連と大和

 癒されたい時、愚痴を言いたい、聞いて欲しい時に会社の仲間と立ち寄る居酒屋で、連は店内の個室で大和を待っていた。

 ただ飲みたいだけなら大抵はカウンターやテーブル席を利用するが、ゆっくりと飲みたい時、真面目な話しをする時などは個室を指定する。今夜は後者の理由で予約した。

 暑さで喉の渇きを抑えられなかった連は、先に注文した生ビールを一気に半分まで飲み干した。口元の泡を拭ったタイミングで個室の引き戸が開くと、「よお、待たせたか」の声と一緒に銀縁の眼鏡をかけた大和が顔を覗かせた。


「全然。ってか、暑くて先に飲んじゃいましたけど」

「だろうな。俺も生を注文してきた」

「料理も適当に頼んでますよ。大和さんの好物のゲソ天もね」

「さすが。出来の良い後輩を持つと楽だわー」

 お決まりの会話を交わす間に、注文したビールと料理が運ばれてきた。

「ま、取り敢えず今日もお疲れさん」

 互いのグラスをカチンと合わせた大和が、勢いよくビールを呷っている。暑さのせいもあるだろうけれど、いつも本当にうまそうに飲む。


「で、何か話があるんだろ。お前が個室を選ぶ時は大抵何かあるもんな」

「よく俺のこと分かってくれてますね」

「それくらい分かるわ。何年の付き合いだと思ってんだ、大学からだからもう十年以上だぞ。体臭だけでお前だってわかる──って隠岐さんのが移ってるわ、やばっ」

 苦虫を噛み潰したような顔で、大和が二口目のビールをゆっくり流し込んでいる。

「じゃあ、今日の葵葉のことも分かってますよね」

「……どう言うことだ」


 大和の表情が真顔になる。

 従兄弟の話題になると大袈裟なほど顔つきが変わることを、昨日までの連なら大和に気にかけてもらっている葵葉のことを妬ましく思っていた。

 けれど今日は違う。大和が従兄弟を気にかける理由を、今日知ってしまったからだ。

「今日、資料庫から戻った後の、あいつの様子がおかしいことに気づきました?」

 連に問われ、大和が俯き加減に記憶を辿っている。

 短気な性格ではあるけれど、尊敬する大和の言葉を待つくらいなんでもない。だが今夜は別だ。連は答えを待たずに前のめりになって大和に顔を寄せると、囁くように唇を動かした。


