友達?

 夏休みも後半に差し掛かったある午後、冬亜はあてもなく街をブラついていた。

 容赦ない日差しを浴びながら、頭から離れないのは姉のことだった。

 あの夜、新宿の街を男たちから逃げていた女性はシュエリンだった。あの時自分が気付いていたら、彼女の手を取って逃げて──いや、不可能か……。

 何も分からないシュエリンを匿うには知識も金もない。それでも今すぐあの路地裏の店に駆け込んで姉を連れ去りたい。


 三国の言葉が逸る気持ちにブレーキをかける。

 彼の言うことは理解できるし、正しい。

 普通の高校生が風俗の店に行けるわけがないし、もし仮に年齢を誤魔化し客として入れたとしても、障がいのあるシュエリンが成長した自分を弟だと認識するか分からない。

 日光で熱くなった髪をくしゃりと掴むと、冬亜は通りに地続きする店のショーウィンドウに目を向けた。硝子には、やるせない顔と乱れた髪の自分が映っている。

 額に落ちる髪に目掛け、下唇で勢いよく息を吐きかけると、再び足を進めた。

 日盛りの熱がアスファルトを攻撃し、上下から灼熱に晒される時間帯。眩しい視界に目を眩ませると、澱んだ空間を吹き飛ばすよう、聞き覚えのある声で名前を呼ばれ、冬亜は反射的に振り返った。


「やっぱ冬亜だっ」

 屈託のない笑顔で駆け寄ってくる葵葉に、思わず後退りしても、軽快な足取りはあっという間に距離を縮めてきた。

「毎日暑いなー。冬亜はこれからどっか行くの?」

 怪訝な顔をして見せても彼にはなんの効力もない。それどころか笑顔を崩すことなく、相変わらずの馴れ馴れしい口調で、気温と同じくらいの煩わしさを押し付けてくる。

 返事をする気になれなく、葵葉を無視し、冬亜は踵を返すと再び歩き出した。


「なあ、なあ。ブッキーが言ってた木船の話し、あれから冬亜は何か聞いた?」

 唐突に投げかけら、肩越しに葵葉へ視線を向けると「いいや」とだけ答えた。

「やっと喋ってくれたな。ってことは、冬亜も木船のこと気になってたってことだ」

 その言葉に対し冬亜は、わざと聞こえるように舌打ちをして見せた。

「こーら。舌打ちすんなって。せっかくの美人が台無しだぞ」

 ふざけた言葉にカチンときても、振り返ることはせず、冬亜は聞こえていないフリを決め込んだ。


「俺さ、木船の通夜に行った友達から聞いたんだけど、木船は拝田先輩に無理やり車に乗せられたらしいよ。冬亜は知ってた?」

 葵葉の話に片側の眉を引き上げ、今度は体ごと彼の方を向いた。

「無理やり?」

 そう答えたものの、まあ、そうだろうなとは思った。

 小心者の木船は酒の力でも借りなければ、気弱で自分の意思すら持てない人間だ。拝田の言いなりになっていたのが日常なのは、幼い頃から洗脳されたものだとすぐに分かった。

 命令されれば木船は必ず従う。それを知ってて冬亜はあの日、わざと行かなかった。だが、冬亜の予想はそこまでだった。

 拝田が事故を起こすかなとは思ったが、まさか一緒に乗っていた木船が死ぬとは想像を超える結末だった。

 一人の人間が死んだこと顛末にまだ続きがあるなら、葵葉の話には大いに興味が持てた。


「なあ、外は暑いしそこの店に入らないか。またハンバーガーになっちゃうけど。あ、もしかして予定ある?」

 遠慮がちに言う葵葉の指が、以前一緒に行ったファースフード店の看板を差している。

 流石にこの炎天下での立ち話は自殺行為だと思い、用事はないと言って一緒に店に入ることにした。

 自動ドアを抜けると、涼やかな冷気が体の熱を一気に吹き飛ばしてくれ、自然と冷風に身を委ねながら、冬亜は店内をぐるりと見渡した。


 周りにいる人間を警戒するのは……もう癖だな。


 自分の周りに注意を払っておくのは、幼い頃からの習慣だった。地下で生活していた時も、日本に来てからも。

 店の中を点在するのは、自分達と同じように暑さから避難してきた人間が座席を埋めている。葵葉が空席を見つけたのか、窓際に設置された小さなテーブル席へとまっしぐらに向かい、「冬亜、こっちこっち」と、嬉しそうに手招きをしている。

