歌舞伎町

 夏休みだったのが幸いし、久下たちの事件も木船が事故死した件も、噂こそたったが、詳しい真相を知るものもおらず、生徒たちの言葉の語尾は疑問を象るものにしかならなかった。

 報道も未成年の事故と簡略したニュースで留まり、暴行事件に関しては被害者の体裁を重んじ、情報は一切報じられることはなかった。


 夏期講習も終え、暇を持て余していた冬亜は、里古の作る夕食を済ませたあと、久々に新宿の駅に降り立った。

 慣れた渋谷のクラブやカフェバーに行こうかとも思ったが、なぜか今夜は違う場所へ行ってみたくなり、冬亜は曳原とたまに来ていた新宿歌舞伎町に足を運んだ。

 真っ赤なネオンのアーケードを通り抜けると、あちらこちらから客を捕獲しようと呼び込む甘い誘い文句が聞こえてくる。

 数歩歩くごとに、下着が見えそうなミニスカートの女子に声をかけられたり、ヒエラルキーの底辺にいるような男が、ポッキリ値段をアピールして店へと手招きしてくる。

 冬亜はそんな連中を無視し、当てもないまま先を進んだ。


 メインの通りを暫く歩いていると、目の前の路地から女性が飛び出し、冬亜はぶつかりそうになった彼女の体をスルリと躱した。彼女は冬亜の真横を通り過ぎると、ピンクのガウンを翻し人波の中へと消えへと行った。すると直ぐそのあとを追いかけるよう路地から男が飛び出し、今度は思いっきりその男とぶつかってしまった。


「痛ってーな。何する──」

「邪魔だっ! どけっ」

 男に罵声を浴びせられ、舌打ちを投げつけられた。明らかにチンピラ風な男の身勝手な態度にムカつきながらも、面倒ごとに巻き込まれないよう冬亜はその場を離れた。

 通りの端までくると若者で賑わっているバーを見つけ、冬亜は何気なく中へと入った。

 店内はスタンドバーになっていて、テーブル席は入り口側の外にだけ設けられている。

 カウンター越しに度数の低いカクテルを注文すると、すぐ隣で既に顔を赤らめている二人組の女性が声をかけて来た。

 ふた言み言会話を交わしたが、くだらないと感じた冬亜は適当な返事をして二人に背を向けて店内を見渡した。


 店の中は薄暗く、客達から吐き出される紫煙だけが白く揺蕩っている。

 空気の悪さに眉間を歪ませ、冬亜はグラスを片手に空席だった外のテーブル席に移り、通りを歩く人間を観察していた。

 声をかけてくる人間はいたけれど、会話を続ける気分になれない。体調が悪いわけでもないのに、気怠いため息が無意識に口から溢れてくる。


 なんかだるいな、今日は帰るか──。


 席を立とうとしたとき、喚き立てる女性の声と、男のがなり声が聞こえてきた。

 夜の街ではよくあるいざこざかと、罵声がした方を一瞥すると、さっき冬亜とぶつかった男が暴れる女性の腕を掴み、引き摺るように通りを歩いて行くのが見えた。

 冬亜はグラスをカウンターへ返却すると、退屈しのぎに男たちのあとを追ってみる。


 男に抱えられ女性は大人しくなってはいたが、泣きじゃくっているのか、下を向いたまま鼻を啜るような素振りをしている。

 彼らのあとを付いていくうち、冬亜は自分の前を同じように彼らの後ろをつける中年の男の背中を見つけた。


 同じ人物を明らかに追っている。そう思った冬亜は、気付かれないよう、そっと中年男の後を辿っていた。

 乱暴に女を引き摺る男は、何本目かの路地に体を差し込んだ。すると前を歩く男も少し間を空け、同じ路地へと入って行く。

 冬亜も数秒間の余白を作って足を忍ばせた。

 街頭もまばらにしかないジメッとした路地には、入り口から裏通りに抜けるまで店が数店舗連なっていた。だが、半分以上は閉店したのか真っ暗で、その中でも一際古いビルは、廃墟のように静まり返っている。

 中年男が古びたビルの一つに身を潜め、ピンクのネオン看板の店に標準を絞っているのが後から見て分かり、店の様子を伺っているのがビンビン伝わってくる。


 冬亜の位置からピンクの店は確認出来なかったが、風俗店であることは入り口に貼り付けてある女の子の指名写真でわかる。冬亜がそこに意識を向けていたとき、身を潜めていた中年男が気配を感じたのかくるりと振り返り、油断していた冬亜と彼の目がばっちり合ってしまった。

 店の方を気にしながら、男がビルの隙間から出てくると、視線で仕留めるように冬亜を凝視しながら近付いて来る。


 身を翻してこの場を去ることを選択せず、冬亜は、自分の元へやって来る男を見据えた。

 少しずつ距離を縮めてくる男は、ポロシャツにスラックス姿の、どこにでもいそうな風体で年齢は四十代くらいに見えた。

 単なる退屈しのぎにあとを付けていた──なんて言っても、信用してもらえなさそうな態度がビンビン伝わってくる。

 ピリついた男の態度を観察していると、男は冬亜の目の前まで来ていた。


「お前は誰なんだ。なぜ俺のあとを付けていた」

 その質問に『あんたじゃねーよ』と言いたかったが、それを口にしなかったのは、男の目が血走っているのがはっきり見えたからだ。単純に女を買いにきた、とも思えない、真剣勝負を挑むような目だった。

 暴力団や警察……とも思えない。なぜなら男からは彼ら特有の殺気は感じられない。

 着古した服装に髪もボサボサで、どちらかといえば、路上生活をするような人間に思えた。


「俺は別に──」

 知り合いに似ていた、とか、適当な理由を口にしようとしたとき、冬亜より背の低いその男が高さを補うよう踵を上げ、鼻先が触れそうな距離で凄んでくる。

「……お前、あの店に用があるのか」

「いや、用って言うか……」

 上目遣いで睨んでくる男が、ピンクの店を背中で気にしながら、今にも冬亜の胸ぐらを掴んできそうだった。

「ああ、そうか。お前、学生だろ。プロの女相手に童貞を捨てようとしてるんだな。やめとけ、やめとけ。ここいらの店はぼったくりばっかだぞ」

 予想外の言葉に、冬亜は思わずプッと吹き出した。

「何を笑ってやがる。ヤリに来たんじゃないなら何だ。それともを親父狩りでもするのか」

 また時代錯誤なセリフが飛び出し、冬亜は大声で笑うのを必死で堪えていた。


「す、すいません……あんたが知り合いに似てたから、つい……」

 と、空々しい嘘を吐いた。なんとかこの場をやり過ごし、今日はもうとっとと帰ろう。

 乗り気がないのに、新宿にまで来た自分が馬鹿だった。そう思っている冬亜とは裏腹に、目の前の男は「誰に似てる」とか、「そいつの名前はなんだ」とか、やたらと食い付いてくる。冬亜は答えに困り、家庭教師の曳原の名前を出した。


「ふーん、その家庭教師と俺が似てたのか」

 しつこい……。そう思った時、店先の方で音がし、冬亜と男は視線を店の方へと向けた。するとさっきの男が、デカい声で電話をしながら店から出て来るところだった。


「隠れろ」


 中年男に肩を掴まれると、さっきまで身を潜めていたビルの入り口に設置してある、集合ポストの凹みに隠すよう押し込まれた。

 冬亜は男の背中越しから、店を出て路地を歩いてくるデカい声の男を盗み見た。


『ああ、わかってる。何度も言わせるな! 曳原は今ころ船の上だ。しかも日本の海じゃない遠い異国のな。まあ、あれは自業自得だ』

 店の男が口にした『ヒキハラ』と言う名前を聞き、冬亜は耳を疑った。

 ついその場凌ぎに口にした名前が、全く面識のない男の口から放たれた。そしてゆっくりと振り返った中年男と目が合う。


「お前の言ったこと本当だったんだな」

「あ、ああ……」


 いや、どうなってるんだ……。

 困惑する冬亜をよそに、中年男はそっとビルから顔を出して様子を伺っている。

 電話をしながら男が大通りへ消えてしまうのを確認すると、中年男が警戒しながらビルの外に足を踏み出し、冬亜にも早く出ろと言わんばかりに目で合図してきた。


「お前が言ったヒキハラってやつとは別人じゃないのか? 家庭教師するような人間があんな連中と関わることなんてないだろ」

 きっと人違いだ、早く帰れと、潜めた声で言い捨てると中年男が背中を向け、さっきのデカい声の男が向かった方へ進もうとしている。そんな彼の腕を無意識に掴み、冬亜は考えるよりも先に中年男を引き止めていた。


「何だ、俺に何か用があるってのか?」

 中年男が舌打ちを混ぜながら、掴んだ冬亜の腕をしげしげと見てくる。冬亜の開きかけた口を閉ざすよう続けて、 

「家庭教師やってるような真っ当な人間はこんなとこに来ない。そいつに何の用があるのかしらねーが、人違いだ、学生は早く帰れ」

 冬亜の手を剥ぎ取りながら、男が諭すよう言ってくる。それでも冬亜はさっきの男が口にした曳原の名前が気になり、咄嗟に引き留めていた。


「……あの、教えてくれませんか。さっき店から出て来た男が言ってたいたこと、アレどう言う意味なんでしょうか」

「アレ? ああ……船の上ってことか」

「はい」

「言葉どおりだろう。聞いたことないか、マグロ漁船に乗るとか。船は九州から韓国を通ってインドまで行くんだ。そこで半年、いや借金の額とかによったら年単位かもしれないな。それか中国行きの船に乗って、臓器売買されたかだ」


 男の話を聞きながら、冬亜は無意識に体を強張らせた。

 幼い頃、身をもって体験した臭くて汚い船の生活。心臓は動いていても、命は見知らぬ連中に握られていた状況を。

 故郷の名前を聞くと嫌でも思い出してしまう、一生忘れない最悪な日々……。


「漁船……ですか」

「そうだ。お前みたいなイケメンで若い男はいい金になる。だから攫われる前に家に帰るんだな。さっきの男がいつ戻ってくるか分かりゃしないんだ」

「あのっ、でも人違いじゃないかもしれないんです」

 曳原と連絡が取れなくなったことを、冬亜も気にはなっていた。そして聞こえた会話に登場した同じ名前。同一人物なのかを確かめるのは、退屈しのぎにはもってこいだ。

 掴んだ腕の主がなぜあの店を見張っていたのかも、曳原と何か関係あるのかもしれない、そんな考えもよぎった。


「どう言うことだ」

 男が静かに聞き返してくる。当然の質問だ。

 冬亜は自分と曳原との関係を簡潔に説明すると、今度は冬亜が腕を掴まれ、店の男が向かった方角とは反対の出口へと冬亜を引っ張っていこうとした。

「どこへ行くんです?」

「ここじゃ話は出来ない。場所を変える」

 男が言ったと同時に、冬亜の体は路地の外へと連れ出されていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る