし、部屋からも出にくい。それは、まるで見えない何かに阻まれているようである。
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