檜垣家
「——長、社長。到着致しました」
心地よい振動がなくなり、運転手の声によって檜垣は回顧から覚醒した。
「あ、ああ」
「よくお休みになられてましたね」
「……そうだな、久しぶりだよこんなに熟睡したのは」
「余程お疲れだったのでしょう」
「そうかもな……」
疲弊の溜息を聞いた運転手が外に出ると、傘をさし後部座席のドアを開けた。
「まだ雨足が強いです。お足元お気を付け下さい」
「ご苦労だったな」
「では失礼致します」
雨粒を肩で受け止めながら深々と頭を下げる運転手を背に、檜垣は傘の上を跳ねる雫の音を聞きながら正面玄関へと向かった。
しとどに濡れる革靴の先を見つめながら、まだ、取り返しのつかない過去に囚われていることに憤りを募らせて。
数週間ぶりに帰宅する妻の待つ部屋。
いつものマンションに帰らなかったのは、特権階級の面々が集まるゴルフへ行くために車が必要だったからだ。
こんなことならマンションへ車を持ってきておけばよかった——と、今更な感嘆を漏らしてしまう。
理由がないと帰る気がしない、他人ばかりでくつろげない場所はもはや『家』ではない。
結婚当初は早く帰宅して里古の顔を見たかった。けれど逸る気持ちは、数ヶ月後には
ロック解除し、真っ暗な玄関に灯りを灯して靴を脱いだ。
住人などいないかのように静まり返るリビングに入り、闇を落とした中でソファに腰を下ろすと、フロアライトのスイッチに触れた。
薄くスライスされた白木の板を、ゆるやかな曲線のシェードから放たれた光は赤く透けて見え、癒しの空間を演出してくれる。
部屋の片隅に置いてあるチェストに目を向けると、写真たてのガラスが鈍く光っていた。
純白のドレスを纏う里古は美しい。この女を自分のものに出来るなど、学生の時には夢にも思ってなかった。
彼女の父親の事故死、そしてひとり息子を失ってから、里古の感情は不安定になり、心療内科に通って薬も乱用していた時期もあった。
多忙な毎日を送る檜垣に、妻を気遣う余裕などないし、かまいたいとも思わなかった。
若かりし頃に抱いていた甘い想いは、憎しみに変わったからだ。
冬亜を用意したのは、鬱病を患った里古のためではなく、子どもの存在がこの家に必要だったからだ。
最初は反対していた里古だったが、渋々首を縦に振ったのは『檜垣家』を守るためだと、半ば脅したに過ぎないからだ。
女と言うのは不思議な生き物だと思った。 幼い子どもを前にすると、母性が自然と顔をだす。冬亜の世話をすることで徐々に明るくなった──はずだったが、再び里古の様子がおかしくなった。
口数も少なくなり、笑わなくなった。冬亜の世話はするものの、一緒に遊んだり本を読み聞かすことも減った。日々成長する冬亜もそんな里古に興味がないのか、自ら歩み寄ることもせず、心を閉ざした陰気な子どもになってしまった。
ふと手のひらを見つめ、怯えた目で檜垣を見上げる幼い顔をそこへ投影した。
大人の大きな手のひらは、いとも簡単に小さな命を奪うことができる。それを知った時、生まれて初めて芯からの恐怖を味わった。
階段を転がる幼い体は、鞠が跳ねるように一階まで落下した。小さな手には保育園で描いたのか、家族の自画像が握り締められていた。慌てて駆け寄って掬い上げたが、小さな体はもう息をしていなかった。
里古を愛し過ぎ、真実を知った時には、カードを表から裏に返すように愛情は簡単に憎悪へと変わった。
幼い命をこの手で奪っても、悲しみや懺悔は感じられず、今の自分の地位から失脚しないようにと意識し、気を張った。
刷り込まれて行くうちに膨らんでいった虚像は、地位と世間体が全てになった自分を守ろうと、小さな命を金で始末した。
自分に非はない、裏切ったのはどっちだと自分を奮い立たせながら。
それよりも今は吉織を大人しくさせておかなければならない。
「言葉も知らない人間をまた集めるのか……」
嘆息を漏らしながら呟くと、胸元でスマホが震え、取り出した画面を見て檜垣は頬を上げた。
「もしもし──ああ、そうだ。いや、日本語がわからなくてもいい。健康であれば。ああ、その人数でいい」
短い会話を終えると、檜垣は里古の部屋を気にした。
自分に冷たい夫が祖父の会社の後を継いでも、興味がないのか仕事の話は一切してこない。呑気なお嬢様は、会社を乗っ取られるなど夢にも思ってないのだろう。
まあ、そうなったらなったで自業自得だな……。
檜垣は
手をくださずとも、祖父の命はもう短い……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます