身代わり

 薄明かりの灯るリビングで里古は一人後悔を募らせていた。

 これまで何度も考えては閉じ込めた感情を、胸の奥から引っ張り出し、募る愛しさを噛み締めていた。

 初めて彼を目にした時、大好きな姉の瞳が脳裏を掠めた。

 里古より五年先に生まれたからか、姉は落ち着いた性格で怒ることはあまりなく、いつも妹を優先してくれる優しい人だった。

 同性から見ても溜息が出るほど美しく、何より清らかだった。漆黒の瞳に陶器のような肌、心の美しさは危ういほど無垢で、清廉な姉は里古の自慢だった。


 そんな姉を彷彿させる少年の瞳に生気はなく、佇まいは既に世捨て人のように思えた。

 ただ、そうは言ってもまだ子ども。柔らかそうな丸い頬は、短い命で終えた我が子の肌を思い出させた。

 少年の頬にそっと触れると、指先が知る感触が罪の涙を流させた。

 幼い面持ちは笑顔など知らず生きて来たのか、いくら声をかけても寡黙だった。

 わけも分からず、死んだ息子の身代わりに檜垣家ここに来た経緯を考えれば、表情は凍ってしまうのかもしれない。ましてやよその国から売られてきたのだから。


 頑なに閉ざされてしまった心は、この愛くるしい瞳で醜猥しゅうわいなものを目にしたせいで作られてしまったのだと想像出来る。

 檜垣は言っていた、都合のいい子どもが手に入ると。

 極上の顔をしてるが、難点が一つ。その子どもの体には上半身の半分を覆う蒼い痣があるらしいと。

 生まれたての赤ん坊によく見る蒙古斑ではなく、小さな体のそれは、一生消えることのない醜い痣だ。それでも極上の墨をったような瞳と、つい差し伸べたくなる肌は愛おしい気持ちを思い出させる。


 お風呂に入れてやると、拙い手で痣を必死で隠そうとする姿が健気だった。

 笑顔もなく、言葉も分からない。だからこそ、この小さな手を握り締め、守りたいと思った。

 ただひとつ、許して欲しいのは、失った小さな命と同じ、『冬亜』と呼ぶことだった。

 遠い国からやって来た彼を愛し、賢く強く、この先、もし自分に何かあっても、一人で生きていけるようになるまで見届けようと決めた。それを勝手に償いと思ってしまった。


 だが現実はそんな夢物語のように、上手くはいかない……。

 年月を重ねて過ごすうちに、彼の中には深く、底のない闇があるのだと知った。

 闇を覗き続けると、我が身も引き摺り込まれそうな感覚に陥る……。


 一人では広過ぎるリビングにソファ。

 溜息は広い部屋で迷子になり、里古は蓄積する悔恨に打ちひしがれていた。

 檜垣家の娘として生まれた姉妹。

 多忙な父に不満も言わず、姉は早くに亡くなった母の存在を補うよう、いつも側にいてくれた。

 後継になることは了承していたが、姉には姉の夢があった。だが、『檜垣家の長女』は、宿命には抗えず、大学を卒業した後、婿養子を迎えて家を継ぐことになった。


 姉は拒否することもなく、父や祖父の話しを素直に受け入れた。ただ、嫁ぐ前に最初で最後の我儘を父に持ちかけた。それは三年間だけ夢を叶えたいと言うこと。

 父は快諾し、その間に檜垣家に見合う相手を探すと豪語していた。

 姉は夢を叶えるため、様々な国を旅した。

 そして三年目に入った年、中国の友人を頼って旅に出た。戻ったら父の決めた相手と結婚すると約束し。

 だが、一ヶ月間と言う限られた期間を過ぎても姉は帰って来なかった。

 期限が一週間、二週間過ぎても戻らず、友人宅にも帰っていない報告を受け、連絡も取れなかった。


 心配の余り里古は中国へ行くことを何度も父に懇願したが、まだ高校生だった彼女に許可は降りず、父の部下が様子を見に行った。だが、姉を見つけることは出来なかった。

 父はあらゆる権力と資金を駆使し、姉の行方を辿った。そして分かった事は、ボランティアをしていた幼稚園に向かう途中に消えたことだった。

 小さなリュックに収まる程度の荷物と一緒に。


 知らされた里古は心臓を抉られるような苦痛を味わい、白痴のように泣き叫んだ。

 姉の失踪に父も最初は捜索に意欲的だったが、事業の忙しさにかまけ、次第に姉のことが記憶からかき消されていくのが側で見て嫌でも分かった。

 姉が行方不明のまま月日は過ぎ、里古は大学へと進学した。そして父に言われたのは、姉の代わりに跡取りになること。卒業したらすぐ結婚をするのだと、姉の二の舞にならないよう、早々に相手を用意された。


