久下(くげ)の恋

 冬亜に言われた通り、久下は覚悟を決めて綾香と話す機会を待っていた。

 幸い今月は戻らないと、単身赴任の父親から連絡があった。

 看護師の母親が夜勤の日を狙えば、二人っきりで話せる時間は作れる。そう安易に考えていたが、当の本人は、金を渡してからと言うもの、両親が不在なのをいいことに家を空けてばかりだ。

 隙を見て話そうとしても、忙しいと可愛い唇ではぐらかす。

 ようやくまともな返事を聞いたのは『行った』の、ひと言だけ。その答え方は久下に対し、鬱陶しさをあからさまに出した物言いに聞こえて情けなくも泣きそうになった。


 夏休みも半分を過ぎ、部活もバイトもない久下は真夏の陽射しを避けるよう、自室でだらだらと過ごしていた。実のところは、檜垣に言われたことが気になり、頭の中では常に同じことを考えていたからだ。

 自分の父親がしたことは異常で信じ難いものだ。

 半年ほど前から単身赴任で家を開け、家族のもとに戻ってくるのは月に一回か二回ほど。その間に血が繋がってないとは言え、自分の娘に手を出すとは考えたくもない。


 初めて母親と妹を紹介された時、久下は中三の受験生、綾香は中二だった。

 元々素行はそんなに悪くはなかったし、勉強も嫌いではなかった。

 一応目標にしていた高校を目指し、受験勉強に励んでいた、平凡な受験生だった。だからなぜこのタイミングで新しい家族を紹介するのかと、父親を憎々しく思っていた。

 久下は子どもの時から父親に対して良い思い出はあまりない。

 いつだって自分勝手で、実母と離婚したのも、長男だからと久下を自分のもとに置いたのも、父親が全部一人で決めた事だった。息子の受験より、我が身の幸せを優先したことも。


 案の定、第一志望校は合格出来ず、望んでいなかった今の高校に通うことになった。そしてぎこちない共同生活が淡々と継続され、久下の日々も徐々に乱れていった。

 おまけに、年頃の──戸籍上の妹は、思春期の男の目を気にすることもなく、風呂上がりには下着姿で家をウロウロする。

 乱れた習慣は母親と二人だけの生活を長く続けていたからと分かっていても、年頃の男だ、どうしても邪な目で追ってしまう。

 久下家の女性二人は、欲望を孕んだ視線を送られていることなど、露程も思ってないのだ。

 父や久下が注意しても、本人はカラカラと笑うばかりで、いつだって家の中で好き放題している。奔放な女だとずっと思い、自分のことも馬鹿にされているのもわかっていた。


 自然と久下の自慰のネタは綾香になった。それが恋心から生まれたものか、性的欲求からなのかわからない。わからないまま、性欲の吐口にしていた。

 だが、金が必要だと泣きじゃくり、自分を頼る姿を愛しいと初めて思った。

 しかもその涙の理由が父親の不貞だと知り、久下の感情は一変した。

 嬲られただけではなく、体に一生消えぬ重荷を植え付けたのだ。それなのに当の本人は何食わぬ顔で、単身赴任先での独身を謳歌している。

 中絶費用が必要だと相談された時、怒りで体が震えたのを昨日のように思い出せる。


 十万もの金を用立てることは自分には無理。そう思った時、よぎったのは冬亜の存在だった。

 普段はいいように標的にし、光宗達と一緒になって退屈凌ぎにいたぶっていた。虐めてくる相手から金を貸してくれと言われれば、大抵の人間は断るのも当然だ。脅して金を奪えばいいのでは……とも考えたが、そこまでの度胸は持ち合わせていない。自分より弱い相手でも、一人では何もできないのだ。

 なのに、冬亜は首を縦に振った。正直、無理だ思っていた。ただ、条件はあった。金の使い道を話すことだ。


 親父が娘をレイプした──。こんな話し、他人からすれば驚愕で侮蔑に値する。警察沙汰に密告されるかもしれない。聞く人間によれば面白すぎる話にもなり得る。だから、間違っても光宗達には知られたくない。

