二つの事件

 久下や光宗達の処罰は、夏休み中の登校日に生徒達の格好のネタになっていた。

 普段なら旅行や海に行った話で盛り上がるはずだった。だが今年の夏は明るい話題など一切なく、教室中は今日登校してない三人の話題で持ちきりだった。ただ、噂はどの生徒が口にする内容も曖昧で、誰の話が真実なのか分からない。

 自分に関係ないことなら、口にする誹謗中傷は薬物のようにやめられない。誰もが簡単に共有することの出来る、憤慨と興味を堂々と口にして快楽を堪能している。


 聞こえてくる不快なノイズに、冬亜はやっぱりこの国もくだらないなと冷嘲した。事件からまだ数日しか経っていないのに噂が広まったのは、自分がどれほど酷い目にあったかを綾香が母親に打ち明け、学校や警察が動いたからだ。

 兄が友人を煽り、自分の妹を辱めたのは学校と言う小さな世界だけではなく、世間を騒がせる程の驚愕で常軌を逸した事件となった。


 教室では担任が不在なのをいいことに、生徒達は席にもつかず光宗達ならいつかこんなことやらかすと思ってたなと、嘲り笑っている。彼らは自分達も同じ穴のムジナだと言うことに気付いてない。

 なんてお気楽で自分勝手な生き物なんだろう。


 机に頬杖をつき、考えあぐねいていた冬亜だったがそれはほんの一瞬で、勝手に出てくる笑いを必死で噛み殺していた。

 人間は同じ標的を作ると一気に団結する。そうすることで、正義感をかがけている気になっているだけだ。歪んでいることにも気付かず、悪い奴は罰するべきだと、シュプレヒコールのように。


 十万は安いくらいだったなとほくそ笑みかけた冬亜は、机の上に影が差したことに気付き顔を上げた。

「冬亜、なあ、光宗達来てないよな。それってみんなが話してることが原因なのかな」

 夏休みに入る前と何も変わらない葵葉が、不安顔を覗かせている。

「さあな。でも、普段のあいつら見てたらわかるだろう。きっと自業自得なことだ」

 投げやりに言うと冬亜はスマホを出し、SNSの書き込みを葵葉に突き付けた。そこには、『十七歳男子高校生二人、女子高生に乱暴』とタイトルがつけられ、記事の内容も卑猥な表現で書かれてあった。


「乱暴って……何やったんだ、女の子相手に」

 疎いのか、純情ぶっているのか。眉をひそめ真剣に被害者の女の子に同情する葵葉に、

「女に乱暴って言えば強姦に決まってるだろ」

「ご、強姦って──」

 これまでもこの先も一生口にしないであろう単語に、葵葉の顔は蒼ざめた。

 自分とは違い、清潔で綺麗な世界で生きてきたからこんな一言で動揺するのか。

 幸せなやつだと辟易しながら、冬亜は教室の入り口に目を向けた。

 副担任がドアを開け入って来ると、葵葉や他の生徒も慌てて自席へと戻った。

 騒ついていた教室は潮が引くように静まり、生徒達の目は一斉に、教壇に立つ若い女性教師へと向いている。


「……えっと、みんなおは──」

「先生、光宗達は? あいつら何やったんだ」

 一人の生徒がぎこちない教師の挨拶を遮り、全員が知りたがっている質問を投げかけた。案の定、副担任は一瞬で顔を強張らせ、分厚い眼鏡のズレを治すフリをし、返す言葉がどこかに落ちてないかを必死で探している。


「なあ、先生。二人って書いてあったけど、今日来てないのは光宗ら三人組のことだろ。二人ってどう言うこと? 警察沙汰って聞いたけど、マジでアイツら捕まったの?」

「光宗、杉元、久下の内、ひとりは関係ないのか? でも三人来てないよな。ってことは光宗は絶対だろ、じゃあ杉元か久下のどっちかは関係ないのか」

「ブッキーは今日どうしたんだよ、なあ先生」

 矢継ぎ早に質問を投げかける生徒達に、毅然とした態度は落剥し、新米教師は今にも逃げ出しそうだった。


「い、今はまだ何も話すことはありません。壽先生も、えっと……校長室にいて対応は出来ませんので。そ、それより今日までが期限の課題を提出して下さい。それで解散にしますから」

 どうにか自分の役目を果たそうと、副担任が上擦った声で叫び、視線はクラス委員の冬亜へと救いを求めている。察した冬亜はすっと席を立つと、「じゃあ、後から集めて」と、いつもの口調で言い放った。