 結婚相手は皮肉にも、友人として父に紹介したことのある大学の同級生だった。

 それが不幸の始まりだった……。

 結婚後、父の部下の裏切りから始まり、その責任を檜垣が取らされ地位を剥奪された。

 そんな中、里古は男児を出産した。

 息子の誕生に当初は喜んでいた檜垣が、ある日突然息子を邪険に扱うようになった。

 夫婦の間もギクシャクし、追い討ちをかけるように父が事故死した。


 檜垣は祖父の命で社長の座に収まり、檜垣が意気揚々とする反面、二人の関係は益々冷めていった。

 幼い息子が父の愛を求めても、異物でも見るような目で小さな体には触れようともしない。

 息子が自立を自覚すると、拙い言葉も煩わしいと邪険にし、我が子を無視するようになる。

 檜垣を見ると息子は大泣きするようになり、繰り返す泣き声に異変を感じた隣家の住民にとうとう通報された。


 役所の人間が何度来ても対応するなと言われ、檜垣に逆らうことが出来ず里古は口を閉ざした。

 そんな時、父の遺品整理に会社へ訪れたとき、聞いてしまった檜垣の不穏な電話。

 相手は明らかに社の人間ではない。ただ、それを確かめることは怖くて出来なかった。

 家に帰って来るのも、ただ眠るためだけで、怯えて泣く息子を鬱陶しそうに睨みつけていた。泣き声に再び通報され、何度も役所の人間が訪ねて来た。


 里古は思った。

 役所の人間でもいい、誰かに縋りたかったが、里古は檜垣に逆らわなかった。

 それは、過去に犯した良心の呵責に苛まれていたからだ。


 結婚前、里古には好きな人がいた。

 相手は里古が大学生になったころ、送り迎え用にと父が雇った運転手だった。

 野性味溢れる日に焼けた肌と屈託のない笑顔が、これまで知らなかった刺激を芽生えさせた。

 互いの気持ちは絡まる視線で伝わり、でも絶対に父は許してくれないと分かって諦め、里古は檜垣との結婚を選んだ。


 結婚の準備が着々と進む中、ふと里古は姉のことを思い出し、父に言われるがままの自分を振り返った。

 瑞々しく生きている証が欲しい──。

 里古は自分に言い聞かせた。

 一度だけの反抗……。その欲が後押しし、運転する男の背中に声をかけた。そして里古は男と情事に落ちた。

 たった一度だけと言い聞かせ……。


 だが、これまで知らなかった多幸感を覚えた里古は快楽に溺れ、二度、三度と男と体を重ねた。そして迎えた結婚式間際、男は罪に苛まれ姿を消してしまった。

 そのあとだった、里古が身籠ったことを知ったのは。

 檜垣との体の関係は結婚前を理由に拒み続け、式の夜の一度だけ。

 妊娠は嬉しかった。

 しかし、タイミング的にお腹の父親はどちらか分からない……。


 分からないまま自分の中ですくすく成長し、里古は男児を出産した。

 新生児室で我が子を目にし、檜垣は首を傾げていた。そして彼がボソッと口にした言葉、どっちにも似ていないなと。

 里古は咄嗟に、赤ちゃんはこんなものだと言い切った。


 一度口にした疑念は、檜垣の中で息子の成長と比例するよう膨れ上がっていたのかもしれない。そしてとうとう、檜垣の猜疑心は形となって里古に突き付けられた。

 幼稚園に通うようになった息子の唾液を採取し、檜垣は然るべき機関へ依頼した。

 DNA鑑定結果。

 科学的根拠のもと、揺るぎない事実。

 そこに書かれていた内容は、父と子の親子関係の可能性はほぼないに等しい数字だった。


 檜垣の子どもではなく、恋した男の子どもだった。


 その結果を喜んでいた自分への罰なのか、幼稚園で描いた絵を見せようと、『お父さん』と初めて口にし、檜垣の側に歩み寄った息子。

 その時、悲劇は起こった。

 二階に向かう檜垣を嬉しそうに追いかけ、スーツの裾を掴もうとした息子を、檜垣は手で思いっきり振り払った。

 小さな体は階段の中程から階下へ落下し、脆い肉体は無慈悲にも床に激しく打ち付けられた。

 驚愕しながらも、里古が救急車を呼ぼうとしたが、その手を檜垣が阻めた。


 檜垣の運転で自家用車に乗り込み、向かった先は、隣県にある小さな民間病院だった。

 息絶えそうな命を医師に託し、薄暗い病院の廊下で無事を祈った。

 他に患者の姿もなく、対応した医者以外には誰も見当たらない、暗い、陰気な場所は本当に人の命を救う場所なのかと疑いたくなった。


 数時間後、処置室から出てきた医師に里古は無情な言葉を突きつけられた。


 ──打ち所が悪かった、手の施しようがなかった。


 幼い命は一瞬で消えてしまった。

 まだ数年しか一緒に生きていない、愛しい人の子ども。

 悲嘆していた里古に、檜垣が放った言葉は今でも忘れらない。


 ——代わりの子どもがいるな。


 その言葉に耳を疑った。

 檜垣が続けて放った言葉は、我が子の死亡をなかったことにし、生きていることにすると言う。そんな悪魔のような行為が許されるはずないのに。


 ——どうせ死んだ子も、自分の子ではないしな。


 耳をつんざいた檜垣の言葉は、まるで『死んだのは、お前のせいだ』と言っているように聞こえた。その理由を里古自身が一番わかっている……。


 告解するよう瞳を閉じ、里古はソファに深く背中を預けた。

 我が子が死んでからずっと、心の深いところに魍魎が巣食っている錯覚に囚われている。

 自分の中に、身勝手で醜い部分があることを忘れるなと、ずっと見張っている。


 玄関から聞こえたドアの開く音で我に返り、廊下を歩く聞き慣れた足音に体が強張った。

 リビングのドアが開き、数ヶ月ぶりに檜垣が姿を現した。

 相変わらずの無表情は、他人をみるように見下ろしてくる。


「お、おかえり……なさい」


 彼を前にすると、後ろめたさからか唇が震えて言葉が詰まりそうになる。

 臆病な振る舞いも檜垣がこの家に帰らない理由のひとつ、それも分かっている。

 全て自業自得なのも分かっている。

 自室へと向かう背中を見送りながら、里古は安堵のため息を溢した。


 惰性だせいで飲んでいる抗うつ剤も役に立たないこの心は、一生、檜垣への恨みと懺悔で擦り減っていくのだろうか。それならいっそ、気でも狂って自我を失う方が幸せかもしれない。

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