 無邪気さの押し売りかと思いながら、冬亜はのたりのたりと席へ向かった。


「俺が注文して来るから。何がいい?」

 楽しげにする葵葉をしげしげと見ながら、お前と同じでいいと、ぶっきらぼうに答えた。

「分かった。じゃ待ってて」

 言ったと同時に足を弾ませ、葵葉が注文の列へと並ぶ。少し時間がかかるだろうと見越した冬亜は、スマホを取り出すと、心待ちにしている名前を眺めていた。


「あのおっさん、ちゃんと調べてるのか……」


 一度しか会ったことのない大人に悪態を突いても、一縷の望みを三国に託していた。誰かを頼りにするには、初めてかもしれない。

 シュエリンを取り戻すには、三国のような知識のある人間が必要だ。

 奇跡や運命などと言った、虫唾の走る言葉に反吐が出そうでも、再びシュエリンに会えるのなら、何度でも呟き、感謝し、うえから見下ろしてるだけの奴にひれ伏したっていい。


 自分だけ不自由なく、呑気に過ごしている間にも、シュエリンは酷い目に遭っている。

 家族から見放され、家畜以下の扱いを受けていた冬亜に笑顔をくれた人。

 何も手出しが出来ない今の自分が歯痒く、こぶしに爪を食い込ませ悔しがるこの状況から早く脱したい。

「お待た──ど、どうしたんだよ、そんな怖い顔して」

 トレーをテーブルに置きながら、葵葉が心配げに顔を覗き込んで来た。

 目の前に接近してくる大きな瞳に驚くと、額に作った青筋と憤激をすぐさまかき消し、何でもないと、不自然な取り繕いで誤魔化した。


「俺が帰ってこなくて寂しかったんだろー」

「何で俺が寂しがるんだ」

「ハハハ、冗談だって。ほら、食おうぜ。飲み物、アイスコーヒーでよかったよな」

 冗談を言う葵葉が席に落ち着くと、余程喉が乾いていたのか、勢いよくコーラを啜っている。冬亜はそんな葵葉を眺めながら、テーブルの上に千円札を置くと「俺の分」と言ってポテトを口に入れた。

「多いよ、お釣り──」

「面倒臭い、いらねぇ」

 葵葉の言葉にかぶせると、ハンバーガーにかぶりついた。咀嚼しながら、冬亜は朝から何も食べてなかったことに気付く。

 檜垣が珍しく帰っていたため、顔を合わせないよう早々に家を出たんだっけ。


「じゃあ、あとでアイス食おうよ。冬亜の奢りってことで」

 横柄な態度をしているのに懲りない葵葉が、この後の続きを誘ってくる。

 ほんと、迷惑だ……。

「まだお前に付き合うのかよ」

「いいじゃん、せっかく偶然会えたんだし。海やプールもまだ行ってないしね」

「そんな約束してない」

「そうだっけ? でも俺は行きたいなー。バイト先の会社が忙しくてあまり休めないけどさ。でも俺は夏休みギリ迫っても諦めないし、冬亜もプールとか行きたいだろ」

「誰がっ」


 誰が肌を露出する場所にわざわざ行く必要がある。


 人目に肌を晒すなんて真っ平ごめんだ。あんな醜い体をさらけ出せば、それを目にした人間からは奇異の目で見られるのがオチだ。

 里古が用意した心疾患の診断書で、体育は殆ど不参加で済ませた。

 人前で着替えることを避けるためだけど、どうしてもやむを得ないときは保健室で着替えたりもした。それなのにプール清掃の時、腐った水をぶっかけられ、久下達や他の同級生に気付かれたかと一瞬焦った。