「今日、あいつと資料庫にいたでしょ? そん時、偶然目にしたんですよ、葵葉の家族が殺された事件の記事を」

 連が放った言葉に、大和の表情が一気に強張った。

「……迂闊だった」

「あいつの聞かされてない事実やそうでない内容まで、誇張して書かれてたゴシップ記事でしたけどね」

 大和の眉間にシワが深く刻まれていく。

 自分が任せた仕事のせいで、思い出さなくてもいい過去を葵葉が記憶から引き出したことは言わなくてもわかっているはずだ。

「いつもと然程変わったとこはないと思ってた。はぁ〜、俺はまぬけだな。葵葉のことを一番分かってると思ってたのに」

 項垂れる大和を見て連は少し複雑な感情が目覚めた。

 あからさまに凹んでいる原因が葵葉のことだと思うと、勝手に心が騒つく。


 大学の一年先輩だった大和とは同じ学部で、剣道経験者と言う共通点から意気投合し、必然的にサークルも誘われる前に志願していた。

 中学の時に自覚した男にしか興味を持たない性癖に、思春期は性的指向に抗うことで必死だった。

 友人達と同じように女子に興味があるフリをし、如何わしい動画も一緒に見た。そうして何度も突き付けられる、異性には何の興味が湧かないと言う現実を。

 大学に入って世界は広がり、何となく同類を見極める力が備わると、タガが外れたように連はマイノリティを堪能した。

 体だけの関係以上を持たないよう心がけていた連の前に、固い決意を簡単に覆す男、大和が現れた。

 見た目だけでなく、気さくな態度と面倒見のいい性格が、連は簡単に心を惹きつけられた。


 共通点をきっかけに親しくなり、思いはどんどん膨れ上がるが、大和がに来る日など一生ないことも分かっていた。

 憧れだけで留めておこうと思っていたはずが、大和から時々聞かされる、年下の従兄弟の話を聞き度に苛立ちを募らせた。

 葵葉の話題になる度に、ささくれのような煩わしい痛みを味わう。

 それでも大和との関係を重視するため、中学の頃と同じように邪な感情は隠し、仲の良い先輩後輩と言う関係性を築いてきた。


 バイトで職場に葵葉が来ることになると、連の不毛な思いは行き場をなくして暴れ出しそうだった。仲睦まじい二人を見るのもたまったもんじゃない。

 大人気ない自覚を持ちながら、葵葉に冷たい態度を取ったりもした。

 けれど今日の葵葉を見て、これまでの自分が最悪に恥ずかしかった。

 大の大人がくだらない嫉妬で、二十歳にも満たない学生に醜い行動を晒していたのだ。

 一緒に仕事をするようになって今日まで、葵葉が必死で悲しみを堪え、大和達に迷惑をかけないよう生きてきたのだと知ると胸がぎりりと痛締め付けられた。


 好物の料理に手もつけず、肩を落とす大和と味わっている心情は同じ——いや、それ以上かもしれない。

 葵葉が退社した後、連は事件のことを調べてみた。

 ファイルの中にあった記事と然程内容は変わらなかったが、葵葉の心情を思うといたたまれなかった。


「家族をあんな形で奪われ、それを目の当たりにしたんですよね葵葉は……。あんなのトラウマになってもおかしくない」

「……おかしくはなってたさ。けど、精神に異常を来すよりも、あいつは俺達家族に迷惑をかけたくない、自分が重荷になりたくない。その気持ちの方が大きかったんだよ、多分な」

「感情を押し殺してきた、だから必死でいつも笑顔でいたんですかね。そんなことを中学の頃からやってたのか」

「だろうな……。葵葉と暮らし初めても、あいつが泣く姿を見たことはなかった。涙を流してしまうと、俺らが困ると思って必死で我慢していたのかもしれない」


 ふと連は想像してみる。

 家族の壮絶な最後を見て、自分だけが一人残されることを。

 想像して、無駄なことだと思い知った。大人も子どもも関係ない。家族の無惨な姿を見たら誰だって耐えられずに気が狂いそうになる。

 悲しみに暮れ、一人膝を抱える小さな姿は、陰翳に飲み込まれないよう、理性と必死で戦ってきたのかもしれない。

 小さな葵葉を浮かべ、連は悲哀で心臓に穴が空いたように苦しくなった。


「犯人はまだ捕まってないんですよね。警察は今でも捜査を続けてるんでしょうか」

「あの時、親父達と一緒に俺も警察の話は聞いた。犯行を裏付ける証拠は何もなかった。指紋は残っていたらしいけど、警察のデータベースに一致する人間はいなかったんだ」

「常習じゃない、衝動的な犯行ってことですか」

「かもな……。外国人が現場近くにいたって目撃証言もある。それにおじさんやおばさんへの恨みではないと思う……」

 言葉尻を濁しながら、大和が睫毛を伏せる。

 夕間暮れに起こった事件は未だに未解決のままで、犯人逮捕に期待を抱きながらも話題に触れないのは、水畑家では暗黙の了解だったのだろう。


「俺、ちょっと心配なんですよ」

「心配?」

「葵葉は自分で犯人を見つけようなんて、そんな無茶なこと思わないですよね」

「自分で? それはないだろう。葵葉はそんな無鉄砲じゃない」

「でも警察は当てにできない。もし今日見た記事が引き金になって、葵葉が復讐しようとかって考えなきゃいいけど……」

「だからそれはないって。あの優しい性格だぞ、それにこれは自惚れだけど、あの子は俺ら家族を大切に思ってくれている。だから俺達に迷惑をかけることは絶対しない」

 自身たっぷりで大和が言い切ると、連は、そうですねとよぎった不安を払拭した。


 資料倉庫で目にした泣き叫ぶ葵葉。

 溜め込んでいたものを吐き出すよう慟哭した姿は痛々しかった。

 体を抱き締めていないと、血を吐くまで泣くんじゃないかとも思った。

 葵葉のことが気になり、目の前にいる想い人の輪郭が霞んで見える。

 長年思いを馳せていた、人生のしるべとも言える大和のことより、今は泣きじゃくる顔が全身の血流を波立たせ、眠っていた庇護欲が静かに目覚めていた。

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