姉と弟
普段から警戒心を持って行動することを徹底しているのに、今、素性も知らない男と一緒に冬亜は新宿の街を歩いている。衝動的な行動は、地雷を踏むことになるかもしれないと言うのに。
常に冷静に考え、無謀な行動は避けて来た。だが、男に掴まれた腕の強さと、口にした話で目つきが変わった。それだけが気になって、こうしてあとをついて歩いている。
十五分ほど歩いて辿り着いた場所は、さっきまでいた路地から離れた場所にある、比較的明るく人通りも多い場所だった。
紫の古風な看板に、ドアに貼られたミックスバーの文字。
ドアを開け入って中年男がママと呼んだ相手は、過去に男だったと言う名残りの声と体格を持つ人間で、この店がゲイ御用達のバーなのがわかる。
「ちょっと三国ちゃん。珍しいじゃないツレがいるなんて。しかもこんな若くて可愛い子なんて、一体どうしちゃったのよ」
マキが品定めするよう冬亜の頭から爪先まで、舐めるようにジロジロと眺めてくる。
服装や髪型は女性らしさを模倣していても、ファンデーションの下から薄っすら見える青い髭が、彼女の中の美醜を隔てていた。
「悪いママ。ちょっと野暮用でさ。カウンターの隅っこ借りるよ」
ビールと冬亜にはコーラを注文し、三国と呼ばれた男はL字型になっているカウンターの奥側の席へと座った。隣の椅子をポンと叩き、冬亜へ座るよう合図をしていくる。冬亜は黙ってそれに従った。
話の切り口を探っているのか、中年男──三国が黙りこくっている。微妙な空気に遠慮したのか、マキがそっと注文の品をコースターの上に置くと何も言わず反対側のカウンターへ身を寄せた。
「あんた、ミクニって言うんだ」
「ああ、そうだ。三に国の三国だ。君は」
「冬亜。高二です」
「ふーん、高校生がこんな時間にこんな場所でうろつくのも気になるけど、とりあえずさっきの続きだな。冬亜君、曳原って君の家庭教師が今も行方不明なんだな」
三国が上半身を左に傾け、小さな声で確認してくる。
店内にいる客は、入り口近くのカウンターに座ってマキと賑やかに話す二人組の男と、テーブル席で二人だけの世界に浸っているカップルがいるだけだ。
誰も冬亜と三国の存在を気にする様子もなく、マキだけが時折横目でチラチラとこちらを見てくる。
冬亜は三国の視線に合わすよう上半身を捻ると、出まかせの言葉を裏付けるよう頷いた。
「高校生の君には想像出来ないだろうが、船に乗せる理由はさっき話した他にも、借金、若しくは命を狙われて逃げてるって線も考えられる。男の電話の内容だと、その曳原って人はヤバい状況なんじゃないのかって思うな。家庭教師は借金でもあったのか? それとも恨みでも買うような人間なのか」
ビールを半分ほどまで一気に呑むと、三国がCMのように口元の泡を拭っている。
「それは分からない。けど、曳原は会社を経営していた、経営コンサルタントってやつ。その合間に英会話を俺に教えてくれてた。その対価としてうちから、結構な額の授業料を受け取っていた。だから金には困ってないはず──」
言いかけて冬亜は言葉尻を濁した。
檜垣からすれば曳原への報酬など端金だ。だが、こう何ヶ月も音沙汰がないことを、例えば里古から何か聞き、不審に思ったりしていないのか。いや、あの夫婦はもう終わっている。会話などここ最近見たことはないし、それ以前に檜垣は家に帰って来ない。
家庭教師の存在など、きっとどうでもいいと檜垣は思っている。だが、突如と消えた曳原が今どうしているのかは気になった。さっきの男の話しも唆られる。
高級なスーツやブランドを身につけ、檜垣のような人間とも親しくしていた。そんな男がマグロ漁船に乗ってるなんて、想像しただけで滑稽すぎる。
それに、三国が追いかけていた誰かの方にも興味が湧いてしまった。
「まあ俺の経験上、フリーで経営コンサルタントを名乗るやつはあまり信用できない。第一、いくら課外授業と称しても、高校生を夜の渋谷に連れ出すのは常識人のすることじゃないな」
「普通はそうだろうね。でも俺は楽しかったけどな。英会話もだけど、中国語もできるようになったしね」
「へえ、そりゃ大したもんだ」
「それより三国さんは、何であの店を見張ってたんだ」
