檜垣の過去

 まだ降ってたのか……。

 窓の外に広がる常夜の空から、突き刺さるような無数の雫が舞い落ちている。

 滝行のように全身を雨粒に晒せば、この身を浄化してくれるのだろうか。

 それが出来ていれば、自分にはまた違った生き方ができたのかもしれない。

 慈雨が人間にも効果があるのなら、過去の自分をも満たしてくれただろうか。

 車の後部座席に躯体を沈めると、檜垣は闇を眺めながら馬鹿げたことを考えていた。


 学生の頃からの我田引水なところは一生治らない。料亭で吉織と差し向かう度にそれを思い知らされる。

 一、二ヶ月に一度、密談のような依頼と一緒に、確認作業のように突き付けてくる過去。お前の弱みは自分が握っているのだと、ほくそ笑む顔をひそめて。


 吉織がかわいい後輩だったのは遥か昔のことで、今では歳を重ねた分、可愛げのある様は疑念や駆け引きで凝り固まってしまった。

 吉織と会う理由は仕事の話しが殆どだ。それもいつも無理難題を奴は言ってくる。

 今回の話もこちらが首を縦に振るまで、嘆願を装う命令は終焉を迎えなかっただろう。

 強気に出る姿勢は、手綱を握っているのは自分なんだと言う現れからだ。


 それならそれで、見合うように振る舞ってやるだけだ。そうすれば、吉織の口は貝のように閉ざされたままだ。要らぬ熱を加えると簡単に開いてしまう事も、学生からの付き合いともなればそれは既知なこと。

「そう言う意味ではかわいいのか」

 つい口を突いてでた言葉に反応した運転手が、何か仰いましたかと、ミラー越しに尋ねてきた。

 何でもないと、ひと言返すと、檜垣は急に可笑しくなり、笑いを噛み殺した。

 吉織が後生大事にしているものは、闇で生きる人間に依頼すれば塵のように吹き飛ぶ。

 未だに伝家の宝刀を突きつけてくる姿は滑稽だった。


「社長、すいません。車線規制が……。どうやら夜間工事しているようです。おまけに前方で、玉突き事故、ですかね。渋滞してます」

 高速道路の料金所を過ぎ、しばらく軽快に走っていたタイヤの速度が落ちると同時に、運転手が申し訳なさげに報告した。

「事故か……仕方ないな」

「片側車線になったうえ、この雨ですからタイヤを滑らせたんでしょうね。申し訳ありません、少し帰宅にお時間がかかってしまいます」

「かまわんよ。明日はゴルフで朝が早い、少し眠るとする」

「お疲れの体にお酒をお召しになったんです、おやすみになっていて下さい。到着しましたらお声掛けさせて頂きますので」

「ああ、頼む」

 運転手との会話を終えると、檜垣は腕時計に目をやり時間を確認した。


 時計の針は十一時を少し回ったところ。帰宅しても目を通さなければならない書類が待っている。休日をゆっくりと過ごす──そんな日がこれまでに一度だってあっただろうか。

 企業戦士と言えば聞こえもいいが、若者らすれば、カビの生えた言葉はカッコよくもなんともない。

 ただ単に、休日も仕事に追われ、休みなど無いに等しいってことだ。なのに、今では仕事をしていないと落ち着かない。哀れな戦士だ。


仕事漬けの生活に、妻も得体の知れない息子も邪魔なだけだ。檜垣の安寧の場所は、必然と自宅から遠のき、会社に近いマンションの一室となっていた。

 顔も朧げな息子がよぎったが、瞼の重みに抗えず、ゆっくり闇へと沈んだ。


 父親が若くしてこの世を去ってから、後継者となったのは大学を卒業し、医療機器メーカーに就職して間もない頃だった。

 父の跡を継ぐため、入社早々退職する羽目になった。人生の歯車が狂ったのはそこからだ。


 社員三十人ほどの小さな会社でも、二十代の若者が仕切るのはハードルが高い。

 不動産の買収や仲介を生業とする父の会社は、檜垣が景色を薄っすら見えるようになった頃にはもう、資金繰りも出来ないほどドン底状態の倒産寸前だった。


 若い後継者が四方八方へ頭を下げても、経営は儘ならない。もう会社を手放した方がいいのか、そんな囁きと葛藤してた檜垣を救ったのは里古のりことの出会いだった。

 大学の時から男性陣の目を惹く、日本人形のような里古の美しい容姿と、艶やかな黒髪は檜垣も憧れていた。


 経営者として悪戦苦闘する中、顔繋ぎに参加したパーティーで彼女と再会した。

 懐古の話しに盛り上がり、その後も度々食事をするようになった。檜垣にとって里古と会うことは、苦しい日々を埋める密かな癒しにもなっていた。

 打ちのめされる日々を救ってくれるのは、里古しかいない。そう思った時には後にも引けないほど彼女に想いを募らせていた。


 それでも経営不振が拭えなかった檜垣は、里古につい弱音を吐くと、彼女がアドバイスでもと、自分の父を紹介してくれた。

 里古の父親は大手ゼネコンの社長で、彼女は一人娘だと言うことを、檜垣はこの時初めて知った。


 現役社長の話しは有意義なもので、檜垣は大いに刺激を受けた。だが、何よりも興奮したのは、里古に婿をとって行く行くは跡を継いでもらうと言った、いわゆる逆玉の話しだった。

