崩壊
人間の感情はこうも容易く変化するものだと、久下は今日初めて知った。
今朝まで自分の中で芽生えていた好きだと言う気持ちが、いとも簡単に脆く崩れ、全く真逆の感情にとって変わった。
今日ファミレスで聞いた妹の企みを、信じたくない自分も初めは存在していた。でも、そんな淡い期待は憎しみが簡単に上書きして真っ黒に塗り潰されてしまった。
最初から、自分は好かれてなかった。男としても、兄としても。
最初から、金を引き出すための涙だった。好いた男のために。
最初から、家族じゃなかった。何よりも食わしてもらっている父親を馬鹿にされた。
同じ家で、同じ空間で、同じ空気を吸うことにさえも
もう、あんな女は妹でも家族でも何でもない。二度と顔も見たくはない。
いっそのこと殺せば楽になるのか……。
嫌悪を伴った敵意は、どんな可愛い笑顔でも、切なく泣く涙でも消すことは出来ない。
青く揺らぐ憎悪の焔は久下の胸に巣食い、次第に業火のように燃えたぎっていく。
午前一時。寝静まった町に人の姿は一切なく、夏特有の生温い、湿った空気がこれから始まる舞台を盛り上げている。
待ち合わせ場所の解体現場に来ていた久下は、時折纏わりつく、まくなぎを手で追い払いながら長かった一日を振り返っていた。
もう後には引けない。もしかして自分の気が変わるかと期待してはみたが、そんな気配は一切なく、何事もない顔で妹と言う女と話ができた。
鬼畜……なのか。いや、どっちがだよと自分自身に突っ込んでいると、足音に気付き、久下は音のした方へ視線を移した。そこには数時間前に見た親友二人の血走った目があった。
「よお、そろそろ時間だろ」
先に声を発してきたのは杉元だった。これから起こることに興奮を抑えきれない様子で、絶えずそわそわしている。そう、彼は今日めでたく童貞を卒業するのだ。
久下はスマホを出して時間を確認した。
日付が変わってから一時間が経つ。そろそろ獲物が来る頃だと、久下は先に建物へ入って待つよう二人に指示した。浮き足だって先頭を歩く杉元の後に光宗がビルの中へと消えた。
決行場所はビルの三階。その階は重機が接触したのか、窓ガラスが嵌め込まれた外壁が崩壊しており、通りに連なる街灯の光が部屋の中を程よく照らしていた。フロアでは懐中電灯が要らないほどの明るさになることを、一足先に来ていた久下が確認していた。真っ暗じゃつまらない……。
解体された後は、結構な高さのマンションが建つ予定らしい。
『駅までの距離は散歩道、マンション敷地内の大きな公園は家族の憩いの場所。新しい生活を新しい場所で家族と一緒に!』とまあ、駅まで遠いことを上手く隠した謳い文句が、宣伝のポスターに書かれて工事現場の壁に貼ってある。
家族──ね。はいはいどうぞご自由にと、久下は自分の脳内で投げやりに呟いた。
周りも徐々に開拓して、ショッピングモール的なものも出来るらしい。
コンビニどころか住居も何もない簡素な場所も、未来に発展するファミリー向けの微笑ましい街になる意気込みだ。
温かく輝かしい未来の街で、久下はAV監督のような気持ちでヒロインを待っていた。
もう一度スマホに目を向けようとした時、遠くから自転車を漕ぐ音が聞こえて来る。
暗闇にチラチラと小さな光が揺れているのが見え、見覚えのある自転車に跨る輪郭を確認すると、久下はブルっと武者ぶるいした。
「お兄ちゃん」
闇間から、偽物とわかり切った甘い呼び声が聞こえる。久下を呼ぶときの罠の音だ。
久下は画面を光らせたスマホを返事代わりに左右で振って合図する。
自転車のブレーキをかけたのか、錆ついた甲高い音が聞こえ、サドルから軽快に飛び降りる綾香の姿が足先から順に露わになった。
「よお」
「なんでこんな時間にこんな場所に呼ぶの。家じゃダメなの? いくら母さんが夜勤だからって、夜中に出かけたのバレたら怒られるじゃん」
「へー、家でもよかったんだ。俺はお前が困ると思ってわざわざ外にしたってのに」
「だって中絶費用の返済方法でしょ? そんな話、家でご飯食べながらでもできるじゃん」
同じ家に住んでいるのに合理的じゃないと、頬を膨らませて怒りだす女。
大きな猫目で勝気な性格が好みだった。でもそれは随分昔のことに思える。
久下は妹と言う女を凝視し、唇の片側を狡猾に上げた。
「そのことだけど、直ぐに返せって言われてさ」
「そうなんだ、でもお兄ちゃんが勝手に友達から借りたんでしょ。だったらお兄ちゃんが何とかしてくれないと」
薄汚い野良猫が上目遣いで甘えてくる。この視線も以前なら胸を高鳴らせるものだったが、今となっては白々しくて胡散臭い。おまけに反吐も出そうだ。
「中絶費っていくらした? 領収書は?」
「えっ! い、いくらって……じゅ十万ちょうどだよ」
「へえー足りたんだ。で、領収書は? もらっとけって言ったよな」
自転車を止めてハンドルを握ったままの綾香に、久下がズイっと詰め寄った。
「りょ、領収書は……」
「ないよな。だってお前、手術なんてしてないし。ってかそもそもレイプも妊娠も作り話しなんだろ」
「つ、作り話しって……どうしてそんなこと言うの。私、お父さんにレイプされたんだよ。単身赴任から帰ってきて、私と二人だけだった時に。それでその時──」
「嘘つき」
綾香の言葉を遮るよう、久下が冷たく言い放った。
剣のような鋭い言葉は、妹に向ける言葉とは思えない程の低い声だった。
吐き出した声は頭の中を一周し、スピーカーから聞こえたように感じる。
自分の声なのかどうかも分からない冷えた声が
「う、嘘つきって……どうしてそんなこと言うのよ。お兄ちゃん私が好きなんでしょう。好きな人間の言うこと信じられないの」
開き直っているのか、馬鹿なのか。まだこの後に及んで白々しい言葉を口にするのか。
この女は本当に馬鹿だ、俺も、馬鹿だ……な。
「金が必要だったのは、男に貢ぐためだろう」
「な、そんなことあるわけないじゃん。ってか、男って何? 誰のこと言ってるのよ」
そう簡単に認めるわけないのは分かっていた。でも返ってくる言葉は想定内だ。
「お前が男と一緒にいたのを見た。金を渡したって話も聞いた」
久下の言葉にみるみる綾香の双眸が見開かれていく。そして何を思ったか、久下に歩み寄ると、肌を擦り付けるように久下の腕へと艶かしく白い腕を絡めて来た。
「これ、何の真似」
自分の腕にしな垂れる妹を蔑み、久下の不愉快指数は頂点に達した。この後に及んでまだシラを切るのかと。
「ねえ、お兄ちゃん。仕方なかったの、私あの男に脅されて──」
まだそんな言い訳する余裕があるのか。呆れてモノが言えないとはよく言ったものだ。
触れたかった肌の感触も吐き気がするし、この女が放つ言葉はひと言も信じられない。
久下は細い腕を払い除け、冷嘲を浮かべたまま綾香の鼻頭に顔を近付けた。
「金は俺が払う、約束通りな」
「本当、お兄──」
「でもお前のことは一生許さない。俺だけじゃなく、親父までお前はコケにした。何がレイプだ、何が妊娠だ。俺ら親子をバカにするのもいい加減にしろよ」
背後から綾香の上半身を抱えると、耳元で呟き、ずるずるとビルへと引きずって入った。小柄な体は久下の意のままだった。
「ちょ、ちょっとどこへ連れてくの。やめてよ、離せっ! 離せよっ」
本性が出たのか、言葉が粗野になっている。久下の手の中で暴れる女は、場末の飲み屋で、金のない中年親父にしか相手にされない娼妓のように見えた。
抵抗する体を乱暴に抱え、久下はどんどんビルの階段を上って行く。
その間ずっと悪態を吐く女は、これまで見たことのないガサツな人間に豹変していた。
逆らう体を三階まで連れて行くと、そこには待ってましたと言わんばかりに、光宗と杉元がニヤニヤと笑みを浮かべている。
「な……に、誰こいつら」
「何って、お前の遊び相手だよ。襲って欲しかったんだろ」
「えー、なになに。そんな趣向だったの、今日って」
もう既に下半身を膨らませている杉元が、待ち切れず久下の腕の中でもがく綾香の方へと近づく。
「ちょ、ちょっと何なのよ、あんた! 近寄んな、この、ブサイク」
上半身を制御されながらも思い切り足を蹴り上げ、両足を交互にバタつかせている。襲って下さいと言わんばかりの短い丈のスカートから、艶かしい足が動きを増し、下着が丸見えだ。
抵抗する姿が男達の鼻息を荒げさせ、杉元の方は容姿のことを言われて
遠巻きに見ていた光宗が久下の腕から暴れる体をもぎ取り、放置してあった段ボールの上へと乱暴に転がした。
「痛っ! 何す──」
押し倒された弾みで、後頭部を打ちつけたのか、綾香がぶつけた箇所を確認するよう腕を伸ばした。だが、その腕は光宗に頭上で纏められ、そのまま地面に縫い付けられた。
「お前、マジでうるさいな。ちょっと黙れよ」
光宗が側に落ちていたボロ布を綾香の口に押し込む。
「う、うぐぅう……」
声を塞がれ、両手首は光宗にがっちり掴まれている。それを見ていた杉元が暴れ回る足首をしっかりホールドした。
「おお、連携プレイばっちりじゃん。なに、練習したの?」
傍で見ていた久下がスマホで録画しながら、二人の男の行動に感嘆を漏らす。
好きだった女が襲われる姿を見ても何も感じない。俺もきっとどっか壊れてんだ……。
父親のおかげで飯も食え、学校にも行ける。自分もそれが当たり前で過ごして来た。でも、このバカ女のお陰で、苦手だった父親を少し見直し、そして守ろうと思っている。
怒りを燃えたぎらせたまま、肌を露にされていく綾香をカメラ越しに見ていた。
男二人の触手に下着を剥ぎ取られ、親友と名乗る獣に貪られていく。
口に薄汚い布切れが詰め込まれた顔が、杉元の肩越しに見えた。
女の顔は恐怖と興奮が混ざり、これから起こることにヒロインの如く、期待に満ち溢れた表情にも見える。けれど、久下は何も感じない。
助けてやろうかと言う気持ちが僅かにでもあるかと自分に期待したけれど、そんなものは微塵も湧き上がってこなかった。
生唾を飲み込みながら綾香の足首を固定している杉元の前では、光宗が激しく腰を律動させている。やがて、喜悦を漏らすと、光宗がブルリと体を震わせた。仲間の恍惚とした顔に触発され、杉元が早く替われと、早く、早くと急き立てている。
暴れる体の上に覆い被さる人間が入れ替わった時、女に異変が見られた。
乱暴にされるうちに快感が生まれたのか、気持ち良さげに喘ぎ、自ら腰を振っている。男達に浴びせていた罵倒は、快楽から出るよがり声に変わり、好きだと思ったことが恥ずかしいくらい、ゲスい女なのだと思い知らされた。
久下は踵を返した。
悦楽に溺れる三人を、汚物でも見るよう眉をひそめながらスマホを停止すると、全ての怒りを込めてコンクリートに叩きつけた。
ガラスの割れるような音が廃屋に響いたけれど、獣三匹はお構いなしに行為に耽っている。
久下は粉々になったスマホを踏み
頭の中には家族四人で初めて行ったレストランの光景が浮かび、目の奥が熱くなったが、それもどうでもいい。
「綾香、もう俺ら家族は終わりだ……。少なくとも俺はお前を許さない。お前が親父を犯罪者にしようとしたことは、絶対に許されるもんじゃない。襲われたことをチクリたかったらいくらでも話せばいい。もう、俺はどうなってもいいし、もうどうでもいい……」
綾香に聞こえていないのはわかっている。ただの独り言だった。
三人の荒い吐息や悦楽の声を遠くに、久下はビルの外に出た。
路傍に停めていた綾香の赤い自転車が、月明かりに煌々と照らされている。久下は側に近寄ると、思いっきり自転車を蹴っ飛ばした。
アスファルトに打ち付けられ、横たわった自転車を踏みつけた。
そこに憎む相手を投影し、二度と這い上がって来られないように、何度も、何度も踏み続けた。
唇を噛みちぎるほど歯を食いしばる久下の頬には、月明かりに照らされた雫が光っていた。
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