冬亜は曳原のことは一旦置き、好奇心を解消すべき質問を投げかけた。
「ああ、あれは……まあ、ちょっと気になる人がいてさ」
「ふーん、三国さんはあそこにいる、金で股を開く女が好きなのか」
「君なあ、そんな言い方をするな。高校生のくせに」
「じゃあ何の用で?」
「それは──まあ、好きとは違うが、一人の女性が気がかりでね」
「女性? やっぱり好きなんじゃん」
「だから違うって。どうもその人は虐待……いや違うな。それに似た暴力を好む性癖の客を相手に仕事をさせられている、それがどうも気になってね」
「性癖? SMとかってやつ?」
聞き返すと、三国が自身の口を咄嗟に手で覆う仕草をしている。
高校生相手には相応しくない話題とでも思ったのだろう。
「どう……だろうな。俺には分からない。どうも、昔の職業柄なのか気になっててさ」
「職業柄? 何の仕事してたのさ」
「児相──児童相談所って分かるか?」
「それくらい分かる。そこで働いてて何で虐待とか気にすんの」
親のいない子どもの面倒を見る場所なんだろと言う冬亜に、それもだけどと、三国の言葉が続く。
「親がいても、子どもを保護しないといけない環境に置かれている場合があってな。衣食住、生活面全てにおいて世話をしないネグレクトや、暴力を振るわれて虐待されているケースも多い。俺はそんな子ども達をたくさん見てきた」
「児相ってそんなこともしてくれんだ。だからって風俗で働いてる人のことも気になっちゃうなんて、三国さんはお人よしだな。でもその人は大人なんだろ? 嫌なら自分で解決すればいいだけだろ。三国さんが気にかけたって一文の特にもならないんじゃん」
正論だろ? と冬亜が三国を見ると、なぜか沈んだ横顔がそこにあり、何か訳ありなのかと彼の言葉を待ってみた。
「彼女は普通の女性じゃない、いわゆる発達障害ってやつだ」
「発達障害?」
「そう。話す言葉も辿々しく……。あ、でもそれはきっと日本人じゃないってこともあるだろうけど。言動や仕草は大人の女性ではないんだ。幼児言葉も口にしていたし……」
冬亜はフーンと鼻で息を吐き、コーラを一口飲むと氷をガリっと噛み砕いた。
「きっとさっきも彼女は逃げ出して、またこの店に来ようとしたんだな」
「この店? 何でここへ来るんだ。あ、ママの知り合いか」
「いや、違う。俺もママも彼女のことは知らないんだ」
「でもさっき『また』って言ったじゃん。よくここへ来てるってことだろ」
「彼女がここへ来る理由は、多分この店の名前なんだと思う」
「店の名前?」
意味が分からず、冬亜は大袈裟に見えるくらい首を片側に傾けて見せた。すると三国が、カウンターに置いてある小さな籠から、店の名刺を冬亜の前に差し出した。
「え、これって──」
薄紫の色で染められた小さな四方の紙に毛筆字体で書かれた店名を見て、冬亜は瞠目した。
「この店の名前は『翠蓮』なんだ。彼女はここへ何度かやってきた時、その名前をずっと連呼していた。可愛い、大好き、そして『おとと』と。その言葉を何度も嬉しそうに言っていた。だから俺は気になって──」
三国の言葉が紫煙のように漂い、スウッと冬亜の心に染み込んできた。さっきまで感じていたおもしろおかしい感情は消え、眼球がこぼれ落ちるかのように瞳を大きく見開いた。
「す……いれ……ん?」
「ああ、翠蓮だ。それがどうかし──」
冬亜は殴りかかるような勢いで三国の腕を掴んでいた。
「な、なあ……。その……女の人、あんたは名前知って……るか」
震える声で冬亜は三国に聞いた。脳内を占める予感が高揚している。もしかして、もしかしてと、頭の中で同じ言葉がぐるぐると渦巻いている。
「あ、ああ。えっと……確かシュ……、そう、シュエリンって言っていたな」
三国から弾き出された名前を聞いたと同時に、冬亜は勢いよく立ち上がった。振動でグラスが倒れ、カウンターの上に広がった炭酸がパチパチと小さな気泡を破裂させている。
「シュ……エリン……」
荒げた音に反応したマキが、布巾を手に側に来ると、カウンターの上を拭きながら視線で三国に何があったのと、問いかけている。冬亜は目の前の光景など気にも留めず、全身が石膏で固められたように動けずにいた。
