蘇った惨劇
昼食を済ませ、再び資料庫へ戻ると、二人は作業の続きを始めた。
手にした年代のファイルには特出した記事はなく、表紙を閉じると、次のファイルへと手を伸ばし、葵葉は暫くそんな作業を繰り返していた。
西暦が現在に近付いてくると、ファイルの日焼けは目立たなくなり、読みやすくなったある年のファイルに指をかけた手を止めた。
鼓動が流行り、心臓が激しく動揺しているのが分かる。指先が躊躇うのは、背表紙にマジックで書かれた数字が、忘れたくても忘れられない五年前の記憶を呼び起こしたからだ。
人差し指で背表紙の上部に指を引っ掛けると、ゆっくりファイルを手前に倒した。
通り過ぎていったファイルより埃は被っておらず、それが最近の出来事だったんだと知らしめてるように思える。
一度に家族を失った悪夢の日。
今でも目に焼き付いて離れない惨劇は、一生消えない……。
葵葉はファイルを握り締めたまま、表紙を捲ることに迷った。
事件当時はまだ中学生の子どもで、はっきりした真相は聞かされていない。
遺体の第一発見者、しかも家族だった葵葉に、周りの大人は同情するだけだった。
悍ましい現場を見た子どもに対し、警察は気遣いながらも解決を目指す余り、情報を聞き出そうしてくるその態度は粗野だった。
そんな非常識な態度に激怒したのは、水畑の両親と大和だった。
宅配業者を装った人間の物取りの犯行。
運が悪かったとしか考えたくないくらいに、葵葉の家族は誰からも恨みを買うことなどなかった。
犯人が捕まってないこと、目的がもし怨恨なら残った葵葉にも危害があるかと心配されたことから、葵葉は水畑家に強固に守られていた。
事件後にPTSDこそ発症はしなかったが、数日はショックで食事や睡眠どころか、身の回りの着替えや入浴などに意識は向かなかった。
ボロボロの葵葉を心配した、当時大学生だった大和が極力ひとりにしないよう、側にいてくれたことは今でも忘れない。
新聞の記事に事件は掲載されたが、幸いなことにテレビのニュースや週刊誌には小さくしか取り上げられず、葵葉の存在が面白おかしく掻き立てられることはなかった。
手にしたファイルが葵葉を一気に過去へと引き戻し、体を小刻みに震わせてくる。
数分固まったままだった意識をどうにか持ち上げ、葵葉は喉を鳴らしながらゆっくりと表紙を捲った。
時系列に綴じられているあらゆる記事を、ひとつずつ目で辿ってく。
芸能人の引退表明や政治家の汚職事件のような、聞いたことある名前の事件から、片田舎で起こったひき逃げ事件など細かく綴じられている。
残りのページが少なくなってきた時、葵葉の指が止まった。
写真こそは載ってなかったが、本名は記載されていた。
懐かしい三人の名前にそっと触れてみる。
ページの上段にはゴシック体の太文字で、
『一家惨殺! 生き残ったのは中学生の長男』と、書かれたタイトルが飛び込んできた。ページの半分に書かれた記事には、
〝夏の休日に起こった悲劇。玄関の鍵は開いていた? 荒らされた部屋の中に横たわる三体。その中の一人は小学校入学を控えた幼い少年だった〟
見出しの後には母親が後妻だとか、長男をネグレクトしていたなど、事件とは関係ない偽りが面白おかしく綴られていた。
世間を煽る、明らかな誹謗中傷だった。
犯人はまだ捕まっておらず、犯罪理由も煙に巻く表現でしか書かれていない。
真実でも嘘でも売れればいいと、読者にも伝わってくる下劣な文章に目を背けたくなった。
葵葉は記事を開いたままその場に佇んでいた。世の中に、自分と似たような経験をした人間は他にもいるのだろうか。
このページだけを読んだ人は、葵葉の家庭をどう思っただろうか。
内容を鵜呑みにし、好き勝手な憶測を口にしたのだろうか。
葵葉はそんな妄想を払拭するよう、楽しく過ごした家族との日々を思い出そうした。けれども彼らの明るい表情は、血だらけの姿に悍ましく塗り替えられてしまう。
心が事件に支配され、放心状態になってしまった背中に声が聞こえた。
名前を呼ばれてることはわかっていたが、振り返ることも、返事をすることもできない。その後も自分の名前は聞こえていたけれど、心は空中に浮遊したままで体には戻ってこなかった。
不意に肩を揺すられ、葵葉はようやく正気を取り戻した。
「む、らじ……さん」
「どうしたんだっ。顔が真っ青だぞ」
何度呼びかけても返事がない葵葉を心配し、様子を見に来た連の一驚した目と合う。
どうしたと何度も問われたが、葵葉は唇を引き結び、眸を見開いたまま焦点を震わせていた。
何とか薄く口を開き、言葉を吐き出そうとしたが、小刻みに震えて上手く声が出ない。
ピタピタと頬に刺激を受け、体を揺さぶられても反応出来ず、ただファイルを握り締めているだけだった。
何かを悟ったのか、連にファイルを抜き取られた。開かれてあったページを、食い入るように辿っている。
「あお……ば、これ──」
連の視線を感じてもそこに意識は向かず、ただ、潤む眸を表情筋が必死で食い止めていた。
「……我慢するな、いいから泣け」
溜め込んでいた心情を汲み取るよう、連が声をかけてくれる。
優しい声……だった。