 けれどいざ、冬亜に話してみると、どの感情にも当てはまらなかった。

 ここぞとばかりに反撃してくることもなく、久下の話しを淡々と聞く冬亜を不気味にも思った。

 不可思議な態度に疑問は残ったが、久下は腹を括った。

 金を用意してくれるのなら全てを晒そうと。

 十万は、知らない間に久下のリュックに入っていた。

 冬亜の気が変わらないうちに、金をすぐ綾香に渡し、さっさと中絶しろと強く言い含めると、数日後、綾香は夏休みに入って手術を受けたと言う。


 同じ家で暮らしていても、思うように綾香の気持ちを伺うことが出来ない。

 どこの病院に行ったのか、金は足りたのか。治療した後なのにそんなに出歩いても平気なのか。それと……自分を避けるよう、毎日出かけるのは何故なのかも尋ねたかった。

 共働きをいいことに朝は遅くまで寝て、ようやくリビングに顔を出したかと思うと、身支度を済ませてどこかへ出かけて行く。

 夏休みに入ってから何度もそんな行動を目にし、久下は真剣に体を心配していた。


 久下の部屋の隣、綾香の部屋からは今日もまだ目醒めた気配は感じられない。壁一枚向こうにある世界が透けて見えないかと、久下はベッドに横たわったままジッと眺めた。

 エアコンの効きが良すぎ、リモコンを手探りで探し当て、温度を何度か上げると、微睡む頭をゆらりと起こす。そして決意を双眸に込めた。


 今日こそは……。


 妹を助けたい一心で好ましく思ってない相手に借りを作り、そいつの言葉にずっと翻弄されている。

 家庭崩壊になってもいいのか、それともこのまま知らぬ存ぜぬをしたまま、一生家族と言う仮面を被って生きていくのかと。


 今日、母親はいない。その間に久下は綾香と話がしたかった、母親にこの話をしていいのかを判断するために……。


「シャワーでも先に浴びるか」

 

 エアコンで冷えた体を起こすと、久下は部屋を出て一階へと向かった。

 昼前なのに、リビングにもキッチンにも綾香の姿はない。念のため、玄関を覗くと、お気に入りのサンダルはある。まだ起きていないと安堵し、久下は風呂場へと向かった。

 熱い湯を頭から浴び、脳も心もスッキリ切り替えると、バスタオルを腰に巻いたまま、冷蔵庫を開けようとした時、玄関のドアを開ける音が聞こえ、久下は嫌な予感がした。

 上半身裸のまま玄関まで走ると、さっきまであった綾香のサンダルが見当たらない。


「また出かけたのか……」


 呟いて肩を落としたものの、すぐに階段を駆け上がり、自室へと戻るとTシャツに頭を捩じ込みながら、もう片方の手にはハーフパンツを掴んで足を突っ込んだ。濡れた髪のまま、スマホと財布をポケットに捩じ込み、キャップを手にして玄関へ急いで向かう。なぜか今日、綾香と話さなければと、脳のどこかで指令が下される。


 外に出て左右に目を凝らした後、久下は迷いながらも駅への道を選択した。

 暫く歩くと遠目に改札が見え、利用客が出入りするのが見える。だがそこに綾香の姿はなく、方向を間違ったと落胆していると、駅の横にある公園に目が止まった。

 久下は路駐していた車の陰に身を潜め、ブランコに乗っている綾香を見つめた。声をかけるタイミングを見計らっていると、久下がいる方向と反対にある公園の入り口から、一人の男が綾香に歩み寄るのに気付く。

 昼下がりの一番熱い時間帯に、公園を訪れる人はいない。キャップ下から滲み出る汗が顎を伝うのを手の甲で拭いながら、綾香に近付く存在を久下は注視していた。


 男の背格好を見る限り、久下と変わらないか少し年上に見える。学校の友達だろうか。

 元は他人だった妹の交友関係を気にしたことはなかったが、自分の中の恋心を自覚すると無関心は独占欲に顔つきを変える。

 男に歩み寄る綾香の様子が気になっても、今いる場所では二人の声すら聞こえない。おまけに公園中の木々からは、鬱陶しいほど蝉の声が降り注いでいる。


 ジリジリと照りつける陽射しに耐えられなくなったのか、綾香と男は公園を出て駅の方へと移動した。距離を少し置き、二人の後を付けると駅前にあるファミレスへ入って行くのを確認する。時間を空けて久下も後に続くと、案内に来たスタッフを軽くあしらい、店の一番奥の窓際に座る綾香達に気付かれないよう、久下は真後ろの席を選んだ。