「おい、冬亜君どうした。まさか、知ってる人なのかっ」
三国に問われても冬亜はすぐに反応出来ず、瞬きを忘れた双眸からは雫が溢れそになっていた。
「ねえ、さ……ん」
心許なげに漏らした言葉に、今度は三国が目を見開いた。
「ちょ、今『姉さん』って言ったか。もしかして彼女は……君の姉なのかっ」
体を揺さぶられても心と頭が追いつかず、心臓を抉られるような痛みに襲われ、呼吸の仕方も分からなくなるほど息苦しく、手は縋るように自分の胸元を掴んでいた。
「ね……さん、ね……さん……生き……て」
大好きで大切なたった一人の家族。幼いころから愛情を注いでくれた人。一緒に過ごした思い出が一気に溢れ、冬亜は考える間に椅子から飛び降りていた。ドアへ向かい、外へ飛び出そうとしたとき、三国の腕を掴まれた。
そのまま後ろへ引き戻されると、よろけそうになった冬亜の体を三国が受け止める。
「やめとけっ。あそこはヤクザの店で、さっきの男は組員だ。お前みたいな学生が行ってもどうにも出来ない。返り討ちに合うのがオチだ」
「離せよっ、姉さんを連れ戻すんだっ」
三国に掴まれている手首を、冬亜は必死で振り解こうとした。
「先走るんじゃない。会いたい気持ちは分かる、でも今じゃない。それに一人でのこのこ行けばお前まであいつらの餌食にされるぞ」
「俺のことはほっとけよっ」
この世で唯一無二の存在。もう死んでいると諦めていた相手が生きてすぐ側にいた。そう思うと居ても立っても居られなかった。だが、肌に痕がつくほど握られた腕は解けず、冬亜は硬直していた体を弛緩させ、宥められるように椅子へ腰を下ろした。
「冬亜君、彼女は本当に君の姉さんなのか」
落ち着いた声で問われても、今すぐさっきの店に行きたい衝動は消えない。
売られて船で運ばれていたときに聞いた、ブローカーの話しに絶望したことがあよみがえる。
臓器を抜き取られ、殺されたかも知れない。あの美しい姿を汚い男たちの手で穢されたかもしれない。想像もしたくない現実が浮かんでは、でも奇跡を信じて思考を上書きし、せめて生きていればと祈ることしか出来なかった。
小さな島国でも、人ひとり探すのは至難の技だ。それでも諦めきれず、曳原と出歩く繁華街でいつも姉の影を探していた。望みは髪の毛一本分もなかった中で……。
「……俺のもう一つの名前は
祈るように組んだ両手を額に押し当て、冬亜はカウンターへ顔を伏せると小さく呟いた。
「なぜ、彼女はあんな店で働いてるんだ。なぜ、君たちは日本に……。親はいないのか? どうして離れ離れになった」
矢継ぎ早に質問されても、混乱した頭で、しかも初対面の男にどう話せばいいのか判断がつかない。そんな冬亜の様子を悟ったのか、三国が悪いなと言い、冬亜の頭頂部へ手のひらを乗せてくる。
「……あんた──三国さんは一人っ子政策って分かるだろ?」
冬亜の質問に三国が無言で頷く。
「両親に姉──女児が生まれ、夫婦は二人目を作ることが許された。で、俺が生まれたんだ。けど、生まれた俺は男児なのに、外に出て陽の光を浴びることも許されない、家族とも切り離された生活を余儀なくされた」
「どう言うことだ。男児なら二人目でも普通に……そう、学校にだって通えるはずだろ。それに太陽を浴びれないって、それってまるで地下生活みたい──」
最後まで言い終わらないうちに、三国は口を閉ざしてしまった。そのまま何か言いたげな顔になり、冬亜の言葉を待つようジッと見つめてくる。
「俺の体には一生消えない醜くい痣がある。体の半分を占める、悍ましいくらいに大きな蒼い痣がね……。それを不気味だと、呪われた縁起の悪い子どもだと罵られ、俺は家族、いや、人としても扱われなかったんだ」
「そんなくだらない理由で子どもを地下に閉じ込めていたのか。実の両親だろっ」
馬鹿正直に怒りを露わにする三国を一瞥し、冬亜は薄っぺらく笑った。
「最悪なのはこっからでさ、暫くして弟が生まれたんだ。コッソリ生まれた弟は普通の健康な子どもだった。そうなると俺の存在は益々邪魔になった。俺はヘイハイツとなって、弟が長男として家族の一員となった。俺は……最初からいなかったことにされたんだ」