 普段と変わらない冷静な冬亜に引き摺られたのか、生徒達はゴソゴソとかばんを漁り、課題のファイルを取り出すと無言で回収作業に移った。

「先生、俺が後で職員室まで持って行きます

 語尾に『早く退場しろ』と意味を込めて言うと、副担任は気付いたのか、お願いねと言い残し、そそくさと教室を出て行った。

 役に立たない大人に冷嘲し、冬亜は教壇の上で集められたファイルが揃ったことを確認すると、そのまま教室を出ようとした。

 両手一杯のファイルで手が塞がり、扉を何とか自由の利く指先だけで開けようとしていると、自動ドアのようにスッと開き、いつの間にか横に立っていた葵葉の顔を一瞥した。


「どーも」

「手伝うよ。冬亜、半分かして」

「いや、いい」

「いいっていいって。ほら」

 そう言うと、葵葉が冬亜の腕から強引にファイルを半分奪った。

「おい──」

 スタスタと前を歩く背中に声をかけても、相手は振り返ろうともせず、鼻歌を歌っている。冬亜はこのお節介が今に始まった事ではないと諦め、わざと聞こえるように溜息を吐くと少し後ろをついて歩いた。


 職員室に入ると、夏休みの登校日に教師が全員揃い踏みなのは普段通りだったが、顔付きは異常に強張っている。いつもと違う大人達は、不穏な空気を漂わせていた。

 冬亜と葵葉は壽の机上に課題の束を置くと、会釈をして職員室を後にした。

「ブッキーいなかったな」

 葵葉がポツリと呟く言葉に、だなと短い会話で終わらせる。いつもならリターンがあるのに、珍しく葵葉からは続きの言葉はなかった。

 二人は鞄を取りに教室へと向かうと、もう既に教室には誰も残っておらず、ぽっかり空いた空間が、所詮は他人事だと言っているように思える。


「あっちーな。あ、そうだ。冬亜、帰りに何か冷たいもん食いに行かないか」

「いい、帰る」

「えー、またそんな冷たいこと言って。あ、シャレじゃないよ。それとも何か用事でもある?」

 自分の言葉にへへっと笑いながら、懲りずにお人好しはまだ食い下がってくる。肩に鞄をかけながら「別に」と、突き放すように言った時、廊下からスリッパの足音が聞こえ、壽が姿を現した。


「檜垣、よかったまだ残ってて」

 冬亜の元へ歩み寄る壽の顔は、病み上がりのようにひどく疲弊していた。

 無理もない、自分の受け持つクラスの生徒が非道徳な問題を起こしたのだ。

「何ですか、先生」

 壽が来た理由は想像できる、きっと久下に貸した金の事だろう。

「ちょっと聞きたいことがあるんだ。帰る前に悪いな、少し時間もらえるか」

 申し訳なさそうに言う壽は、冬亜への気遣いからか眉間のシワを深め、スリッパの裏を床に擦り付けるように近付いてきた。


 返事の代わりに首を縦に振り、葵葉の方を一瞥した。その視線で帰れの合図を悟ったのか、葵葉が、じゃあ先に帰るよと、教室を出ようとした。

「あ、水久里。お前もいてくれるか。ちょっと、証人──と言うか、二人っきりじゃない方がいいと思ってさ。檜垣も心細いだろうし」

「えっ、あ、はい……」

 冬亜の顔色を伺ってくる葵葉が、俺がいていいの? と言いたげな顔で見てくる。邪魔だと思ったが証人がいる方がいいとも思い、舌打ちを閉じ込めた。


「今日みんなが騒いでた話しのことだけど、正直全部お前達には話せない。それはわかってくれよな」

「ええ、分かってますよ」

 冬亜が答えると、葵葉も横でうんうんと頷いている。

「檜垣、お前久下に金を渡してないか」

 壽はいきなり本題へと切り込んできた。さっきの副担任や、他の年長者の教師のように遠回しにしたり、まどろっこしい話し方はせず、ストレートな物言いで。そこには慎重さを含んだ物言いで話を進めようとしているのも伝わる。


「渡してますよ」

 冬亜の返事に驚いたのは、横で話を聞いていた葵葉の方だった。

「やっぱり本当だったのか」

「久下が話したんですよね」

「……そうだ。昨夜警察に言って聞いた、お前に金を借りたと。しかも結構な額だよな。お前、よく持ってたなそんな金」

「まあ、うちは金だけはあるみたいなんで」

「理由を聞いてもいいか、その、脅された──とかではないよな?」

 壽の問いかけに葵葉が表情を曇らせ、丸い目でこちらをジッと見ている。


「違いますよ、貸したんです。あいつの妹の中絶費用のために」

 淡々と、それでいて誰もが想像を超える回答を口にした。するとまた葵葉の顔が引きつっている。『強姦』に次いで『中絶』なんて言葉は葵葉にとって、宇宙のはるか彼方のまだ向こうにあるくらい縁遠い単語なのだろう。

「やっぱりそれも本当だったのか……」

「久下の妹がレイプされて妊娠してしまったから、その子どもを始末する費用がいると相談されました」


 冬亜の答えに壽が絶句し大きな溜息を吐いた。

 一方葵葉の方は、ドラマや映画などでしか耳にしない、信じ難いワードに顔面蒼白となっている。

「始末って──。お前そんなゴミ扱うみたいな言い方するな。赤ん坊なんだぞ……。でもま、その話しは嘘だったらしいんだけどさ」

「嘘? 久下の妹は妊娠してなかったんですか」

 壽の話を聞いていた冬亜は、目尻をピクリと反応させた。まさか久下が自分に嘘をついて金を引き出させたのか。そう思った瞬間、してやられたと怒りが込み上げてくる。


「まあそうだな──と、これ以上は……話すことが難しいな」

 自身の口を手で覆い、壽が言葉尻を濁す。続きを話せと問いただしたところで、戸を立てた教師の口を開かせることは無理だろう。だが、嘘を吐かれていた怒りに駆られ、自分には知る権利があると主張してみせた。その反論に暫く黙考していた壽が、不意に顔を上げると唇をゆっくり動かす。


「……妹さんはお金欲しさに久下に嘘をついたそうだ。久下は妹さんの話しを信じ、何とかしてやりたい一心でお前に相談した。けど事実を知ってアイツもショックだったんだろうな、あんな事するまでとは……」

「あんなこと?」

 黙って聞いてられなくなった葵葉が思わず口を挟むと、壽がしまったとあからさまに焦りを浮かべた。本当にこれ以上は生徒に聞かせられない……そう顔に書いてあっても、冬亜だって今更引けない。


「先生、あんなことって何ですか。他言はしません、俺も水久里も。だから話して下さい。さっきも言いましけど、俺には知る権利ありますよね」

 十万円を貸した──その大義名分がチラついたのか、壽の唇は少しの間もたついていたが、事件の一部始終を簡潔に、一つひとつ言葉を繊細に選びながら二人に話した。

 壽の話を聞き終わると、冬亜と葵葉は身震いした。だが冬亜の震えは葵葉とは種類が違うものだ。獣と化した同級生に恐怖を抱いた葵葉と違い、冬亜のそれは多幸感からくるものだった。


 まだ十七年しか生きてない高校生が歯車を狂わせ、あっさりとタガが外れてしまった。


 史上最高だな、久下……。


 心の中で警察署に捕らわれた久下に称賛しながら、想像を上回る結果に鼓動が高鳴り舌も巻いた。

 久下と同じように妹の話を信じ、してやられた気分だ。

 ほとほと女と言う生き物は底知れない。自分の目的を果たすためなら、家族をも嘘で陥れることができるのか。


 感心と悔しさで、冬亜の表情は翳りをさしていた。それが壽の同情を買ったのか、肩に手を置かれ、「お前もある意味被害者だよな」と、慰められる。

 冬亜は吹き出しそうになるのを隠そうと、視線を落とした。すると、横から手が差し伸べられ、冬亜のシャツの袖を摘む葵葉と目が合う。

 まだ蒼ざめている葵葉を見て、こいつこそ被害者だろうと本気で同情した。


「檜垣には申し訳ないが、返金の話しは後回しになる。今は留置所に収監されてるし、久下の親御さんもそれどころではないしな……。勘弁してくれよな。あー、もう別件でバタついてるってのに」

「さっきも言いましたけど、金のことはいいです。それより別件って何ですか」

 思わず愚痴った壽の言葉を、冬亜はすかさず拾った。

「あ……いや、実は生徒が事故で亡くなったんだ。そっちもゴタついててさ。お通夜や葬式は終わったんだが、事故の原因が──っと、これ以上は──」

「事故死? その生徒って何年ですか、事故の原因って?」

 壽の語る言葉に、冬亜の心臓が激しく跳ねる。

 普段は自ら語ることなどあまりない冬亜に尋ねられ、壽が瞠目しながらも開き直ったように語り出した。


「二年だよ……。お前らも体育の授業が同じだから顔くらいは知ってるか、木船って生徒だ。二組の木船智景きふねちひろ

「木船っ!」

 声を荒げて言ったのは葵葉だった。口をパクパクさせながら、何か言いたげに両手をバタバタさせた後、平然としている冬亜の腕に縋ってきた。

「なんだ、水久里は木船と知り合いか」

「原因って何ですか」

 早く結末を知りたかった冬亜は、壽の言葉を鋭く遮った。

 剣を振り翳したような声に呑まれたのか、壽が事故のあった経緯を掻い摘んで説明してくれる。


「──だから今、そっちも警察絡みで大変なんだ。もう、なんて夏なんだよ。俺は実家にも帰れやしな──っとと。すまん、つい愚痴ってしまったな」

 バツの悪そうな顔を残し、壽は早く帰れよと一方的に投げかけると教室を出て行った。

 残された冬亜と葵葉は、暫くの間その場で放心状態になっていた。

 情報量が多過ぎてキャパオーバーなのか、葵葉の顔はショックで凍りついている。体を脱力させたまま側にある椅子に腰を下ろし、葵葉がジッと床に視線を落としていた。そんな葵葉を横目に冬亜は、拝田と初めて会った日のことを思い出していた。


 彼が嬉々として語っていた夢物語を知った時から、冬亜は何か面白いことになればいいと思っていた。

 人より少し度胸があって運転に自信がある、それだけでレーサーになれるなど、本当に思っている人間がいることだけでも滑稽だった。

 拝田が同じ高校出身で、木船と言う幼馴染がいると言うこともその時に知った。

 必然と木船とも顔見知りになると、拝田と木船の関係性が単純な幼馴染ではなく、主従関係にあることも知った。

 強引な拝田に反し、木船の性格は根暗なうえ卑屈な性格で、話していてもつまらない男だった。

 拝田の居ないところでは彼を悪く言うくせに、いざ本人を目の前にすると、枯れ尾花に怯えるといったノミの心臓の持ち主で、正直、口を利くのも嫌気がさした。

 木船を最後に見たのは酩酊し、クラブで別人のようにはしゃぐ姿だった。

 帰り道でも酔いが覚めず千鳥足で浮かれ、拝田の車に自分も乗るんだと息巻いていた。だから、冬亜はその願いを叶えてやろうと思ったのだ。


 窓の外から見える青い空の端に、いつの間にか積乱雲が出現していた。

 夕立が降りそうな暖かい湿った風が、カーテンをなびかせ二人を追い立てるようにはためいている。

 冬亜は表情を曇らせる葵葉を見下ろすと、茶色みがかった前髪がふわりと揺れているのに目を奪われた。開襟シャツの隙間から見える鎖骨は、水を垂らせばそこで甘い水に変わるのではと、想像してしまう。

 プール清掃の時より、湧き上がる感情が進化してる気がした。


 冬亜の視線に気付いたのか、葵葉が半円を描く髪を耳にかけながら顔を上げ、「……冬亜、帰ろっか」と、儚い声。

 放たれたひと言が、声のトーンが、冬亜の胸へ更に刺激を与えてくる。

「……ああ」

 顔を上げた葵葉から逃げるように視線を外し、鞄を手にして教室を出ようとした。背中で追いかけてくる気配に気付き、体の奥で例えようのないくすぐったさを感じる。

 体温が近付いて来た瞬間、体が後へ引っ張られ、「待ってよ、歩くの早いって」と、温もりが放つ方へ体と一緒に心が傾く。


 肩越しに見下ろすと、葵葉の指が自分のシャツの裾を摘んでいた。

 白いシャツに絡まる細い指先を目にし、振り切るように廊下へ出る。

「もー、だから歩くの早いってばー」

 久下や拝原、木船とも違う、冬亜が味わったことのない興奮を葵葉は与えてくる。

 どこが違う──と考えても、自分ではわからない。

 彼から声をかけられることが嫌ではなく、いつしか逆に待っているような気さえもした。


 そんなこと望んでもないのに、調子を狂わされる……。


 冬亜はようやく追いついた葵葉に背を向けたまま、でも、さっきより少し歩幅を狭めて廊下を歩いた。

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