 各席には目線よりも高い間仕切りがあり、視界はある程度プライバシーが守られているため、二人は久下の存在に気付いてない。

 久下は綾香と間仕切りを挟んで背中合わせになるよう座った。


 オーダーを取りに来たスタッフに、久下はメニュー表のアイスコーヒーを指差す。

 店内は夏休みのせいか、テーブルの上に教科書やノートを広げた学生のグループが点在していた。弾ける声と流れる音楽が重なり、互いの会話は側にいる人間にしか聞こえない。久下の耳にもかろうじて綾香と男の声が聞こえる程度だ。


「綾ちゃんマジで、サンキュな。この間の件、ほんっと助かったよ」

 綿埃のように吹けば飛ぶような軽い口調で、男が綾香に礼を言っている。

「ううん、いいのよ。私はあっくんの役に立てて嬉しい」

 甘い……声。今まで聞いたことのないの声だ。

「あの金がなかったら、俺マジでアイツらにボコられてたわ」


 ──金? どう言うことだ……。


「私、あっくんが酷い目に合うと思ったら、耐えられなかった。だから何とかして助けたいって思ったんだ」


 ──助けたい……?


 久下はテーブルに置かれたグラスに、ストローをさしながら首を傾げた。

 嫌な予感が浮上し、それを流し込むようコーヒーを啜る。


「でもお前、よく用意出来たよな、十万なんて大金をさ」


 ──十万?


 男の口にした覚えのある金額に、久下はグラスを持つ手が震えた。


「あのお金ね、兄貴が用意してくれの」

「へえ、いい兄ちゃんだなぁー」

 嫌味、皮肉。そんな思いが含まれたように『兄貴』と呼ばれた。

 久下はグラスから手を離し、骨が浮き出る程固くこぶしを握り締めた。

「いい兄ちゃん? やめてよ気落ち悪い。家族になってからアイツ、ずっと私のこと変な目で見ててさー。キモいったら仕方ないの。アイツの頭ん中で私、犯されてるのかも」

「うわー、近親相姦かよ。いや、違うか、血は繋がってないもんな」

「まあ血は繋がってないけどさ。だからこそ、私は身を守るためにアイツとは極力二人っきりにはならないようにしてるんだ」

「そうだな、気をつけるに越したことはない。まあ、俺は金返せて命拾いしたけどさ。でもお前の兄ちゃん、よくそんな大金持ってたよな。お年玉でも貯めてたか」


 裏声のような引き笑いが聞こえ、見知らぬ人間を揶揄する男に怒りで震えが生まれる。

「あー、何か友達から借りたんだって」

「何それ。高校生ってそんな金持ってんの」

「知らなーい。どうでもいいよ、それより私、女優にでもなろっかな」

「何だよ急に」

「だってさ、アイツから金引っ張るのに、私めっちゃ演技したんだよ。義理の親父を悪もんにしてさー。涙まで流して、もう名演技だったんだ。あっくんに見せたかったよ。アイツ、コロって騙されてめっちゃ怒ってんの。今にも単身赴任先に乗り込む勢いだった」

「お前、一体どんな話しぶっ込んだんだ」

「聞きたい? あのねぇ、私が親父にレイプされたからって言った。んで、妊娠しちゃったから中絶費用がいるってね」

「はあ! ちょ、ちょっとマジか。びっくりして俺、大声出ちゃったじゃないか」

「だって私、あの親父大嫌いなんだもん。顔見りゃ勉強しろ、いい大学に行け。兄貴はロクでもないから、お前ぐらいしっかりしろって。ほんと、マジでウザい加齢臭オヤジ。これくらいやってもバチ当たんないでしょ」

「お前なあ、一応親だろ? そんなことして、兄貴と親父が揉めたらどうすんだ」

「揉めたらって。どうせアイツは親父に何も出来ないって」

「いや、親のくせに娘に何してんだーとか。警察沙汰とかさ、それに兄ちゃん、絶対お前のこと好きだろ?」

「うん。好きだと思う」

「いやいや。うんって……。知ってて利用したのか? お前怖いわ……」


 奇怪な会話が一瞬途絶え、男が綾香にひいているのが見えなくても伝わる。

 俯いたままの久下は肩を震わせ、汗をかいたグラスをジッと見つめていた。

 喉が渇いているのに、目の前のコーヒーに手を伸ばさず、乾燥した粘膜に生唾を流し込むことしか出来ない。

 生まれて初めて怒りで体が震えているのを実感した。

 全身を巡る筋肉の腱がブチブチと音をたてて切れ、紐で吊るされないと力が入らないような感覚を味わう。


 どれくらの時間が経ったのか、二人の会話は聞こえていても、頭の中を通り過ぎていくだけだった。

 背後から席を立とうとする気配を感じ、久下はかぶっていたキャップを頭皮に押し込み、更に目深に被って顔を伏せた。

 二人は久下に気付かないまま会計を済ますと、店の外に出て行った。

 席に座ったまま動けずにいる久下は、二人のいた席を片付けに来たスタッフに怪訝な顔を向けらても、焦点の合わない目で店内をボーッと眺めていた。


 脳がどんどん冷えていく感覚を味わいながら、綾香の話していた言葉を、何度も何度も頭の中で反芻した。

 馬鹿だった……。辿り着いた言葉だった。

 惚れた弱みと儚げな涙に騙された。心底から父親を憎み、裏切られたと腹が立った。家族が崩壊し、自分の将来を失う覚悟もあった。冬亜に頭を下げ、金も借りた……。

 全部、全部、全部、綾香のためだった。

 そう思うと、久下の目頭は熱くなり、漆黒の水面に涙がポタポタと落ちていく。


 唯一の救いは、父や母にまだ伝えてなかったことだ。

 様子のおかしかった自分を、心配する母親を邪険にしてしまった。でももう、それもどうでもいい。

 どうして自分がこんな思いをしてるのか。

 見知らぬ男と一緒になって馬鹿にされ、耐え難い屈辱と怒りがグラグラと腹の中で煮えたぎっている。

 十万を冬亜に返すアテもない。バイトして返すと言ったものの、今更そんな気にもなれない。あんな人間のためになぜ、自分が汗水流して働かないといけないのか。


 あの二人が返せばいい。それが正しい……。


 そう思うと、久下は伝票を掴み、急いで支払いを済ませて店を出た。

 勢いよく飛び出し、二人を追いかけようにも行き先は分からない。

 久下はまたしても自分の馬鹿さ加減に呆れた。

 煮えたぎる怒りを抱えたまま、行く当てもなく、ただ街を彷徨っていた。

 どうやったらこの裏切りを晴らせるのか、どうやったらあの女を懲らしめることが出来るのか。そんなことばかりを考え歩いていると、通りかかったファーストフード店から出てきた人物に「よお」と声をかけられ、久下は虚な目で声のする方を振り返った。