「なんだそれっ。馬鹿げてる。人を、人間を何だと思ってるんだ!」
三国が震えるこぶしでカウンターを叩くと、マキや客達の視線が一斉に集まった。怪訝な表情の客達に謝罪の言葉をかけたマキが、「何事よ」と駆け寄ってきた。
「悪い……。大声出して」
反省を口にしても、三国の表情は尋常じゃない怒りに満ち溢れている。その様子にマキも必要以上に問い詰めることはせず、静かに飲んでよと、一言だけ残し、その場を離れた。
冬亜は自分の横でまだ憤怒する三国とは反対に、元々の冷静さを取り戻していた。直接的な同情を向けられても、心は温かくなるどころか、冷たく凍っていくだけだ。
不幸な昔話をしたところで、過去が変えられるわけもない。実の親から名前以外与えられなかった冬亜には、守ってくれる人間など初めから誰もいなかったのだ。
「でもシュエリンだけは違ったんだ。障がい者でも、彼女は唯一俺に優しさをくれ、愛情を注いでくれた。美しかった日本人の母に似てシュエリンも綺麗だった、身も心も。母からも遠ざけられた俺に、愛を届けてくれる唯一の存在が姉だったんだ」
「日本人……? お母さんは中国で育った日本人か?」
「さあ知らない。知ってるのは日本人ってことと、幼稚園の先生だったってことだけ。ああ、それと絵本だな。姉は母から読み聞かせてもらった本を丸暗記し、それを俺にも読んでくれた。俺たち姉弟が覚えた唯一の日本語だ」
何度も読み返しボロボロになった絵本。たった一つの愛の証を思い出し、冬亜は、ふと自分の生い立ちをなぜ三国に話しているのかと我に返った。
初めて会った赤の他人に、明け透けに語る自分が自分で信じられない。それでも問われれば自然と答えてしまう。まるで溜めていたものを吐き出したいかのように。
「じゃあその母親と一緒に日本に来たのか」
「違う。俺とシュエリンは父親に売られたんだ」
「売られたっ?」
冬亜の言葉で声を荒げた三国が、しまったと、マキに向かって肩を竦め、小さく会釈して声にならないごめんを伝えている。
「俺は臓器を取られるか、スレイブになる覚悟をしていた。けど、運良く子どものいない金持ちの家の養子になった。そこの奥さん──義理の母って言うのが、俺の顔を気に入ったんだろうな。なあ、こんな話し珍しくないだろ。あんたもいい歳なんだ、これくらい世界ではよくある事だって知ってるだろ。でも、まあ、ぬるい考えの日本人にはあまりにも現実離れしてるか」
鼻を軽く上にフンと突き出し、小馬鹿にしたように冬亜が悪態を吐いた。チラリと横目で三国を見下げると、ショックを受けたような顔で目を伏せる姿があった。
「姉は障がい者ということを除けば、縁談話しがあるくらい器量よしだった。でも、会話すらまともに出来ないと知ると、奴らは態度は翻した。姉だけでなく、醜い体を持つ俺も同じだ。俺たちを守ってくれた唯一の母親が死ぬと、金のために俺らは売られた。健康で元気に働ける子どもが男児がいるから不要だったんだろ」
話し終えると冬亜は、クソつまんねー話だろ、と言って冷笑した。
だがそこにあったのは、悲哀の色を滲ませる顔だった。
「なんだよ、同情か?」
「……いや。ネットや本なんかで知った気ではいたけど、実際に経験した子どもの話を聞くのは堪えるな。君に優しい言葉はいくらでも言えるけど、それは希薄だ……」
三国の言葉に、冬亜もそりゃそうだと頷き苦笑した。
「君はお姉さんをあそこから救いたいんだろ」
三国の質問に、冬亜は即答出来ずにいた。
会いたい、一緒に暮らしたい。ずっとそう思っていた。でも今の自分の立場はどうだ。
養子でも何でもない。明らかに自分ではない戸籍に乗っかった状態は、この世に存在していない無国籍孤児と同じ、とてつもなく不安定な人間だ。
あの戸籍には、何か理由があって檜垣がそのままにしている。
冬亜ではない、同じ名前の実子……。
檜垣に不要だと判断されれば、偽物の人間は直ぐに排除されるのは確実だ。
高校中退、おまけに住所不定の人間となり、まともな人生はもう手に入らない。ましてや会話も出来ない姉を抱えて、誰が手を差し伸べてくれる? まともな仕事にもきっとありつけない。そんな結末にならないよう、注意を払ってこれまで過ごしてきたのだ。