 だが、葵葉のお節介であの場は誤魔化せた。


 葵葉のおかげ……か。


「──なあ、おいってば、冬亜聞いてる?」

 ポテトを口に加えたまま焦点の合わない冬亜の前に、葵葉が手をヒラヒラとさせている。

「あ、ああ。で、さっきの話しの続き教えろよ」

「そっか、そうだった。……なあ、冬亜は知ってた? 事故った場所って走り屋の人たちに人気の峠らしいって。運転してた拝田先輩が、対向車と接触しそうになったのを避けてカーブを曲がり損ねたらしいんだよ……」

「へえ」

 運転テクはやはり口だけだったのか、それとも運が悪かったのか。

 事故るかもしれないのに、誰がわざわざ危ない目に遭いに行く? そんな馬鹿は木船くらいだ。


 でも、その木船が死んだ……。


 もしかしたら事故って死ぬかも、なんてことを一瞬よぎらせてはいた。でもそれは拝田本人で、木船が死ぬ発想はなかった。流石にそれはないだろうと──。だが、無意識には思っていたかもしれない。


「事故に遭う前、木船が何人かにメッセ送ってたらしいよ。今から拝田先輩の車に乗るとか、怖くて逃げたいけど逃げれないとか。文面はそれぞれ違ったらしいけど……」

 冬亜はその話を聞き、一つの懸念を抱いていた。

 そこに自分の名前が出てこなかったのだろうか……と。

「なあ、そのメッセには、他にも人間がいるとかは書いてなかったのか?」

「さあ、多分書かれてなかったと思うよ。それを教えてくれた友達はそんなこと言ってなかったし」

「ふーん」


 木船は恐怖を前に助けを乞う言葉ばかりを並べ、冬亜のことはすっかり頭の中から抜けていたのかもしれない。そう推測し、冬亜はひっそりと胸を撫で下ろした。

 拝田の車に乗るのは最初から木船だけで、自分は登場しない、そういう筋書きだった。

「木船の家族、きっと辛いよな……」

 ハンバーガーの包みを握りしめたまま、葵葉が窓の外に目を向けポツリと呟いている。その横顔を視線で辿ると、炎暑の欠片が容赦なく照り付け輪郭が発光しているように見えた。茶色みがかった虹彩は眩しそうに目を細め、その表情は一瞬泣きそうに見えた。


 自分の家族のことを思い出したのだろうか……。


 そんな考えが浮かんだと同時に、冬亜は唇を動かしていた。

「……お前、自分で犯人を見つけて復讐したいって思ったことないのか」

 唐突にかけられた言葉に、葵葉が瞠目している。

「そ、そんなこと考えたことも──」

「なかったのか? 全く? 一度も?」

 綴る言葉ほどに語気を強め、冬亜は前のめりになって迫ってみる。引き出したい言葉を求めて。


「ない、こともなかった……かな」

「だろうな、それが残された家族の本音だ」

 そうだろう、そう思うのが人間だ──。

 予想していた返事に心の中で安堵した。葵葉も自分と同じだったと心臓が跳ねた。肯定を嬉しいと感じ、葵葉にも意趣返ししたい感情が僅かでもあったのだ。少しの親近感を覚え、そのことに喜んでいる自分を自覚した。


「どうして『だろうな』なの? 俺の気持ちを知ってるみたいな口ぶりだね」

「そりゃな。家族を奪われたんだ、残されたモンは何もかも忘れて聖人君子に生きていけない。いくらお前が笑顔で取り繕っててもな」

 放った言葉と同じタイミングで、葵葉の表情が悲しげに歪んだ。

「凄いな。お見通しか……」

「凄くはない。お前が時々見せる偽善が気持ち悪いだけだ」

 ゴミを握り締めながら、冬亜はサラッと、でも、突きつけるように言ってみる。

「……この前さ、バイト先で資料整理してたときに見つけたんだ。家族が殺された記事を、週刊誌のだったけど」

「へえ、記事になってたんだ。それで?」

 視線をテーブルに向けながら、葵葉が資料庫で見たゴシップ記事の内容をゆっくりと口にした。冬亜は胸の前で腕を組みながら、興味深く聞き入った。


「読んだ時は凄くショックだった。けど、客観的に事件のことなぞってみると、本当に自分の家族のことなのかなって感覚にもなったんだ」

「ふーん、そんなもんか。でもまあ、ゴシップ記事なんて売るためのギリギリセーフな内容で書かれてるもんな。わざと購買意欲を煽るように作ってんだ。で、そこには予想した犯人像も書いてあったんだろ」