「光宗、杉元も……」

「お前何してんの。一人か」

「あ、ああ……」

 覇気のない返事をしても、それに気遣う奴らではない。久下の肩に腕を回しながら、光宗が、暑くて暇だなぁと怠そうにほざいている。

 暑いならこの湿った腕を退けろよと、言いたかったが、今の久下にその気力はない。


「何だよ、お前元気ないな。なんかあった?」

 退屈を発散させるネタを欲しているのか、光宗が、なあ、なあと執拗に絡んでくる。

「……光宗」

 不意に久下が名前を発した。

「なになに、どうした久下ちゃん。悩みか」

「もしお前らが騙されて借金抱えることになったら、どうやって返す?」

 くだらないと知りつつ、久下は二人に質問してみた。


「は? なに突然。心理テストか」

 ケラケラと笑いながら、光宗と杉元が小馬鹿にした視線を向けて来た。

「ちげーよ。ってかやっぱいいわ」

 投げやりな態度を見せると、逆にそれが気になったのか、光宗がまた肩に腕を回し、今度は猫撫で声を出してくる。


「どうした、不機嫌だな。その心理テスト、お前のことか」

 この光宗と言う男は、こう見えて意外と勘がいい。勉強は出来ないが、人の心の隙間にそっと忍び込むことには長けている。

 高校に入学して同じクラスになったのが運の尽き、顔見知りのいない教室で不安そうにしているのを、光宗に声をかけられたことを久下は思い出した。

 周りに溶け込めず一人でいる人間を自身のテリトリーに加えるか、標的にするかを見極めている。気付いた時には、久下も道徳の是非などどうでもいい人間になっていた。


 冬亜のことも最初はそうだった。

 二年になって同じクラスになり、いつも一人でいることに光宗は目を付けた。まるで新しいおもちゃを手に入れるように。だが、冬亜は自分達の予想を反し孤高を気取っていた。当然、光宗はそんな冬亜を標的に変えた。

 光宗を歯牙にもかけず、怯えることも、従うこともしない冬亜に光宗の怒りは煽られ、加速していく嫌がらせをクラスの連中は見て見ぬ振りをする。

 葵葉を除いては。

 なぜか葵葉に対し、苦手意識を持つ光宗も、黙っていればそこそこの相好なのに、思考が幼稚だから勿体ない。

 久下は自分の肩の上で戯れ付く光宗を一瞥し、重い溜息を吐いた。


「溜息ついてるじゃん。やっぱ悩み事があんだろ? 話してみろよ、俺達親友じゃん」

 親友──。久下は思わず笑いそうになった。

 親友、家族、妹──。揺るがない信頼関係がさもあるような、それらを表す便利な言葉だ。

 光宗が口にすると、小綺麗な言葉に信憑性がないことが裏付けられる。


「なあ、マジ、お前どうしちゃったの。今日えらく静かじゃん」

 二人の後をくっついて歩く杉元が、二、三歩駆け足し、久下の前に回り込むと、下から覗き込んでこちらを伺ってくる。

「いや、何もな──そう……か、親友か」

「そうそう、俺達親友じゃん。何でも話せよ」

 吐き出す言葉全てが軽い。それが楽で久下も連んでいたところはある。でも虚しいとも同時に感じていた。そして今、人生で最大な虚無感を味わっている。


「──あのさ、お前らヤッたことある?」

 魔が差した──。この時、口から放った言葉は、まさしくそうだった。

「何をだよ」

 さっきまで戯れていた光宗が、不意に真顔になり聞き返してくる。

 やっぱりこいつは勘がいい……。

「セックス」

 わざと卑猥に聞こえるよう、久下は吐息混じりに囁いた。

「セッ──って、お前急に何言ってんの。欲求不満か」

 あからさまに反応したのは杉元だった。

「別に欲求不満じゃない。ただ、お前ら経験してんのかなーって」

「ふーん。お前は?」

 わざと剃り残してある顎髭を撫でながら、光宗が聞き返してくる。

 ワイルドかアウトローか知らないが、光宗は自分でカッコいいと思っているのだ。ただ、だらしないだけなのにな。


「俺はない」

 久下はキッパリと答えた。

「へえ、やっぱ童貞だったか。でも心配すんな、こいつもお仲間だから」

 そう言って光宗が顎で杉元を指す。

「と言うことは、光宗は経験済みなんだな」

「まあな。中三の時、兄貴の彼女と」

「マッ、マジか! お前それどんな状況だったんだよ」

 杉元が動揺を隠しきれず、声を荒げて言った。

「どんなって、兄貴が留守の時にその女が誘ってきた。谷間をチラつかせてさ」

「お、お前、それバレたら相当ヤバかったぞ。よくヤったな」

 感嘆した声で杉元がポカっと口を開け、得意げに話す光宗を憧憬の眼差しで見ている。


「まあな。で、何で久下はそんなこと聞いてくるんだ」

 ファーストフード店から随分と離れ、夏の陽射しの中、だらだらと歩いていた三人は、光宗の言葉で足を止めた。

 久下は狡猾な笑みで二人を見据えた。

 歩道に連なる銀杏の木から、地中で過ごした鬱憤を晴らすよう、蝉たちが叫んでいる。忙しない声のはずなのに、三人の周りだけは時間が止まったように静寂だった。

 短命を嘆く鳴き声を背景に置き、久下は悪計を想像させる笑顔を二人に向けた。


 三人が立ち竦む通りの奥まった場所で、元あった建物を解体しているのか、作業員が額に汗して埃の中で作業をしている。

 元々あった建物は確か、ボーリング場だったか、映画館だったか……。

 記憶にも薄れているだだっ広い場所を目の端で捉えつつ、久下は期待を込めた目で見てくる光宗と杉元の視線を感じていた。

 一瞬、光宗が息を呑んだのも伝わってくる。


「ヤリたいか? もし相手が女子高生だと杉元も嬉しいだろ」

「何だそれ、ドッキリか何かか」

 聡い中に冷静さを忘れない光宗が、確かめるよう久下を睨んでくる。

「いいや」

「じゃ何だよ。ちゃんと言えよ」

 二人のやり取りに興奮していたのは杉元だった。

 久下も女性の体に興味はあるが、ファミレスを出た時点で欲望は一切、消えた。

 可愛さ余って憎さ百倍と言うが、久下にとって頭に浮かぶ『女』は、百倍どころか、千倍──いやそれ以上の憎悪が産声を上げていた。


「俺の知り合いでセックス大好きって女がいる。お前らその女とヤリたくないか」

「ヤリたいっ!」

 食い気味に返事したのは杉元だった。そりゃ当然だ、童貞で彼女もいなけりゃ風俗に行く金もない。いや、年齢でそもそも無理だけれど。

 金のない男子高校生に、ただでやらせてくれる相手がいるなら、男、ましてや童貞にとってそんな好都合はない。


「いいじゃん、面白そうだな。で、その女はどこにいる。俺らの知ってる女か」

 光宗が側にあるガードレールに腰を下ろすと、前屈みになり、顎を支える腕を、組んだ膝に乗せながら久下を見上げてきた。

「いや。でも、そうだな……」

 久下はぐるりと周りを見渡すと、何かを閃いたのか、片眉をクイっと上げた。

「何、何、久下。早く言えよ」

 既に下半身を興奮させているのか、杉元が餌を待つ犬のように舌を出す勢いだ。

「今日の夜、そこに女呼び出すわ」

「そこ──って、ああ、あそこか?」

 光宗が同じように久下の視線を追いかける。

 二人の視線の先には、重機の音と砂煙が舞い上がる、解体作業中の現場だった。

 日中だけしか作業をしていないことは、現場の前に貼り付けてある建築計画のお知らせに記載されていた。

 夜になればここは誰もいなくなる。解体中の建物はこの広い土地に二ヶ所あり、手前はほぼ原型を留めていなかったが、その奥に建っている古びたビルはまだ手付かずのままだ。


「ほら、あの三階建ての奥のビル。あそこで今、煙草吸ってるおっさんいるだろう。きっと作業の合間に飯食ったりとかで、休憩場所に使ってるんだ。ビルの入り口のドアはもう取り外されてて、中には簡単に入れる」

 久下は視線で二人に伝えると、光宗と杉元は顔を見合わせた。

「あそこがヤリ場か。いいな、金かかんないし。これって青姦になるのか、めっちゃ興奮するじゃん」

「だろ? 女も場所もタダだ」

 ヒューと、変な音の雄叫びをあげ、興奮してぴょんぴょん跳ねる杉元を尻目に、光宗がぺろりと舌で自身の唇を舐めていた。

 退屈な長い夏休みのアクティビティだとでも思っているのだろう。

「で、何時にする? ってか、本当にその女連れて来れんのか」

「ああ。どうしてもここに来たくなる魔法の言葉があるからな」

「何だそれ。ファンタジーかよ」

 馬鹿げた会話をしながら、三人は顔を見合わせて下品に笑った。

「まあ、楽しみにしとけよ」

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