 それを聞き、檜垣は里古ごと檜垣グループを手に入れようと思った。

 元々、野心家な性格を秘めていた檜垣は、何度も里古の父の元へ足を運び、どんな辺境の地で悪あがきをしてきたかを面白おかしく話してみせた。


 現実は、傾いた会社を悪化させ、社員の人数が半分以下に減った末期状態だったが。それでも口上は冴え渡り、檜垣の心意気は気に入られた。そしてとうとう、里古の意思も曖昧なまま結婚は決まり、父の会社の顧客を手土産に、檜垣グループの一員となった。


 時同じくして、里古が妊娠したと、檜垣にとっていいこと尽くめだった。

 順風満帆に人生が進んでいる──そう思った矢先に足元を掬われた。


 秘書課に配属され、まとめ役についた檜垣はある日、一人の社員の不正事業を知ってしまった。

 義父の側近だった男が手を出していたのは、不法就労の外国人を密かに労働させていた事だった。

 中国人ブローカーと密通していた男は、ゼネコンと言う組織を利用し、末端の現場職人に彼らを紛れ込ませ、不当な賃金で異国の人間を雇用していた。


 こっそりと日本に入国させ、密入国者の中でも取り分け容姿が良ければ、新宿などにある如何わしい飲食店などにも派遣していた。そんな店は殆どが暴力団のフロント企業で、男は日本の荒くれた組織とも関わっていたと推測もできた。


 密入国者の殆どは在留カードを持たない者や、期限の切れた者などが主立っており、日本で稼ぎたい彼らにとっても、このやり口は悪い話ではなかったと思える。

 男も女も、成人も未成年も、中でも子どもは一番の買い手がつくらしい。

 彼らは例え不当な扱いを受けても、日本で働くことを望んでいた。ひっそりと身を置き生きている彼らを、男は利用して甘い汁を吸っていたのだ。


 男のしてきた一部始終を問い詰めると、警察沙汰にできないとこをいいことに、悪びれた様子もなく男は会社を去っていった。


 ──お前も社長あいつにこき使われて終わるだけだ。


 男の残した最後の言葉が頭から離れず、悶々とするうちに男の裏切りが義父の耳に入った。檜垣は監督不行届だと責任を取らされ、秘書室長から平社員への降格を言い渡される。 

 婿養子、会社の後継者。周りからは逆玉だと揶揄されたが、実際、里古の父はワンマンで、甘い夢などこれっぽっちも見れない日々を過ごしていた。 


 本当に社長の椅子に座れるのだろうか、そんな不安がよぎるのも里古の態度がどこかよそよそしかったせいもある。

 この頃から檜垣の中で何かが狂い、怒りややるせなさを味わう中、運命が引き合わせたように、解雇した男と偶然に再会する。

 男の話では、彼も過去に里古の婿候補と囁かれていた。実際、義父からそれらしい言葉を仄めかされたこともあったらしい。

 檜垣は男の話しを聞いているうちに、ふと、この男は何かの役に立つのでは──と脳裏を掠めた。 


 主観的に不正を犯すには、自分を正当化する理由が必要となる。そんな綺麗事を自分に言い聞かせ、檜垣は男の企みに共感し、得体の知れない異国の沼にずぶずぶと沈んだ。

 殆ど家にも帰らず、日本語を話さない連中と行動を共にしていた。

 清らかだった里古の表情は次第に翳り、でもそんな中で彼女は男児を出産した。

 生まれたての我が子を見て檜垣は我に返り、子どものためにも一から真っ当にやり直そうと、男や組織と縁を切ろうと決意した。だが、関係を断つことは、そう容易ではなかった。


 ズルズルと汚い金を稼ぎ、皮肉にも悪徒との関わりは本来持っていた野心を刺激し、手腕を発揮していた檜垣は、義父に気概を見せつけた。

 再び秘書課室長に戻って数ヶ月後、義父は車の事故で即死した。

 里古の祖父は存命だが、悪性腫瘍に侵され、長きに渡って療養中だった。そんな祖父のひと声で、檜垣はまんまと後継者となったのだ。


 事故──。

 とてもタイミングのいい、事故だったと、檜垣は密かにほくそ笑んだ。

 社長の座に就き、檜垣の日常は目まぐるしく、それでも暫くの間は平穏だったが、この状況を待ち望んでいたのは檜垣本人だけではなかった。

 ようやく、ようやく社長の椅子を手に入れた。愛しい里古との関係も修復できる。

 順風満帆の中で鉱脈を掘り当てたと言うのに、裏の人間は手ぐすねを引いてこの瞬間を待っていた。


 一度染み付いた悪事は拭うことが出来ない。数奇な運命は終わることもなく、容赦なく檜垣の精神を追い詰めてきた。

 打ちのめされた檜垣の糸は切れ、態度は豹変し、里古をぞんざいに扱うようになった。


 幼い息子が泣きだせば目を剥き、怒号を浴びせた。そうせざるを得ない理由など、口にもしたくもなかったけれど。

 予想外の悪循環が数年間続く中、ある男が檜垣家を訪ねてきた。


 三国みくに千賀弥ちかや──。 

 檜垣の住む街の役所の人間だった。

 児相の職員だった三国は、隣家からの通報を受け檜垣の家を訪ねて来た。

 ちょうど檜垣の息子が小学校へ上がる前だった。

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