「うん。俺は気づかなかったけど、一緒にいた会社の人が見つけてくれた。外国人だなんて想像もしなかったけどね」

 頬に睫毛の影を落としたまま、ハリのない声だけが返ってくる。落とした肩が頼りなげで、ふと、そこに触れたい衝動になってしまった。


「他にはなんて書いてあった? そうだ、目撃者とかいなかったのか」

「目撃者……はいない。だた、事件が起きる前に、マンションの入り口にある防犯カメラには住人以外の何人かが映っていた、宅配業者とか郵便局の人とか……」

「じゃあその宅配が怪しいんじゃね?」

「記事にはそれらしいことが書いてあった。けどマンションによく出入りしている宅配会社で、配達に来る人はキャップを被ってるから顔は分かんないし。それにきっとアリバイ? っての警察がもう調べてると思う……。捕まってないってことは、宅配の人じゃないってことかな」

 まだ葵葉の顔は俯いていた。そのせいで話す声がくぐもって聞こえ、泣きそうな音にも聞こえる。けれど冬亜はそこを気遣うことなく、無防備な頭頂部を見つめながら、ふと思い付いたかのように葵葉の顔を覗き込んだ。そのままの角度で頭をもたげ、目の前にある憂いた瞳を見据え、「事件のこと一緒に調べてみるか」と投げかけてみた。


 冬亜の言葉に一驚したのか、葵葉が弾かれたように頭を上げ、反動で跳ねた前髪がふわりと意志を持つ。

「今……なんて」

「俺らで事件のこと調べよーかって言ったんだ」

「な、何言ってんの、俺ら高校生だぞ。そんな刑事みたいなことできるわけ──」

「当たり前だ。誰も本格的な捜査をするなんて言ってない。図書館に行って、昔の新聞の記事とか探すんだよ。それで何か見つかれば儲けもんだろ」

「図書館……そうか、気付かなかった。新聞なら煽るようなことは書いてないもんね」


 夏の力強い輝きが虹彩に反射し、生気が戻った白い頬には街路樹の緑が影となって揺れ映っている。

 一瞬、生命の鮮やかさを彼の中に見た気がして、冬亜はその眩さに目が眩みそうになった。

「……じゃ、これから行くか。今更予定あるとか言うなよ」

 動揺しているわけでもないのに、つい語気を強めに言った自分が恥ずかしい。

「言わないよ。俺だって気になってるんだ。でも、それに冬亜を付き合わせるのは申し訳ないなって」

「言い出しっぺは俺だ。そんなこと考えてもない」

 トレーを片手に席を立って、どこか浮かれている自分を自覚した。それをもう一人の自分が眺めてせせら笑っている感覚がする。それに──。

 葵葉が醸し出す、憂苦な瞳に自分が映り込むことを望んでいた。


 ダストボックスにゴミを捨てると、後ろから追いかけてくる葵葉の気配を感じながら先に店を出た。外の気温はきっと三十度は余裕で超えている。地面から湧き上がる熱を浴びていると、明らかにこちらを縋るような茶色の虹彩と目が合った。

 向けられた視線が心地いい……いや、違う。これは単なる退屈凌ぎに過ぎない。

 見つめてくる視線ごと相好を崩し、前髪をふわふわと跳ねさせながら冬亜の側まで駆け寄って来る。無垢な表情を交わす方法など前までは簡単だったのに。今は難しくて、できない……。


「行こう、冬亜」

 声と腕が蔦のように絡まって心臓を捉えてくる。反発しても逃れられない原因を無視し、あっちーなと言って、はぐらかす。

 なんで自分が面倒なことを──、なんて思考は一瞬で蒸発した。

 太陽がギラギラと照り付ける夏の昼間、先に見える道路に水たまりが見える。遠くに輝く煌めきに近付くと姿は消え、再び遠くにソレは姿を現した。

 触れたくても触れられない逃げ水は、夏が終わるころには掬うことができるのだろうか。 

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