葵葉は連の声をゆっくり嚥下し、それらが脳に到達した瞬間、激しい憎しみや悲しみが湧き上ってくるのを感じた。
肩に置かれた手の温もりが体中に染み込み、温かさがスイッチを担ったのか、縛り付けていた心が解放されると、嗚咽を溢す。
小さな子どものように声をあげ、その場に立っていられないほど慟哭した。
よろめきそうな体を連の腕が支え、葵葉は目線の高さにある連の胸に顔を埋めた。
連の手が優しく背中を撫でてくれる。
体の奥に眠る怒りの塊に触れた瞬間、感情は一気に破裂し、噴火したように喉までせり上がる。喉が裂けそうな叫び声が、我が耳をもつんざいてきた。
逝ってしまった三人の笑顔が思い出されると、葵葉の中をいっぱいに埋め尽くしてくれる。全身の水分を放出するように涙が止まらない。
二度と会えない人達を思い、涙と声が枯れるまで泣き続けた。その間も連の手は葵葉の背中にあって慰めてくれていた。
どれくらいの時間が経ったのか、滲んだ視界は次第にクリアになり、葵葉は自分のとった行動を羞恥に思い慌てて連から離れた。
「す、すいません。俺……」
謝罪をしようと顔を上げると、連のシャツの胸の辺りがべっとり濡れている。
「す、すいませんっ! 俺、どうしよう。汚してしまった、すいませんっ」
ポケットから取り出したハンカチで、濡れてしまった箇所を必死で拭った。
涙と鼻水でシャツの色が変わるほど汚したことに焦り、拭こうとしたけれど指に力が入らない。
「これくらいなんでもない。それに夏だ、すぐ乾くさ」
そう言って向けられた連の笑顔に、深々と頭を下げてすいませんと声を振り絞った。
「この記事……お前の家族のことだったんだな」
ファイルを手に、連がポツリと言う。
その質問に対し、葵葉は小さく頷いた。
「大和さんに聞いてたのは、お前の両親が亡くなったから引き取った。それだけだったからさ、正直驚いたよ」
「ですよね……。すいません、俺、子どもみたいに泣いて──」
連の手からファイルを受け取ると、葵葉は棚に戻そうとした。
「ちょっと待て。そのファイルは資料の対象だ」
「え?」
驚いて葵葉は眸で答えを欲して見せた。
「記事の最後の方に書いてあるだろう、犯人は外国人の犯行も考えられるって。強盗殺人ならあり得るし、事件の前に外国人が犯行現場のマンションで目撃されてるってな」
葵葉は綴じてしまったページをもう一度めくり、記事の最後に書かれている内容を見た。
「本当だ……」
さっきはデタラメな内容にショックを受け、そこで読むのをやめてしまって最後まで目を通さなかったから気付かなかった。
「葵葉の住んでたマンションは、エントランスのオートロックを解除しないと中には入れない。そうだよな?」
「はい……。暗証番号で解除して中に入ります」
「住人が解除したのと同時に、後からついて入るのは可能だ。それくらいお前もわかるだろう」
「はい。だから解除した後、後ろを確認してからエントランスに入るよう、小さい頃から父に言われてました」
「葵葉はそれを守ってても、他の住人がやってなけりゃ、セキュリティの意味なんてないよな」
「じゃあ、犯人がマンションに入ったのって、その方法で……」
「きっとそうだろう。か、暗証番号を入手したかだな」
顎に手を当て、考えあぐねいている連を一瞥し、葵葉が視線を地面に落とした。
「……俺のせいなんです」
震える声で言葉を紡いだ。
「どう言うことだ?」
「……玄関の鍵は開いていた。だから犯人は何の苦労もなく侵入できた──記事にはそう書いてありますよね」
「あ、ああ……」
「俺が中学になって部活をするようになってから、疲れてるのに自分で鍵を開けるのは面倒でしょって、母がいつも鍵を開けてくれていたんです。だからあの日、あの夏休みも部活に行って帰ってくる俺のために、母は玄関を開けてくれていた。だからうちが狙われたんだ……。俺の、俺のせいで──」
罪を口にすると、再び瞼の裏が熱くなってくる。
「取り違えるな。悪いのは犯人で、お前じゃない」
力強い声と肩に置かれた手の強さが葵葉の頬に涙を伝わせた。
「連……さん、俺悔しいんだ。ずっと、もうずっと……。でも大和にいや友達には言えなくて。ずっと、ずっと言えなかったんだ、だから──」
「だからお前はずっと我慢してたんだな。自分のせいかもって言えば、大和さん達に心配かけると思って」
確信をつく言葉を告げられ、葵葉はコクンと小さく頷いた。
家族を失ってから心の奥底に押し込めていた憂苦を、葵葉は初めて体の外へ吐き出した。
いつの間にか窓から差し込む陽射しが蜜色に変わり、二人の髪も琥珀に染まっていた。 頬にあった雫も生まれては蒸発を繰り返し、今は肌に道筋を残しただけだった。
赤く腫らした目をハンカチで拭おうとした手を不意に連に掴まれ、葵葉はそのまま胸へと引き寄せされてしまった。
さっき自分の涙で濡らした胸元に、葵葉はまた顔を埋める形になる。
連が指で髪を絡ませてくると、そのまま後頭部をゆっくり撫でてくれた。
長い間閉じ込めていた悲しみを吐き出し、少し軽くなった体を連に預けたまま、葵葉は瞼を閉じて虹彩を滲ませていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます