三国(みくに)

「こんにちは檜垣さん、児童相談所の三国みくにと申します。少しでいいので、お話を聞かせて貰えますか」

 インターホン越しに呼びかけるのは今日でもう何度目だろう。やるせない思いを肩から下ろすよう、三国は重い嘆息を吐いた。


 朝、昼、夕と、どの時間帯に来ても、応答には答えてもらえず、門柱に備え付けられている監視カメラに訴えかけるよう見上げるだけで終わる。

 門の向こう側に長いアプローチが見え、その脇を青々とした木々が囲ってある。それがエントランスまで続き、玄関のドアが小さく見えていた。

 近隣の家と比べるとひと回りほど大きい檜垣邸には、一軒家には十分過ぎる広さの庭があり、芝生が前面に地面を覆っている。子どもが駆け回って遊ぶのに最適な場所だが、いつ見ても賑やかな声はなく、沼底のように感情が沈澱しているように静まり返っていた。


 三国が往訪を繰り返すのは、隣家の住人からの一本の電話を受けてからだった。子どもの泣き声が、怒鳴るような声も……。といった内容の通報だった。


「すいません、一目でもいいんで息子さんに会わせて下さい」


 声をかけても応答に出てくる気配はない。それでも三国は諦めず再び呼び鈴を押した。

 職場を出る時に言われた上司の言葉が、ふと脳裏を掠める。

 今日こそは実態を確認してこい──と。

 何度来てもインターホンにすら出てもらえず、こんな状況で実態の確認もへったくれもない。いい加減、腹ただしくなった三国はつい舌打ちをしてしまった。

 児相に国税局ほどの権限でもあれば、こんな門、蹴散らして中に入ってやるのに。


「はあ、今日も無理か。夕食時ならご主人もいるかと思ったんだけどなぁ」

 日中に降った送り梅雨のむせ返りが蒸気の含んだ空気となり、やけっぱちな三国の心も体も不快にしていく。カッターシャツが半袖でも、汗を吸わない安物の素材では清涼感の欠片もない。三国はシャツの襟元を開き、扇子を取り出してパタパタと扇いだ。


 幾分か静かになった蝉が休む木陰に避難し、三国は通報内容を思い返した。

 夜中に子どもの泣き声を聞いた。檜垣家の隣家に住む住人が、窓から覗いて様子を伺っていると、子どもを抱えた檜垣と母親三人が車へ乗り込むと、急発進で檜垣家から飛び出してしまったと言う。

 子どもが病気か怪我でもして、救急にでも行ったのだろう。その時はそう思ったらしいが、これまでも何度か聞いた泣き声が気になり、住人は翌朝役所に一報してくれた。


 三国はこの話しを聞いて嫌な予感がした。

 もし、子どもが虐待され、怪我を負ってしまったのなら行き先はやはり病院だろう。

 もし、大事おおごとになってしまったら、児相は何をやってるんだと上司──いや、世間から槍玉に挙げられる。

 誹謗中傷はあっという間に拡散し、ゾッとする結果になってしまう。


 隣家の通報後、檜垣家を訪ねると一度だけインターホン越しではあったがようやく妻が対応に出てくれた。

 住人の話しを持ち出すと、子どもが階段から落ちて怪我をしたとのこと。大したことはないけれど、頭を打っているので用心のために今は入院してると淡々と話してくれた。

 ダメもとで病院の名を訪ねると、

 主人の知り合いの病院で隣県にあると、病院名ははぐらかされた。

 三国はようやく妻と話が出来たことに安堵したが、よくよく考えれば子どもが階段から落ちれば、慌てる親は救急車を呼ぶか、近くの救急病院へ駆け込むはず。それを知り合いの病院だからと、わざわざ隣の県まで行くのだろうか。


 子どもの状態が気になり、三国は隣県にある病院を調べてみることにした。

 数ある病院から探し出すのは困難でも、民間の病院だと言うことは分かっている。

 ヒントは入院できる病床数、外科系の科があること、小児科も見れる医者がいるか。しかし考えは甘かった。それらしい病院を訪ねても、受付で門前払いだ。話を聞いてくれても、個人情報なのでと、当たり前だが同じ答えばかりもらってすごすごと帰る始末だった。


 成果を得られず、三国はダメもとで妻に尋ねようと檜垣家へ足を運んだ。だが、もうインターホンにすら出てくれない。溜息を痕跡こんせきにして三国はその場を離れた。

 二階の窓から見下ろす視線に気付かずに……。


 役所に戻ると、案の定、三国を待っていたのは上司からの粘着質な小言だった。

 いつもなら三十分は聞かされる小言も、今日が金曜日だったことに救われ、週明けにもう一度行って来いの命令で無罪放免とはなった──が、何度出向いても結果は同じだろう。

 いっそ別の人間が担当になれば──と、根を上げそうになるが、それは物理的に無理だった。案件は他にも山ほどあり、手が足りないうえに担当者を変えるのは粘着上司が許すはずない。やはり、自分が行くしかないないのだ。


 重い足取りで帰宅した三国を出迎えたのは、天使のような息子だった。

 皮肉にも檜垣と同じ歳の息子は、来年の春まで待ち遠しいのか、真新しいランドセルを背負ったまま玄関で父親の帰りを待っていた。


「また背負ってるのか。ばあばに怒られるぞ、汚したらどうするって」

「平気だよ、ちゃんとタオルで拭いてるもん。それよりお父さん、一緒にお風呂に入ろうよ。僕待ってたんだ」

 疲れが一気に吹き飛ぶとはこのことか……。

 無垢な笑顔の息子に甘い誘いを受けて断る親がこの世にいるのだろうか。いや、いるんだ。現実には眉を潜めたくなるほどの数の……。

 だから自分のような仕事が必要とされていると言う、悲しい現実はいつも堂々巡りになる。


「そうだな、お父さんも汗かいてクタクタだ。早く風呂に浸かりたいな」

「僕、背中洗ってあげる!」

「おっ、そうか。それは嬉しいな」

 親子はそんな会話を楽しみながら、妻の待つリビングへと向かった。

 自分の子どもと言うだけで無条件に可愛い。同じ父親として、どうしてこの権利を堪能しないのか。三国はひっきりなしに舞い込む虐待内容をよぎらせ、可愛い我が子と湯船に浸かった。

 こんなささやかなひと時は何にも変え難い。親になった最高の特権なのに。


 三国にとって唯一無二のこの幸せは、無情にも週末を最後に手元から離れてしまった。

 夏真っ盛りな快晴の月曜日、いつものように出勤した三国を待っていたのは、あの粘着質な上司だった。

 出勤早々、会議室に呼び出された三国は、上司から無言で一枚のファックス用紙を机に叩きつけられた。


 ──職権濫用! この児童相談所にはペドフィリアがいるっ──


 用紙に大きく書かれた文字の横には、明らかに三国だと分かる男が、裸の少年の股間に触れている写真が載っていた。

「これはお前なのか。ペドフィリアって小児性愛者って意味だろうっ! お前は仕事と偽ってこんな事をしていたのかっ!」

「ち、違います! これは俺じゃない。俺はこんなことしません」

 写真の載った紙を掴み、三国は必死で弁明した。


「違うって言っても、この写真の男は明らかにお前じゃないかっ」

 上司はそう言うと、威嚇するように机の上を何度も叩いてくる。

「でも俺はこんな事してません! この男の子も知らない子どもです。きっと何かの間違いですっ」

 そう叫んだ時、部屋のドアをノックする音が聞こえ、汚物でも見るような目を向けられたまま上司がドアへと向かった。

 開いた隙間から垣間見えたのは、三国の同僚だった。

 そして遠目にでも分かった──。彼の侮蔑している目の色を。


 三国は二人のやり取りを固唾を呑んで見ていると、粘着上司が革靴を床に打ち付けるよう歩み寄って来た。押し迫って来る形相は、怒気に満ち溢れ三国は自然と足を後退させた。

「またファックスがきた。これを見てもまだ自分じゃないと言い張るのか。お前は児相の立場を利用して、好みの子どもでも物色してたのかっ」

 そう言って再び机に投げ付けられたのは、幼い性器を口に含む、虫唾が走りそうな行為の写真だった。

 目にモザイクをしてはいても、悍ましい行為をしているのは、三国を知る人間ならすぐに彼だと分かる画像だった。


「こ……んな。酷い──」

 写真を見て嘔吐きそうになる口を押さえた三国に、「酷いのはお前だろっ」と、上司の罵声が飛んで来る。

「俺じゃ……ありません。信じて下さい」

 瞼の裏が熱くなり、一気に涙腺が緩む。それでも三国は誤解だと必死で訴えた。

「こんなものが出回れば、仕事どころか生活も出来ないな。可哀想なのは家族だろう。父親がこんな変態では、お前の息子も先が思いやられるな。息子と同じくらいの子どもによくもまあ、こんな卑猥ひわいな事ができるもんだ」


 普段から折り合いが悪かったとは言え、部下の言葉に聞く耳を持たないのが一目瞭然だった。こんな最低な上司の元でこれまで働いてきたのかと思うと、情けないやら悔しいやらで流涙が止まらず、手の中で固く爪を食い込ませた。


 辟易した言葉と視線は攻撃を緩めず、退職を促す言葉だけを残し、粘着した足音で、上司は会議室を出て行った。

 ドアが閉まる音が脳を震わせ、その反動で三国は床に崩れ落ちた。


 いったい、何が起こったと言うのか。


 普通の月曜日、いつものように目覚め、天使と朝食を済ますと、家族に見送られ職場へと向かった。歩き慣れた道のり、同じ時間のバス。役所へ着き自席へとカバンを置いた。そんな日常は先週までと何も変わらない。なのになぜ今自分はこんな場所で蹲っているんだ。


 冷静になれない頭の中では、愛息子と妻の顔がよぎった。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。跪いたままの膝に痛みを感じ、三国は机を支えにゆらりと立ち上がった。吐き出しそうな怒号を飲み込み、『理不尽』と言う言葉を浮かべて唇を噛み締める。


 以前から自分のことを気に食わない上司にとって、真実か偽造なのかはきっと関係ない。程よく目障りな人間を排除できたと、今頃ほくそ笑んでいるだろう。思えば児相に配属されてから、ずっと毛嫌いされていた自覚はあった。こちらは何もしていないのに、自分の何が相手を不愉快にさせるのか皆無だった。


 冷えた頭に浮上したのは、自分がめられたと言うことだ。

 冷静になろうと自分に言い聞かせ、不条理な結末に導かされた原因を考えた。そして辿り着いた答えは檜垣家の子どもの件だった。

 証拠などはない。けれど思い当たるのは檜垣家の子どものことだけ。

 疑念は確信に変わり、ここまでするのかと涙は悔しさを乗せて流れ落ちた。

 何度も家を訪問し、子どもを治療した病院を探そうとした。これが癪に障ったのか。

 ここまでされる程、自分は彼らを追い込んだでいたのだろうか。


 CMで観るくらい有名ゼネコンの社長が我が子を虐待してるなど、マスコミにとっては格好の餌食だ。檜垣はそれを暴かれるのを恐れ、ちっぽけな役人の人生を奪ったのか。

 彼が財界人だけではなく、警察官僚出の偉いさん方と交流があるのも容易に想像できる。きっと権力を駆使し、邪魔な虫ケラを排除するよう手を回したのだ。


「だからって、こんな仕打ちはない!」

 叫び声と同時にこぶしを机に叩き付けた。

 今ここで会議室をめちゃくちゃにし、全力で暴れてやろうかとも思った。だがその感情を必死で堪え、額に青筋を浮き立たせ耐えた。

「もし本当に檜垣がしたことなら俺は奴を許さない……」

 きっとこの話しは役所内だけでなく、自分や妻の実家まであっという間に広がるだろう。人の口に戸は建てられない。

 家族へ向けられる好奇の視線を想像し、三国は手の甲で涙を拭った。

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