奇跡的に命が助かった、これから先は何が何でも生き抜いていく。
幼い頃に味わった地獄には絶対に戻りたくない。
でも今のままじゃ、シュエリンを守ることはできない……。葛藤だけが体の中で出口を求めて渦を巻いている。
「俺、さっき言ったよな。昔児相にいたって」
彷徨っている冬亜の耳に、三国の声が聞こえた。
「それが?」
「お姉さんが専門の施設で過ごせないか調べてみるよ。今は役所に限らず、民間でもそういった人を受け入れる施設が出来ているんだ、まだ少ないけどな。東京じゃなく、地方を中心に探せばいい。あんな仕事……ただ傷つけられるだけの環境にいたらダメだ」
「何であんたがそんなことを。今日会ったばっかの人間だぞ、俺は」
信用できる男かの是非も分からない今、冬亜は両手を上げて三国の話に乗ることが出来ない。何か魂胆や企みが潜んでいるとも考えられる。
「……児相の仕事をしていた時、俺は一人の子どもの命を救うことが出来なかった。挽回したくても仕事は取り上げられ、挙句、その場所からも追い払われた。小さな命を無碍にし、のほほんと生きているやつを俺は許せない。これは俺の中の僅かに残った正義なんだ」
暴力団絡みの店で軟禁状態のシュエリンを救い、共に暮らすことは現実的に今は難しい。高校生という中途半端な人間には、法的処置すら無知で、例え方法があったとしても最悪、中国に戻されてしまう。そうなれば、また同じ末路が待っている。三国を信用できなくても、今は、目の前にいるこの男に頼るしかない。
シュエリンを助けるために……。
「……お願い……します。知恵を貸してください」
冬亜は深く頭を下げた。すると、下ろしていた頭の上に再び温もりが触れる。
「礼を言うのは早いかもな。俺は現役を離れてもう何年も経つ。でも、昔取った杵柄じゃないけど、僅かに残った俺の
凛々しさの籠る笑顔で、三国がスマホを取り出した。冬亜もつられて同じようにポケットからスマホを出すと、教えられた三国の番号を登録した。
三国がふと手を止め「苗字は?」と尋ねてきた。
「苗字? それっている? まあいいけど。檜垣ですよ、檜垣冬亜」
改めて名前を名乗った冬亜は、瞳孔を開き、こちらを見据える三国にギョッとした。
肌は急速に張り詰め、唇は意思を持って左右に強く引かれている。目の下の涙袋がピクピクと痙攣し、彼の息遣いまでもが早くなったように感じた。
三国の様子は怒りのような、興奮のような、何か熱い感情を堪えている表情に見える。
「登録……できたんですか」
スマホに人差し指を添えたまま、冬亜を凝視してくる三国に声をかけた。
「あ、ああ」
ぎこちない返事をされ、わかりやすく逡巡する三国を今度は冬亜が見返す。
「何、俺の名前……『檜垣』がどうかしたんですか」
三国が『檜垣』と言う名前に反応したのは明らかだった。
「いや……何でもない。それより今日はもう帰れよ。高校生がこんな場所でこんな時間にいると補導されるぞ」
わかりやす過ぎるその場凌ぎの言葉を言い捨てると、冬亜は強引に背中を押され、必ず連絡すると、ひと言添えられると三国に店から追い出されてしまった。
店の外に出た冬亜は、三国の異変を気にしつつも、ドアの傍で煌々と灯る紫の看板に目を向けた。そこには名刺と同じ字体で『翠蓮』と書いてある。
「姉さん……」
名前をちゃんと覚え、この看板を見つけてくれ、『弟』と記憶に留めてくれていた。それが何より嬉しく、すぐさまシュエリンの元へ飛んで行きたくなる。
何をさせられているか、きっとシュエリンは分かってない。そんな状況に、怒りと憎しみと悲しみが腹の底で混沌と燃えている。
体から放出されそうな慟哭を腹の底へ押し込み、冬亜は制御できない感情を、今も隣の国でのうのうと生きる父親や祖父母に向けていた。
許さない、許さない、あいつらを見下してやりたい、殺してやりたい。
清廉なシュエリンを汚し、子どもを簡単に売って己の私利私欲を満たす、殺しても殺し足りない仇という名の肉親。
煌々と輝くネオンの海を睨みつけることで、冬亜は湧き上がる憎悪を必死に堪えていた。
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